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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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21.暗闇のキャンバス

 重い鉄扉を閉じた直後、あかりは廊下の闇の中で、無意識のうちにスマートフォンのカメラアプリを立ち上げていた。

 それは、長年広報として染み付いた、哀しい職業病だった。心が揺さぶられる光景に出会うと、反射的にそれを「素材」として切り取ろうとしてしまうのだ。

 あかりは、扉の小さなガラス窓越しに、スマホのレンズを向けた。

 液晶画面の枠内フレームに、遠くで膝をついている火野の小さな姿が収まる。

 あかりの指先は、長年の習慣で勝手に動いた。

 少しでも彼が「ドラマチックな悲劇のヒーロー」に見える角度はないか。

 流した汗や涙が、照明を反射して「綺麗に輝いて見える瞬間」はないか。

 無意識に露出を調整し、構図を探る。

 しかし。

 冷徹なデジタル画面に映し出された現実は、彼女の小手先の技術をあざ笑うかのように残酷だった。

 そこに写っていたのは、感動的な物語の主人公ではない。

 薄暗くノイズの乗った画質の中で、ただ苦痛に耐えかねてうずくまっている、中年選手の痛々しく、惨めな姿。

 そこには「え」も、夢も、希望も、何一つ写っていなかった。


「違う……これじゃない」

 あかりは、シャッターボタンにかけようとしていた親指を止めた。

 液晶画面の中に閉じ込められた小さな静止画からは、あの鼻の奥をツンと刺す、強烈なエアーサロンパスの刺激臭が漂ってこない。

 悔しさにまかせて床を叩いた拳の、あの鈍く重い振動も伝わってこない。

 そして何より、静寂を震わせる、あの獣のような荒い呼吸音が聞こえない。

 この空間に充満している、むせ返るような「熱量」と、身を切るような「痛み」。

 それらは、カメラというフィルターを通した瞬間、情報の欠落した冷たい2次元のピクセルデータへと、ただのデジタル記号へと劣化してしまう。

 あかりは、無力さを噛み締めるように、スマートフォンの画面を暗くした。

「写真じゃ……今の彼の本当の姿は、何ひとつ伝わらない」


 あかりは、迷いを断ち切るように、スマートフォンの裏にあるカメラレンズを、人差し指の腹でぐっと塞いだ。

 液晶画面から、あの痛々しい光景が遮断される。

 代わりにモニターを埋め尽くしたのは、完全な闇と、レンズに押し付けられた指の血流が微かに透けたような、生々しい赤黒い色だけだった。

「画像はいらない。……言葉だけでいい」

 あかりはカメラモードを終了させ、装飾の一切ない、テキスト投稿専用のキャンバスを呼び出した。

 背景色の選択パレットが表示される。

 普段の業務であれば、迷わずチームカラーの燃えるような「ブレイズ・レッド」や、清潔感と可読性を重視した「ホワイト」を選ぶ場面だ。

 だが、あかりの指は迷わなかった。

 パレットの一番端にある「ブラック」を、強くタップする。

 画面が、漆黒に染まる。

 それは、煌びやかな照明と過剰な加工フィルターで虚飾された公式Instagramの「光」の世界に対する、あかりなりの静かで、しかし完全なる決別アンチテーゼだった。


 漆黒に塗りつぶされたスマートフォンの画面。

 その左上で、一本の細い白い縦線――カーソルだけが、チカ、チカ、と呼吸をするように点滅を始めた。

 その規則的な明滅は、まるで今、壁一枚隔てた向こう側で荒い息を吐いている、傷だらけの火野の心臓の鼓動そのもののように見えた。

 弱々しいけれど、まだ止まってはいない。確かにそこで生きようとあがいている、命のリズム。

(飾らない。盛らない。私の網膜が焼き付けた光景を、見たまま、そのまま刻む)

 あかりは、深く暗い黒のキャンバスの上に、両手の親指を静かに添えた。

 その構えは、もう業務で「お知らせ」を打つ時のそれとは違っていた。

 チカ、チカ、チカ……。

 白い脈拍が、書き出しを促すように瞬いている。

 それは、彼女が「球団広報」という仮面を脱ぎ捨て、真実だけを記録する一人の「語り部」へと生まれ変わった瞬間だった。

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