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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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20.映えない真実

 あかりの脳裏で、職業病とも言える「広報担当」としての冷徹な計算機が、勝手に作動した。

 彼女は、床に蹲って嗚咽を漏らす火野の姿を、感情を排したビジネスの視点でスキャンした。

 澱んだ空気。深夜の体育館の薄暗い照明。汗と涙、鼻水にまみれて苦悶に歪む、中年選手の顔。そして、惨めなシュートミスと、無様な転倒。

 結論は、0秒で出た。

え」ない。

 もし、このありのままの映像を公式SNSに投稿したら、どうなるか。

 キラキラした勝利の夢を見たいライトなファン層は、「夢がない」「痛々しくて見ていられない」と眉をひそめ、静かにフォローを外すだろう。

 そして、数字しか見ない上司の氷室ならば、鼻で笑って冷たく切り捨てるに違いない。

「生産性のない不良債権による、無駄な悪あがきだ。そんなものを流すリソースはない」と。

 夢と希望を高値で売りさばく、商業的なスポーツエンターテインメントの世界において。

 今、目の前にある火野の姿は、決して客に見せてはいけない、残酷すぎる「舞台裏」でしかなかった。


 「えない」と冷徹に断じた頭とは裏腹に、あかりの心臓は、あばら骨を内側から叩くほど激しく、早鐘を打っていた。

 床に広がり続ける、ドス黒い汗のシミ。

 度重なる床との摩擦で薄汚れ、端がみすぼらしくほつれてしまった白いテーピング。

 そして、静寂を震わせる、獣のような荒い喘ぎ声。

 それらは決して、見苦しいものではなかった。

 どんなにスタジオのライトを浴び、綺麗に修正レタッチされた「勝利の笑顔のポスター」よりも、今のボロボロの彼の方が、恐ろしいほどに美しく、そして神々しく見えた。

「違う……これこそが、『人間』だ」

 あかりは、扉の隙間を掴む手に力を込めた。

 スマートに、涼しい顔で勝つことだけがプロフェッショナルじゃない。

 泥水を啜り、地べたを這いずり回ってでも、ただ1ミリでも前へ進もうとするその執念。

 その姿こそが、華やかな商業主義に塗りつぶされ、いつしか人々が忘れかけていた、このチームの——『名古屋ブレイズ』という名の本当の原風景そのものではないか。


 あかりは、冷たい鉄のドアノブを握りしめていた手に、指の関節が白く浮かび上がるほど強い力を込めた。

(もう、やめよう)

 彼女の中で、何かが決定的に変わった音がした。

 これまでのように、耳触りの良い「綺麗なコピー」で、このゴツゴツとした残酷な現実を塗り固めるのは、もう終わりだ。

「次こそ頑張ります」「熱い応援をお願いします」

 そんな、手垢にまみれた空虚な定型文では、目の前にあるこの重厚な痛みは、何一つ伝わらない。

 伝えるべきなのは、これだ。

 この肺を圧迫するような重苦しい空気。鼻の奥を刺すようなメンソールの刺激臭。そして、希望を打ち砕くような、絶望的な肉体の軋みと衝突音。

 これらを、何の装飾も加えず、自分勝手な解釈で翻訳することなく、そのままの形で世界に投げつけるべきなのだ。それが、広報である自分に課せられた本当の使命だ。

 あかりは、蹲る火野の背中に声をかけることはしなかった。

 彼女は呼吸を整え、音を立てないよう慎重に、けれど、これまでにない確固たる意志を込めて、ゆっくりと重い扉を閉じた。

 カチリ。

 その小さな金属音が、過去の自分との決別を告げる、静かな、しかし力強い号砲のように深夜の廊下に響いた。


 重い鉄扉が完全に閉じられると、廊下には再び、耳鳴りがするほどの静寂が舞い戻った。

 あかりは、ヒールの音を響かせながら早足で出口へと向かった。コートのポケットに手を突っ込み、冷え切った指先でスマートフォンを取り出す。

 親指で認証を行い、ロック画面を解除する。

 パッ、と暗闇の中に人工的な明かりが灯った。ディスプレイから放たれるLEDの冷たく青白い光が、能面のように強張ったあかりの顔を下から照らし出す。

 SNSアプリを起動し、慣れた手つきでアカウントの切り替えアイコンをタップした。

 表示されたのは、会社に管理されていない、世界でただ一つの彼女の場所。

『名古屋ブレイズの残り火(@Ember_of_Blaze)』

 あかりは、画面の右下に浮かぶ投稿ボタンの上に、右手の親指を滑らせた。

 先ほどまで、上司の顔色を窺い、震えていた指先。

 だが、今はもう、微塵の迷いもなかった。

「書こう」

 あかりは、青白い光の中で、決意を込めて画面をタップした。

「誰にも言えなかった……最初の真実を」

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