19.リングに嫌われる音
火野の指先から、バスケットボールが放たれた。
鈍いオレンジ色の球体が、空中の頂点へと達する。
(入れ……っ!)
あかりは祈るように奥歯を噛み締め、その軌道を目で追った。
だが、あかりの目にもそれは明らかだった。
あの拘束具のようなテーピングに膝のバネを封じられた下半身からの力が、指先まで伝わりきっていない。
回転のかかりきっていないボールは、ネットに吸い込まれるような美しいアーチを描くことを許されなかった。まるで、重力という見えない手に空中で強引に引っぱられたように、その軌道は力なく、急激に垂れ下がった。
ガンッ!!
深夜の静寂を引き裂く、硬質で暴力的な衝突音がサブアリーナに轟いた。
距離の足りなかったボールは、無慈悲にもリングの手前を激しく叩き、ゴールの枠外へと大きく弾き飛ばされた。
弾かれたボールの行方を目で追う余裕など、今の火野には残されていなかった。
ダンッ。
空中でバランスを崩したまま、百キロ近い巨体のすべてが、着地の瞬間に右足一本へとのしかかる。
「ぐっ、……ぁ!」
悲鳴ともうめき声ともつかない短い声が、火野の喉の奥から絞り出された。
限界を超えて酷使されてきた右膝の関節が、ガクン、と本来曲がってはいけない不自然な角度へと折れ曲がるのが、遠目にもはっきりと分かった。
支えを失った巨体は、もはや受け身をとることすらできない。
足をもつれさせ、たたらを踏むことさえ許されず、そのままフロアへと投げ出された。
ズドンッ――!
それは、バスケットボールの試合で聞かれるような、軽快なシューズの摩擦音や、すぐに次の動作へ移るための戦略的なスライディングの音ではなかった。
ただ重力に従って肉塊が床に叩きつけられる、鈍く、重い、絶望的な落下音。
あかりの目には、それがトップアスリートの姿とは到底思えなかった。
まるで、森の奥深くで悠久の時を生きてきた巨大な古木が、ついにその寿命を迎え、自らの重みに耐えきれず、メキメキと音を立てて大地に崩れ落ちていく――そんな痛々しい「崩落」の光景を見ているようだった。
火野は、うつ伏せに倒れ込んだまま、起き上がろうとしなかった。
その代わり、汗で濡れた右の掌を、握り拳にして思い切り床に叩きつけた。
バンッ!!
静寂を破る破裂音。
一度ではない。二度、三度。やり場のない激情をぶつけるように、彼はフロアを殴り続けた。
「くそっ……!動けよ……ッ!なんでだよ……!!」
彼の視線は、ボールが弾かれた頭上のリングなど向いていなかった。
彼が血走った目で憎々しげに睨みつけているのは、あの白いテープでぐるぐる巻きにされ、鉛のように重く、言うことを聞かなくなった自分自身の右足だった。
「あと少しなんだ……あと、少しだけでいい……保ってくれよ……頼むから……」
荒々しい怒号は、次第に震えるような弱々しい懇願へと変わっていく。
それは、長年苦楽を共にしてきた「肉体」という最高の相棒に対する、あまりにも悲しい決別宣言のようにも聞こえた。
叩きつけた拳の音が消えると、広大なアリーナを支配したのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。
だが、それは先ほどまでの、凛とした静けさとは質が違っていた。
『ハァ……、ハァ……ッ、……ウゥ……』
床に這いつくばったまま、激しく上下する背中から漏れるその呼吸音。
それは、手負いの獣が敵を威嚇する唸り声のようでもあり――そして、迷子になった子供が必死に声を押し殺す、震える嗚咽のようでもあった。
顎を伝う滴が、ポタ、ポタ、とワックスの効いた床に落ち、黒い染みを作っていく。
それが、限界まで流した汗なのか、それとも止めどなく溢れる涙なのか、もう区別がつかなかった。
誰もいない――そう信じている冷たい空間の真ん中で。
常勝チームの象徴だった英雄は、キャプテンという重い鎧を初めて脱ぎ捨て、ただの「老いていく一人の人間」として、小さく蹲っていた。




