1.スニーカーのスキール音
「62 - 80」
名城パークアリーナのセンタービジョンに灯る赤い数字が、残酷な現実を突きつけていた。
第4クォーター、残り2分15秒。
バスケットボールにおいて、残り2分で18点差は絶望的だ。いわゆる「ガベージタイム(ゴミのような時間)」――勝敗が決した後の、ただ消化するためだけの時間が流れている。
タイムアウトが明け、試合再開のブザーが鳴る。
それまで会場を煽っていたアップテンポなBGMが、ふつりと止んだ。
本来なら、ここでアリーナMCが「ディフェンス!」と声を枯らし、ブースターが割れんばかりの手拍子で応えるはずの瞬間だ。四千人の作り出す「音の壁」が、相手チームにプレッシャーを与えるはずだった。
だが、今夜は違う。
訪れた空白を支配したのは、熱狂ではなかった。
キュッ、ガッ、キュキュッ――。
広く薄暗いアリーナに響き渡ったのは、ゴム底のバッシュがワックスの効いたフロアを激しく擦る、乾いた摩擦音(スキール音)だけ。
ダム、ダム、という重いドリブルの音が、反響しながら虚しく天井へ吸い込まれていく。
「戻れ! バックコート戻れよ!!」
「ハァッ、ハァッ、グッ……」
ヘッドコーチの怒号や、ボールを追う選手たちの苦しげな呼吸音が、マイクを通さずに直接、コートサイドの記者席に座る湊あかりの耳朶を打った。
本来なら大歓声にかき消されて聞こえるはずのない「生音」。
それがここまで鮮明に聞こえてしまうという事実は、ここにはもう、熱狂的な観客がいないという証明に他ならない。
あかりは、そのあまりに「生々しい音」に、背筋が寒くなるのを感じた。
これは、夢を見せるプロの興行ではない。ただの大男たちが走り回る、部活動の延長戦だ。
音楽も歓声も剥ぎ取られたアリーナは、こんなにも広く、そして寒々しい場所だったのか。
「……あってはならない静けさだわ」
あかりは無意識に、PCのキーボードに置いていた指を止めていた。
その静寂は、ブーイングを浴びるよりも遥かに深く、チームの死を予感させるものだった。
ゴゴーッ、という地鳴りのような重低音が、あかりの背後から湧き上がってきた。
それは、勝利を信じる足踏みなどではない。
名城パークアリーナ特有の、あの古く急勾配なコンクリートの階段を、何百人という人間が一斉に降りていく「撤収」の足音だった。
コート上では、相手チームの選手がフリースローラインに立っている。
本来なら、ブーイングを飛ばすか、あるいは静寂の中でプレッシャーをかけるべき攻防の瞬間。だが、観客席の動きは止まらない。
赤いユニフォームを着たブースターたちは、ボールの行方になど目もくれず、バタバタと席を立ち、荷物を抱えて通路へと急いでいる。
薄暗いアリーナの四隅にある出口扉が開け放たれ、そこからロビーの明るく白い光が差し込んでいる。
その光に向かって、チームカラーである「赤」を纏った人々が、次々と吸い込まれるように流れていく。
その光景は、あかりの目にはあまりに残酷に映った。
まるで、アリーナという巨大な生き物が致命傷を負い、その傷口から鮮血がどくどくと流れ出していくようだ。
チームの命そのものである「熱狂」が、外の世界へと流出していく。止血する術は、今のブレイズにはない。
「……まだ、試合中なのに」
あかりの唇から漏れた悲痛な呟きは、帰路につく人々の喧騒と、相手が冷静に沈めたフリースローの音にかき消された。
その時、コートの隅へ転がっていくルーズボールに、白い影が飛び込んだ。
今季加入したばかりの高卒ルーキーだ。
点差は十八点。残り時間はわずか。勝敗は決している。誰もが「流す」場面だ。
だが、彼だけは諦めていなかった。
サイドラインを割ろうとするボールに対し、躊躇なく頭からフロアへ突っ込む。
『ダンッ!』
木製の床に生身の体を打ち付ける鈍い音と、激しい摩擦音が響く。
彼は痛みになど構わず、長い腕を伸ばしてボールをコート内へと執念で弾き返した。
気迫あふれるビッグプレー。
本来ならば、この日一番の大歓声が上がり、アリーナの空気が一変して、流れ(モメンタム)を引き寄せるはずの瞬間だ。
あかりも思わず腰を浮かせかけた。
しかし――返ってきたのは、熱狂ではなかった。
パチ、パチ、パチ……。
去り際についでのように鳴らされた、乾いた拍手。
それも、すぐに帰り支度の衣擦れの音にかき消されてしまうほど、まばらで力のないものだった。
ルーキーは床に手をついて起き上がり、荒い息を吐きながら、期待を込めた眼差しで客席を見上げた。
自分の体を張ったプレーが、誰かに届いたことを確認したかったのだろう。
けれど、彼の視線の先にいた観客たちは、もうコートを見ていなかった。
彼らの視線は、手元のスマートフォンの時刻表示や、混雑し始めた出口の状況に向けられている。「早く帰らないと駐車場が混むな」、そんな心の声が聞こえてきそうなほど、その背中は冷淡だった。
あかりは見てしまった。
汗に濡れたルーキーの瞳から、ふっ、と光が消える瞬間を。
彼は小さく肩を落とし、痛む脇腹を押さえながら無言で守備に戻っていく。
その背中には、「何をしても無駄なんだ」という諦めの色が、濃い影となって張り付いていた。
「……見ちゃいけない」
あかりは反射的に、力なく走り去るルーキーの背中から目を背けた。
直視してはいけなかった。
あの瞬間に立ち会ってしまった罪悪感と、コート上の熱意が客席の冷気によって無惨に殺されていく現実。これ以上、この残酷な乖離を見つめ続けていたら、広報担当としての私の心まで、ポッキリと折れてしまいそうになる。
あかりは逃げるように、意識をデスクの上のノートPCへと強制的に戻した。
視界を、四角い液晶フレームの中だけに限定する。
そこにあるのは、感情を持たない無機質な世界だ。エクセルのセルに並ぶ、得点やリバウンド数の数字。そして、次の言葉を急かすように、規則正しく明滅を繰り返すテキストカーソルだけ。
ザッ、ザッ、ザッ……。
背後からはまだ、チームを見限った人々が帰路につく足音が、絶え間なく聞こえてくる。その音は、まるで私たちの敗北をカウントダウンする秒針のようだ。
聞きたくない。
あかりは奥歯を噛み締め、キーボードを叩く指先に、怒りに近い力を込めた。
『タッ、タターンッ!』
乾いた打鍵音で、背後のノイズを物理的に搔き消す。
今はただの入力マシーンになるしかない。そうでもしなければ、この場に踏みとどまることさえできそうになかった。




