表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
18/41

17.深夜の律動

 壁掛けの時計の針は、とうに午前一時の境界線を越え、いわゆる「二十五時」の世界を刻んでいた。

 あかりは大きく伸びをして、凝り固まった肩を回すと、ようやく残業を終えて席を立った。

 廊下に出る。パチン、と照明のスイッチを落とすと、背後で長い廊下が闇に沈んだ。

 深夜のクラブハウス棟は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。空調のファンも停止し、聞こえるのは自分のヒールがリノリウムの床を叩く、乾いたコツ、コツ、という音だけ。

 完全な静寂――のはずだった。

 しかし、一階の通用口へ向かう階段を降り、出口に近づくにつれて、あかりの足がふと止まった。

 耳ではなく、靴のソール越しに、微かな振動が伝わってきたからだ。

 ズン……ズン……。

 床下から這い上がってくるような、不気味な重低音。

 あかりが耳を澄ませると、その振動は次第に明確な「音」の輪郭を帯びてきた。

『ダム、ダム、ダム……』

 一定のリズムで繰り返される、重く、どこか湿り気を帯びた打撃音。

 最初は、どこかの配管が故障して鳴っているのかと思った。

 けれど、その不規則なようでいて、意志の介在する独特のを認識した瞬間、あかりの脳内で正解が弾き出された。

(バスケットボール……?)

 それは、硬いボールがフロアを激しく叩く、ドリブルの音だ。

 あかりは眉をひそめ、暗い廊下の先にある体育館への扉を見つめた。

「嘘……こんな時間に?」


 音の発生源は、メインアリーナのさらに奥、普段は若手選手やリハビリ組が使用する「サブコート(第二練習場)」だった。

 あかりは、コンクリートの壁に囲まれた薄暗い通路を進み、サブコートの入り口にある分厚い防火扉の前に立った。

 ここまで来ると、音はもう振動ではない。

 ダム、ダム、ッターン!キュッ、キュキュッ!

 床を叩きつけるボールの重い打撃音に混じって、バッシュのゴム底がフロアを激しく擦る、悲鳴のようなスキール音が鼓膜を直接揺さぶった。

 ゴクリ、と喉を鳴らし、あかりは冷え切った鉄製のドアノブに手をかけた。

 ゆっくりと、力を込めて回す。

 カチャン、とラッチが外れ、重い扉が数センチだけ開いた、その瞬間。

「……っ!」

 隙間から、密閉されていた冷たい空気の塊と共に、強烈な刺激臭が噴き出してきた。

 あかりは思わず顔をしかめ、鼻の奥をツンと刺す痛みに息を止めた。

 それは、スポーツジムで嗅ぐような、若者たちの健康的な汗の匂いではない。

 もっと鋭利で、人工的で、鼻腔を焼くような――大量のエアーサロンパス、あの揮発性の高い消炎鎮痛剤特有の、目に染みるほどの強烈なメンソールの匂いだった。

(これは、元気な若手の自主練なんかじゃない)

 あかりの直感が、警鐘を鳴らす。

 この扉の向こうに充満しているのは、未来への希望に満ちた熱気ではない。

 悲痛なまでの痛みを、大量の薬品で無理やり麻痺させて絞り出している、「薬漬けの執念」の匂いだった。


 あかりは、錆びついた蝶番が音を立てないよう慎重に、重い鉄扉を数センチだけ押し開いた。

 途端に、暗い廊下の闇を切り裂くように、鋭く真っ直ぐな一筋の光が差し込んできた。あかりは、その細い光の帯の先へ目を凝らす。

 そこにいたのは、出場機会プレータイムに飢え、有り余る体力を発散させている翔太のような若手選手の姿ではない。

 光の先に浮かび上がったシルエットは、それよりも一回り大きく、そして重厚な背中。

 チーム最年長、三十四歳のキャプテン・火野だ。

 誰もいない広大なコートの中央で、彼はたった一人、見えない敵と戦っていた。

 まるで目の前に強大なディフェンダーが実在するかのような、鬼気迫る形相。激しいダッシュから急停止し、架空の相手をかわすフェイントの動きを、何度も、何度も繰り返している。

 身につけた練習着は、限界まで吸い込んだ汗の量で重く垂れ下がり、筋肉の隆起した背中や肩にべっとりと張り付いている。

 彼がどれほどの長時間、この孤独で過酷な反復練習を続けていたのか。その壮絶な姿が、無言のうちに物語っていた。


 派手なダンクシュートでも、見ていて気持ちのいい鮮やかなスリーポイントでもない。

 彼が黙々と繰り返していたのは、地を這うような地味なフットワークと、そこからわざと体勢を崩して放つ、苦しいミドルシュートだけだった。

 ダムッ、……バシュッ。

 ネットが揺れる乾いた音が響く。

 けれど、シュートが決まっても、火野の表情は微塵も緩まない。ガッツポーズもしない。

 彼はすぐに自分でこぼれたボールを拾うと、走って元の位置に戻り、一秒の休みもなく、また同じ構えに入る。

 そこに、観客を沸かせようという色気は一切ない。誰に見せるためでも、誰に褒められるためでもない。

 ただ、実戦の極限状態で顔を出す「できない自分」を、この無限の反復動作ですり潰して殺すためだけの、孤独で残酷な儀式。

「……っ」

 あかりは、冷気が吹き出す扉を閉じることも忘れ、その圧倒的に壮絶な「地味さ」に、ただただ魅入っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ