16.ボット扱いの通知
あかりは、祈るような、あるいは諦めのような気持ちで、ブログの「公開」ボタンをクリックした。
その人差し指がマウスから離れるか離れないか――ほんのコンマ数秒の刹那だった。
画面の右下に、通知のポップアップが鋭く躍り出た。
一番乗りで反応したのは、見慣れたアイコンだった。
チームのエンブレムをそのまま使用している、誰よりもブレイズを愛する古参の熱烈ブースター、『名古屋の赤鬼』さんだ。
どんなにチームが負けていても、普段なら「次こそ勝とう!」「信じてるぞ!」と、誰よりも熱く、温かい言葉で選手を鼓舞してくれる彼。
けれど、今日、その通知欄に表示された文字列は、あまりに短く、冷たかった。
『またこれか。定型文乙』
あかりの心臓が早鐘を打つ。
記事の中身をじっくり読む時間などないはずのタイミングだ。
つまり、トップに置かれた「笑顔の嘘写真」と、冒頭の「チケット購入ボタン」を目にした瞬間の、脊髄反射的な拒絶反応。
その恐ろしいまでの反応速度は、彼が深夜までPCの前でブラウザの更新ボタンを押し続け、チームからの「本当の言葉」をどれだけ飢えるように待ち構えていたか――そして、その期待が一瞬にして裏切られた失望がいかに深かったかを、残酷なほど雄弁に物語っていた。
通知音は、最初の一回では終わらなかった。
まるで決壊したダムのように、次々と新しいコメントがタイムラインに流れ込んでくる。それらはすべて、鋭い棘を持った批判の言葉だった。
『中の人、やる気ある?』
『5連敗した翌日の朝イチでチケットの宣伝とか、神経疑うわ。ファンなめてんの?』
そして、あかりの心を最も深く抉ったのは、冷ややかな推測の言葉だった。
『最近のブレイズ、もしかしてAIかロボットが運営してるの? 記事に温度感ゼロなんですけど』
あかりは、マウスがミシミシと音を立てるほど強く握りしめた。
悔しさで視界が歪む。
「ロボットなんかじゃ……ない」
あかりは、モニターに向かって声を震わせた。
「私は……ここにいて、みんなと同じように悔しくて、泣きそうになりながら打ってるのに……!」
けれど、インターネットの向こう側にいるファンには、あかりが流す涙も、怒りで震える指先も見えない。
画面に表示された、氷室によって整形された無機質なテキストこそが全てだ。
彼らの目には、今の広報・湊あかりは、血の通った人間ではなく、ただ定型文を吐き出し続ける「心のないプログラム」にしか映っていなかった。
あかりは、震える手でマウスを操作し、ブラウザのタブの右端にある小さな「×」ボタンにカーソルを合わせた。
通知音は鳴り止まない。
これ以上、タイムラインを眺めていたら、心がポキリと音を立てて折れてしまいそうだった。
「これは上の指示なんです」
「私の本意じゃないんです」
喉まで出かかった言い訳を、あかりは奥歯を噛み締めて、無理やり飲み込んだ。
そんなことを叫んだところで、ファンに届いた「冷たい定型文」という事実は変わらない。むしろ、責任転嫁をする広報など、彼らをさらに失望させるだけだ。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で、あかりは小さく呟いた。
カチッ。
指先に力を込め、タブを閉じる。
嵐のような批判の言葉が、画面から消えた。しかし、その残響は耳の奥にこびりついて離れない。
彼らの怒りは、もっともだ。
勝利への渇望も、敗北の悔しさも削ぎ落とされた、こんな空っぽなアカウントには、ブースターが熱狂する価値も、対話をする意味さえも、もう残っていない。
あかりは、ファンから投げつけられた罵倒を、今の自分とチームに対する「正当な評価」として、甘んじて受け入れた。
あかりは、周囲の視線を盗むようにして、デスクの下に置いたトートバッグの奥へと手を滑り込ませた。
指先が、硬質な私物のスマートフォンを探り当てる。彼女はそれを、祈るように、あるいは隠し持った凶器の感触を確かめるように、強く握りしめた。
空調が効きすぎたオフィスの空気は、冬のように冷え切っている。
けれど、掌の中にあるその黒い長方形のデバイスだけが、まるでそれ自体が独立した心臓を持って脈打っているかのように、じんわりと熱を帯びている気がした。
この薄いガラスの向こう側に、まだ世界の誰にも知られていない、あかりだけの秘密の拠点――『残り火日誌』のアカウントが眠っている。
(本当の言葉は、もう、ここには一滴も残っていない)
あかりは顔を上げ、何食わぬ顔で、先ほど自らの手で魂を抜いた公式ブログの画面を見つめた。表面上は、感情を殺した能面のような無表情を保っている。
けれど、その瞳の奥底、誰にも覗けない深い場所だけで、反逆の火種のような鋭い光がギラリと一瞬だけ瞬いた。
(夜になったら……会社の管理が及ばない時間になったら、全部、本当のことを話すから。だから、お願い。待ってて)
心の中で、失望させてしまったファンたちへ向けて、密やかな誓いを立てる。
あかりは、その危険な「起爆装置」を行儀よくバッグの底深くへと押し込むと、小さく息を吐き、何事もなかったように次の業務――無機質な数字が並ぶだけのExcelファイルへと、マウスのカーソルを合わせた。




