15.赤ペンの虐殺
ピコン。
送信ボタンを押してから、わずか三分後。
チャットツールの乾いた通知音が、あかりの淡い期待を切り裂いた。
『氷室:確認しました。修正案を添付します』
「えっ……もう?」
あかりは目を疑い、ディスプレイの隅にある時計と、チャットの送信時刻を何度も見比べた。
間違いなく、三分しか経っていない。
火野のインタビュー記事は、二千文字を超える長文だ。
彼が言葉に詰まりながら紡いだ苦悩や、行間に滲む泥臭い決意。それらを汲み取り、咀嚼しながら読めば、どう早くても五分はかかる分量のはずだ。
それを、たった三分で確認して、修正案まで作って送り返してきた。
その事実は、たった一つの残酷な答えを示していた。
中身を、読んでいない。
あるいは、冒頭の数行を眺めただけで「読む価値なし」と即座に切り捨てたか。
あかりの胃のあたりに、冷たい鉛のような塊が落ちる。
嫌な予感しかしない。
あかりは、マウスを握る指先を強張らせながら、添付されたWordファイルをダブルクリックした。
Wordのウィンドウが開き、ドキュメントが表示されたその瞬間。
あかりは反射的に、画面から顔を背けそうになった。
画面が、赤い。
白い背景が見えないほど、おびただしい量の「赤字」で埋め尽くされている。
マイクロソフト・ワードの「変更履歴の記録」機能。その冷徹な修正ペンによって、あかりが心血を注いで紡ぎ出した文章の八割が、無慈悲な取り消し線で抹消されていた。
特に、あかりが何度も音声を再生し、その沈黙の意味まで汲み取ろうとした箇所――『泥臭く這い上がる』『ブレイズの誇り』といった、火野の魂が込められた情緒的なパートは、一行たりとも残されていなかった。
画面を横切る無数の赤いライン。
それはまるで、試合でボロボロになり、満身創痍で戦ったキャプテンの傷だらけの身体の上から、さらに鋭利な刃物で、新たな鮮血の傷を刻み込むような所業に見えた。
あかりの視線が、赤い取り消し線の横、画面の右側に表示されているコメント欄へと吸い寄せられた。
そこには、氷室からの冷徹な指摘が、無機質なフォントで記されていた。
『このパラグラフ、全て削除。精神論は不要です』
あかりの呼吸が止まる。
ポエム。
氷室は、火野が血を吐くような思いで絞り出した覚悟を、そう断じたのだ。
『読者が求めているのは、敗者の見苦しい愚痴ではありません。次こそ勝てるという、勝利への確証です』
さらに、別の吹き出しには、ビジネスライクな問いかけが並んでいた。
『この記事のKGIはどこに設定されていますか?読者を感動させることですか?違います。チケット購入ページへの遷移と、CVです』
KGI。CV。
あかりのマウスを握る手が、カタカタと音を立てて震え出した。それは恐怖からではない。腹の底から湧き上がる、抑えきれない怒りからだった。
「ポエム……?」
あかりは、誰もいないオフィスで、画面に向かって呻くように声を漏らした。
「命を削って……身体を壊してまで戦ってる選手たちの言葉が、ポエムなわけないじゃない!」
スマートなビジネス用語で武装されたその指摘は、あかりのプライドだけでなく、コートで戦う選手たちの人生そのものを「無価値なもの」と嘲笑う、最大級の侮辱だった。
怒りで震える指先を抑え、あかりはさらに下のコメント欄へとスクロールした。
そこには、記事のレイアウトと構成に対する、さらに具体的な、そして絶望的な命令が並んでいた。
『長すぎます。今のユーザーは長文など読みません』
火野の苦悩が滲み出るような、あの長い沈黙の間も、言葉を探して彷徨う息遣いも、全てが無駄なノイズとして切り捨てられている。
『スマートフォンで閲覧した際、1スクロールで読み終わる長さに要約してください。結論=次の試合への意気込みだけを残せば十分です』
そして、とどめの一撃となる指示が続く。
『記事の最上部、見出しの直下に、チケット購入ページへの導線(巨大なリンクボタン)を配置すること』
『トップの写真は、こんな暗いものではなく、過去の素材から「笑顔」のものに差し替えてください』
5連敗中で、キャプテンが泣きながら這い上がろうとしている時に、「笑顔の写真」でチケットを買えと迫る。
それはもはや、ファンに対する詐欺であり、戦っている選手への冒涜だった。
「導線」というビジネス用語が、あかりには、読者を無理やり財布へと引きずっていくための冷たい「鎖」のように見えた。
あかりのマウスカーソルが、Wordのメニューバーにある「承諾」ボタンの上で止まる。
これをクリックすれば、赤い取り消し線が引かれた火野の熱い言葉は、デジタルの海から完全に消滅する。
後に残るのは、魂の抜けた抜け殻のような要約文と、笑顔の嘘写真、そして巨大な購入ボタンだけが並ぶ、ただの「広告バナー」のような記事だ。
「……っ」
押したくない。絶対に。
けれど、一介の広報担当者に、編集長である氷室の決定を覆す権限などない。拒否権はないのだ。
視界がじわりと滲んだ。
あかりは、溢れそうになる涙を堪えながら、震える人差し指でマウスをクリックした。
カチッ。
画面が一瞬ちらつき、赤い取り消し線が引かれていた『泥臭く這い上がる』という一文が、跡形もなく消え去った。
あかりは、歯を食い縛りながら、機械的にクリックを続けた。
カチッ、カチッ、カチッ。
その乾いた音が響くたび、彼女は自らの手で、尊敬するキャプテンの大切な言葉を、一つ、また一つと殺していった。




