13.残り火、点火
あかりは、意を決したようにマウスを握り直すと、カーソルを画面の左下へと滑らせた。
スタートメニューを開き、電源オプションから『ログアウト』を選択する。
ためらいはなかった。
プン。
短い電子音と共に、モニターの明かりが落ちる。
それまで画面の中央で威圧的に輝いていた、会社のロゴマークがふっと消失し、漆黒の闇に飲み込まれた。
ブゥゥゥン……プシュッ。
深夜のオフィスに響き続けていたPCの冷却ファンの回転音が、力尽きたように止まる。
後に残ったのは、耳が痛くなるほどの、深く重い静寂だけだった。
それは、単なるパソコンのシャットダウンではない。
彼女が、「名古屋ブレイズ広報担当・湊あかり」という安全な鎧を脱ぎ捨て、組織の歯車であることをやめた儀式の完了音だった。
「ここからは、業務外」
暗転したモニターに映る自分自身の瞳を見つめながら、あかりは小さく、けれど力強く呟いた。
「……もう、誰の許可もいらない」
あかりは心臓を跳ねさせ、誰もいないはずなのに、周囲をキョロキョロと見渡す。その手つきは、まさに証拠隠滅を図る犯人のように挙動不審だった。
SNSアプリを起動し、『アカウント追加』の画面を開く。
先ほど作成したばかりの裏アカウント『残り火日誌』。そこに、画像を投稿するためのプラスボタンが表示されている。
あとは、押すだけ。
たったそれだけのことなのに、画面の上に浮かせた右手の親指が、小刻みに震えて止まらない。
脳裏に、入社研修の時に配られた分厚いファイル――『就業規則』の無機質な活字が、赤い警告灯のように激しく点滅し始める。
『情報の目的外使用の禁止』
『機密情報の漏洩』
『懲戒解雇』
会社支給のPCにある画像を、個人の端末で発信する。それは明確なルール違反であり、背任行為だ。
雨の日も風の日も、泥だらけになって走り回り、三年間必死に積み上げてきた「広報・湊あかり」としてのキャリアと信用。
それら全てが、このガラス面へのワンタップで、音もなく消し飛ぶかもしれない。
その想像を絶する恐怖が、見えない鎖となって指先に絡みつき、あかりの動きを完全に凍りつかせた。
指先の震えは、まだ止まらない。
キャリアを失う恐怖が、冷たい鎖のように心臓を締め付けている。
けれど、その強張った背中を、先ほど触れたモニターの熱が――あの冷たい「未公開フォルダ」の底で、泥と汗にまみれて燻っていた情熱が、強く押し出した。
(この火を、消しちゃいけない。誰かが継がなきゃいけない)
あかりは深く息を吐き、意を決してフリック入力を始めた。
名前:『名古屋ブレイズの残り火』
公式が掲げるような、華々しく燃え盛る「炎」ではない。誰にも気づかれず、冷たい灰の中で消えかかっている、最後の小さな火種。それが今の彼らであり、今の私だ。
ユーザーID:『@Ember_of_Blaze』
続いて、プロフィール画像の選択画面に移る。あかりは迷わず、カメラロールの奥にしまってあった、ある一枚の写真を選んだ。
それは、試合が終わり、観客が一人残らず去った後の、深夜のアリーナの写真だった。
熱狂の余韻は跡形もなく消え、煌びやかな演出照明もすべて落とされている。広大なコンクリートの闇の中で、非常口を示す誘導灯の緑色の光だけが、ポツン、ポツンと静かに息づいている光景。
「今はまだ、この小さな緑の光だけ」
あかりは、スマホの画面の中の、頼りない光を見つめた。
「でも、これは非常口の光であり……きっと、新しい場所への入り口の光でもある」
ここから逃げ出すためじゃない。ここから、もう一度始めるための光だ。
あかりが選択ボタンを押すと、四角い写真がアプリの仕様に合わせて、クルリと円形のアイコンに切り取られた。
その瞬間、あかりの指先から、迷いは嘘のように消え去っていた。
……生まれた。
上司の顔色をうかがう必要もない。承認ボタンがグレーアウトしていて絶望することもない。
世界にたった一つ、誰にも管理されない、あかりだけの自由な場所。
あかりは息を整え、右下の+ボタンを押して、最初の投稿画面を開いた。
真っ白な背景の中で、黒いカーソルがチカチカと点滅し、何か言葉を紡げと急かしている。
フォロワーは「0」。
まだ誰も見ていない。広いネットの海に浮かぶ無人島のようなアカウント。
けれど、あかりの胸には、もう消えることのない確かな火が灯っていた。
あかりはフリック入力で、最初の言葉を刻み込む。それは、誰かへの挨拶ではなく、自分自身への誓いだ。
『公式が伝えないなら、私が勝手に伝える。
これが最後の悪あがきだとしても』
たった二行の、短い宣戦布告。
あかりは画面右上の『投稿』ボタンを見据えた。
先ほどまで恐怖で硬直していた指先は、もう微塵も震えていなかった。
彼女は、自身のキャリアと退路を断つそのスイッチを、力強く、迷いなくタップした。




