12.未公開フォルダの熱
彼女は吸い寄せられるように、マウスを揺らす。スリープモードに入っていたモニターが、パッと白く覚醒し、あかりの顔を照らし出す。
カーソルが向かった先は、厳重に管理された業務用の共有サーバーではない。
誰の監視の目にも触れない、ローカルデスクトップの片隅にひっそりと置かれた、たった一つのフォルダだ。
『個人用_選定外』
それは、「ピンボケ」「画角不良」「表情が暗い」――そんな理由で公式には使えず、かといってあかりが個人的な未練で削除することもできなかった、無数の「ボツ写真」たちが眠る墓場。
あかりは震える指で、そのパンドラの箱をダブルクリックした。
フォルダが開くと、画面いっぱいに薄暗いサムネイル画像が展開された。
そこに並んでいたのは、およそプロスポーツチームの公式インスタグラムに載るような、華やかで「映える」写真とは程遠い、生々しい記録の数々だった。
あかりの視線が、一枚の写真に吸い寄せられる。ファイル名は『05_Cpt_Cry.jpg』。
試合後のベンチ裏だ。チームを支える精神的支柱、キャプテンの火野が、タオルを頭からすっぽりと被り、パイプ椅子に深く沈み込んでいる。人目も憚らず漏らした嗚咽によって、タオルの下にあるその広い背中と肩が、小刻みに、しかし激しく震えているのが、静止画からも痛いほど伝わってきた。
その隣にあるのは、『12_Leg_Tape.jpg』。
顔は写っていない。クローズアップされているのは、あるベテラン選手の足だけだ。激しい接触プレーでできたのだろう、どす黒い痣と、剥がしたばかりのテーピングの粘着痕が無数に残る肌。長年の酷使によって変形し、傷だらけになったその足は、まるで風雪に耐え抜いた古木の樹皮のようにゴツゴツとして、痛々しいまでの迫力があった。
そして、あかりが最も直視するのをためらった一枚。『Last_Bow.jpg』。
ホームゲームでの無様な敗戦後。容赦ないブーイングが飛び交う客席に向かって、選手全員が一列に並び、九十度の角度で深々と頭を下げている。その表情は、うなだれた頭で見えない。けれど、彼らのズボンの横で、血管が浮き出るほど固く握りしめられた拳が、言葉にならない悔しさと屈辱を何よりも雄弁に物語っていた。
これらの「傷だらけのギャラリー」を見つめるあかりの脳内で、あの冷徹な声が、暴力的なフラッシュバックとなって再生される。
氷室が、企画会議でこれらの写真を一瞥した時に吐き捨てた言葉だ。
『暗い』
『汚い』
『こんな惨めな敗者の記録など、誰も見たくない。捨てなさい』
あかりは、マウスを持つ手を止め、ある一枚の画像をダブルクリックして拡大表示した。
それは、華麗なシュートシーンでも、観客を沸かせる豪快なダンクでもなかった。
床に這いつくばり、髪を振り乱して、コート外へ飛び出しそうなルーズボールに飛びついた、その一瞬を切り取ったカットだ。
選手の顔は苦痛と執念で歪み、汗で重くなったユニフォームが肌に張り付いている。肘には、フロアで激しく擦った摩擦傷が赤く滲んでいた。
氷室なら、これを「見苦しい」「商品価値がない」と一蹴するだろう。
けれど。
ドクン。
あかりの心臓が、その静止画を見た瞬間、確かに大きく跳ねた。理屈ではない、本能的な反応だった。
「違う。……これは『汚い』んじゃない」
あかりは画面の中の、鬼気迫る選手の目を見つめ返した。
泥臭くて、不格好で、スマートさの欠片もない。
でも、これこそが――灰になるまで、燃え尽きるまで戦おうとする、本当の意味での『炎』の姿なんじゃないか。
「私たちは……綺麗なポスターや整ったコピーを作ることに必死になるあまり、このチームにとって一番大切な『熱』を、ゴミ箱に捨ててしまっていたんだ」
あかりは気づいた。
飾られた嘘の「赤」ではなく、ここにある血と汗の混じった「赤」こそが、ファンに届けるべき真実なのだと。
深夜のオフィス。空調の切れた空気は、まるで冬の屋外のように芯まで冷え切っている。
あかりは、吸い寄せられるようにして、目の前のモニターにそっと右手の掌をかざした。
画面の中で、泥だらけの選手が咆哮している。
指先が液晶パネルに触れる。そこから伝わってきたのは、微かな、けれど確かな機械の熱だった。
本来ならただの電子回路の発熱に過ぎない。
けれど、今のあかりには、それが写真の中に封じ込められた選手たちの体温そのものであるかのように感じられた。
理不尽な評価に晒され、傷つきながらも、それでも勝利を渇望して燃え上がる、執念の炎。
その熱がディスプレイというガラス越しに伝導し、あかりの指先にまとわりついていた「恐怖」や「迷い」という名の氷を、じんわりと溶かしていく。
「……まだ、燃えてる」
あかりは、掌の温もりを確かめるように呟いた。
「この火は、消しちゃいけない」
こんなにも熱いものを、自分ひとりのPCの中に閉じ込めておくこと。それ自体が、何よりも重い罪のように思えた。
墓場になど入れさせない。ここは、彼らの魂を燃やすための「デジタルな焚き火」であるべきだ。
「誰かに伝えなきゃ。……この熱が、冷めてしまう前に」
その突き上げるような衝動は、もはや会社のルールや保身といった理性では止められなかった。
あかりはコートのポケットから、私物のスマートフォンを取り出す。あかりの親指が、高速で画面を走り、新たな領域を切り開いていく。
ここなら、真実を語れる。ここなら、消されかけた種火を守れる。
『アカウント作成:完了』
液晶画面に浮かび上がったその文字列は、広報・湊あかりが組織に対して上げた、ささやかな、しかし命懸けの反逆の狼煙だった。
ユーザー名:『残り火日誌(@Ember_of_Blaze)』




