10.ヘッドホンを外して
逃げるようにして広報ルームを飛び出し、あかりはバックヤードの長い廊下を走った。
むき出しのコンクリート壁に囲まれた、薄暗い通路。
壁の向こうのアリーナからは、試合前の演出音やMCの煽る声が聞こえてくるが、それらは分厚いコンクリートに阻まれ、まるで深海の底にいるかのように低く、くぐもって響いていた。
ひんやりとした冷気が、肌にまとわりつく。
ここは、これから戦場へ向かう選手たちが、神経を研ぎ澄ませるための「聖域」だ。
本来なら、私のようなフロントスタッフが、土足で踏み込んでいい場所ではない。ましてや、持っていく土産が「あなたを取材した企画が、上司に『遊びだ』と一蹴されました」なんていう、あまりに救いのない報告ならば尚更だ。
「……行かなきゃ」
あかりは自分を叱咤するが、ヒールの足音は鉛を詰め込まれたように重かった。
あの時、「本当の姿を伝えるから」と約束して取材したのに。私は彼の想いを守れなかった。
その罪悪感が、足かせとなってあかりの速度を鈍らせる。
L字の角を曲がった、その時だった。
前方にあるロッカールームの重い鉄扉が開き、これからウォーミングアップに向かう翔太の姿が見えた。
翔太は、ロッカールームの外の冷たいコンクリート壁に背中を預け、深くフードを被っていた。
その耳には、あの写真と同じ、巨大なノイズキャンセリングヘッドホンが装着されている。瞼は閉じられ、眉間には深い皺が刻まれていた。
彼は今、まさに外界の音を遮断し、自分の内側にある恐怖心と向き合っている最中なのだ。
あかりは足を止めた。
この神聖な「儀式」を邪魔していいものか。数秒のためらいの後、あかりは意を決して、彼の方へ歩み寄った。
「……翔太くん」
声をかけても反応はない。爆音の壁に守られているのだ。
あかりは、そっと手を伸ばし、彼のジャージの肩を指先で軽く叩いた。
ビクッ。
翔太の肩が大きく跳ねた。
彼はゆっくりと目を開け、焦点を合わせるように数回瞬きをした。目の前に立つあかりの顔を見て、その強張っていた表情が少しだけ緩んだ。
「あ、湊さん」
彼はあかりの、眉を下げた申し訳なさそうな表情を見て、すぐに状況を察したようだ。被っていたフードを下ろし、ヘッドホンを首元へとずらした。
漏れ聞こえてくるドラムの音が、通路の静けさを破る。
「……もしかして、さっき撮ってくれた写真のことっすか?」
「うん、ごめん!」
あかりは、逃げずに彼の目を見て、深く頭を下げた。
「上の判断で、今日は出せなくなっちゃった。……せっかく試合前の大事な時間に協力してもらったのに、本当にごめんね」
あかりは身構えていた。
まだ若く、自尊心の強い彼のことだ。「マジすか?」「せっかく本音を話したのに」と、不満を露わにしたり、あるいは怒り出したりするかもしれない。
どんな言葉をぶつけられても、私が泥をかぶって謝り倒すしかない。そう覚悟を決めていた。
しかし、翔太の反応は、あかりの予想とはあまりに違っていた。
「ハハッ」
彼は、空気が漏れるような乾いた声で短く笑った。
怒るわけでも、悲しむわけでもない。首元にかかった大きなヘッドホンのイヤーパッドを、手持ち無沙汰そうに指先で弄りながら、淡々と言った。
「あ、全然いいっすよ、別に。……俺ら、弱いし」
「え?」
予想外の言葉に、あかりは虚を突かれる。
翔太は、視線をあかりから外し、コンクリートの床を見つめながら自嘲気味に続けた。
「5連敗中っすもんね。結果も出してないのに、音楽聴いて自分の世界入って……とかカッコつけても、どうせ『そんな暇あったらシュート練習しろ』って叩かれるだけだし」
彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように、小さく肩をすくめた。
「……上の人の言う通りっすよ。俺たちに、そんな権利ないっす」
その顔に浮かんでいたのは、力のない薄い笑顔だった。
あかりは息を呑んだ。
その笑顔は、謝りに来たあかりを気遣うための優しさなどではない。自分たち自身への深い「失望」と「諦め」から来るものだ。
勝てない自分たちには、物語を語る資格もない。人間らしくある権利さえない。
彼の心は、氷室に「遊びだ」と否定される以前に、続く敗北の中で、もうとっくに冷え切ってしまっていたのだ。
「じゃ、行ってきます」
翔太はそれだけ言い残すと、再びヘッドホンを耳に被せた。
けれど、その仕草には、先ほどまでの「戦場へ向かうための鎧」を装着するような、悲壮な決意は感じられなかった。
今のそれは、ただ単に、嫌な現実を塞ぐための「耳栓」にしか見えなかった。
彼はくるりとあかりに背を向け、アリーナの照明が白く輝く、コートへの入場ゲートへと小走りで向かっていく。
光のトンネルへと吸い込まれていくその背中。
ブレイズのユニフォーム。そこにプリントされた背番号と名前。
あかりの目には、その背中が、以前よりも一回り小さく、ひどく頼りないものに映った。自信を奪われ、誇りを削ぎ落とされた背中。
「違うよ、翔太くん……」
あかりは、遠ざかる彼に向かって、思わず手を伸ばしかけた。
「あなたたちが弱いんじゃない。弱いのは……彼を守れなかった、私たちの方なのに……」
あかりは、喉まで出かかったその言葉を、痛みを伴って飲み込んだ。
いまさら何を言っても、言い訳にしかならない。
行き場を失った彼女の慟哭は、誰の鼓膜をも震わせることなく、薄暗い通路の冷え切った空気の中へと、静かに溶けて消えた。




