9.通知音という検閲
申請ボタンを押し、一息つこうとマグカップに手を伸ばした、その時だった。
『ピロン』
乾いた通知音が、静かな広報ルームに響いた。
あかりは目を丸くして、画面右上の時計を見る。
十秒。
申請してから、まだ十秒しか経っていない。
あの情緒的なキャプションを読み込み、写真に込められた意図を汲み取るには、あまりにも短すぎる時間だ。物理的に、文章を目で追うことすら不可能なスピード。
けれど、あかりの脳内では、その異常な速さが都合よくポジティブに変換されていく。
(早急な承認……つまり、修正の必要もない「文句なしの高評価」ってこと……?)
氷室のような徹底した合理主義者なら、良いものは一瞬で即決するはずだ。彼もまた、無機質な数字の裏側にある、選手の人間臭い「物語」に興味を持ってくれたのかもしれない。
「なんだ、意外と分かってくれるじゃないですか」
あかりは口元を緩ませ、期待に胸を躍らせながら、管理画面の更新ボタンをクリックした。
くるくると回っていた読み込み中のサークルが消え、画面が切り替わる。
あかりが期待していたのは、鮮やかな緑色の『APPROVED(承認)』の文字だった。
だが、網膜に飛び込んできたのは、警告色のように毒々しい赤色だった。
『REJECTED(却下)』
心臓が冷たく縮み上がる。
その赤字の下に、氷室のアカウントからのコメントが、無機質なフォントで冷然と並んでいた。
『5連敗中のリーグ最下位チームが、音楽の趣味の話ですか?』
あかりは息を呑んだ。
続けて、その下にはさらに鋭利な言葉が突き刺さっている。
『不謹慎です。ブースターの神経を逆撫でするつもりですか?これでは、選手が危機感を持たず、ヘラヘラと遊んでいるようにしか見えません』
「……は?」
あかりの口から、乾いた音が漏れた。
不謹慎?遊んでいる?
あかりの視線が、再び翔太の写真へと戻る。
ヘッドホンを押し当て、目を閉じ、世界を拒絶するように眉間に皺を寄せた横顔。
この苦悶の表情の、どこをどう見たら「遊んでいる」なんて言葉が出てくるというのか。
瞬間、あかりの腹の底で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。
あの男は、キャプションなど一行も読んでいない。写真の表情すら見ていない。
ただ、「負けている」という事実と、「音楽」という単語だけを記号的に結びつけ、自動的に「不謹慎」というラベルを貼ってゴミ箱へ捨てたのだ。
選手の痛みを、「遊び」という一言で切り捨てたその軽薄さが、あかりの沸点に触れた。
ピロン。
呆然とするあかりに追い打ちをかけるように、再び通知音が鳴った。
氷室からの追撃チャットだ。
『物語は不要です。至急、画像を差し替えてください』
続けて、一枚の画像ファイルが送られてくる。
開いた瞬間、あかりは眉をひそめた。
それは、デザイナーを通さず、パワポか何かで作ったような極太ゴシック体の文字だけの画像だった。
『残席わずか!!急げ!!』という文言が、赤と黄色の蛍光色でデカデカと踊っている。スーパーの特売チラシのほうがまだ上品だ。
さらに、その下に添えられた指示が、広報担当としてのあかりの常識を根底から覆した。
『この画像を、チケットが完売するまで15分おきに連投し続けてください』
「……は?」
あかりは我が目を疑った。
15分おき?
正気じゃない。そんな短時間での連続投稿は、SNSのアルゴリズム的に「スパム行為」と判定され、タイムラインへの表示優先度を著しく下げてしまう。
何より、フォロワーであるファンのタイムラインを、同じ特売チラシで埋め尽くすことになる。それは「広報」ではない。ただの「嫌がらせ」だ。
「そんなことしたら、フォロワーにミュートされちゃいます!今まで築いてきたブランディングが壊れる!」
あかりは思わず画面に向かって叫んでいた。
だが、その悲痛な抗議は、無人の広報ルームの吸音壁に虚しく吸い込まれて消えた。
こちらの専門知識など、あの冷徹な上司にとっては「売上の立たない戯言」でしかないのだ。
あかりは震える指で、反論のメッセージを打ち込み始めた。
『氷室さん、これは「遊び」ではありません。彼がプロとして戦うためのメンタルコントロールの一環であり、選手の人間性を伝えることで、ファンとの……』
打ち込んだ文字が、画面上で怒りに震えているように見える。
これだけは譲れない。広報担当として、選手の尊厳を守らなければ。
だが。
送信しようとマウスカーソルを動かした瞬間、あかりの手がピタリと止まった。
「……え?」
画面上の青かったはずの「投稿(Post)」ボタンが、生気のない灰色に変わり、クリックを受け付けなくなっていたのだ。
システムの設定が変更されている。
管理者権限を持つ氷室の承認が降りなければ、この広報ルームから外の世界へは、1バイトの情報すら発信できない仕組みになっていた。
あかりがここで何を叫ぼうと、どれだけ正しい論理を並べようと、システムの前では無意味だ。
承認ボタンという名の蛇口を握られている以上、彼女はただの無力な端末に過ぎない。
「……私が広報じゃなくて、ただの『入力係』だって、そう言いたいのね」
あかりは、血が滲むほど唇を噛み締めた。
ゆっくりと、BackSpaceキーに指を置く。長押しする。
カタカタカタカタ……。
反論の言葉が、一文字ずつ、画面から消去されていく。
それは、彼女の広報としてのプライドが、システムによって物理的に削除されていく音だった。




