表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

#01 23時の赤いリンク

 木曜、二十二時四十七分。

 受信箱の角がこんと光った。件名は短い。


「赤いリンクを開くと、夜十一時にノックが鳴ります」


 桂一はPCの明るさを少し下げ、メールを開いた。隣では相沢が三脚を伸ばし、スマホ用ジンバルを装着している。

「今夜、配信で検証するんだよね?」

「する。まず注意書きを貼る。廊下での私語禁止、各戸に触れない、立ち止まる位置は掲示の前——これを先に決めてからだ」


 メールの本文は大学一年生から。

 ——SNSで広がっている“赤いリンク”。開くと23:00ちょうどに三回ノックが鳴るという。別日でも起きた。録音は雑音でずれる。管理会社には「気のせい」と言われた。生配信で検証してほしいが怖い——助けてほしい、という依頼だ。


「時間が決まってるのは助かる」

「配信タイトルは『23時の赤いリンク、検証します(安全に)』でいい?」

「いい。住人に迷惑をかけないことを最優先」


 成瀬から電話が入る。

「同じ建物から三件のDM。どれも23時だけ。掲示の雛形、送ったよ」

「助かる。貼ってから始める」


 白鳥からも短いメッセージ。

〈サーバ側のリンクは踏まない。URLは検体化してローカルで再現。スマート家電や通知は切り分けたい〉

「了解。設備の設定はいじらない。記録だけ取る」


 相沢はチェックリストを確認する。

「カメラ一台、マイク二本、時報アプリ、ログ用PC。ミュート解除、録音開始、二重確認——声出してやるよ」

「解除、確認、録音開始。もう一度。解除、確認、録音開始」


     ◇


 大学近くの築浅ワンルーム。共用廊下はコンクリ打ちっぱなしで、軽く響く。夜勤の管理人に挨拶し、A5掲示を貼る。


―――――

来訪者向け掲示(A5)

このフロアでは、23:00前後に録音・配信の検証を行います。

・立ち止まるなら掲示の前で

・各戸の扉・呼び鈴・ポストに触れない

・私語は控える/配線・設備に近づかない

掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____

―――――


「立ち止まり位置、床にテープで印つけるね」

「頼む。『戸に触らない』は二回目立つように」


 部屋の提供者は依頼者本人。二十歳、細縁のメガネ。肩が少しこわばっている。

「本当に、23時ぴったりに三回なんです。録音すると、どうも時刻がずれて……」

「こっちで時報音を同録する。あとで合わせられる」


 機材を置く。玄関の上にマイク一、室内にマイク一。スマートスピーカーは電源を抜く。スマホ通知は機内モード。冷蔵庫の自動霜取りはコンセント間に小型ロガーを入れてログだけ取る。

 白鳥から追記。

〈ドアのラッチが戻りきらないとコンが出る。空調の風や廊下の気圧の変化で三回続くことがある〉

「設定は触らず、観察だけ。ドアクローザの動きは目で見る」


 配信のスタンバイ画面に文言を出す。「心霊の断定はしません/危険な模倣は不可/戸に触れない」。モデレーター用の固定コメントには「廊下での私語NG/掲示の前で立ち止まる」。


 時刻は二十二時五十九分二十秒。

「配信開始。音声?」

「OK。時報、55秒」

「行く」


 時報が鳴る。「ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン」。

 廊下は静か。視聴者数だけ増えていく。相沢が落ち着いた声で告げる。

「しばらく無音です。これが正常です」


 五秒。十秒。

 二十三時ちょうど。

 コン。

 ひと呼吸。コン。

 もう一拍。コン。


「来た。記録する」

「外のマイクのほうがはっきり大きい。室内は小さい。外から内への順で強いね」

「扉には誰も触れていない。廊下のカメラも確認済み」


―――――

観測記録シート(A4)

地点:大学近郊ワンルーム

時刻:23:00:01〜

音:コン×3/間隔 約0.8秒

強さ:外マイク>室内マイク(外のほうが明確)

設備:スマート家電OFF/空調ON(弱)/廊下 静か

備考:扉・ラッチ・呼び鈴への接触なし(映像確認)

―――――


「リンクは押してない。押さなくても鳴るのが、今わかった」

「じゃあ、時間条件か建物の動きが関係してる可能性が高い」


 視聴者コメント。「上の部屋の足音じゃ?」

「足音は連続して響く波形になりやすい。今のは硬い三発。足音とは違う」


 廊下カメラに非常灯と角の曲がりが映る。相沢が掲示の前に立ち、短く案内する。

「ここで立ち止まってください。扉や呼び鈴には触れないで」


 23:05、23:10にも単発のコンが一度ずつ。どちらも外マイク優位。

 白鳥からの連絡。

〈この時間、共用換気が上りから下りに切り替わる。気圧の変化で隙間が鳴る可能性〉

 成瀬からはヒアリングの集計。

「赤いリンクの拡散は22:30〜23:00がピーク。静かに廊下に出る人がいる、という証言も」


「つまり、人が一旦静かになる時間がある。そこで空気の動きだけが残る」

「可能性としては十分。次の段階で切り分けよう」


 配信のコメント欄に「紙があって見やすかった」「三回、聞こえた」が並ぶ。

「今日はここまで。扉には触らず、時間帯と設備ログを照らし合わせます。続きは明日の回で」


 相沢が配信を切る前にもう一度だけ念押しする。

「真似するときは、必ず注意書きを貼って、住人の迷惑にならないようにしてください」


 配信を終了。録音ファイルの保存が進む間、廊下を一巡して掲示の角を押さえる。風でめくれていない。

 管理人が小声で言う。

「掲示、効きますね。立ち止まる場所が決まると、静かです」

「ありがとうございます。明日も同じ時間に、もう一度やります」


 撤収。機材をバッグに戻し、玄関で靴を履く。依頼者が小さく頭を下げた。

「ありがとうございました。——少し、安心しました」

「大丈夫。誰も扉に触れていなくても鳴ることは分かった。明日、原因の切り分けを進める」


 外は冷たい。夜風が角を回り、袖口に入った。

 桂一はスケジュールに「明日23:00 再検証」と打ち込み、相沢と視線を交わす。

「明日は換気の切替とドアの戻りを重点的に見る。設定は触らない。記録で比べる」

「了解。掲示はそのまま、枚数を一枚増やす」


 歩き出す二人の背中の向こうで、非常灯がまた一つ、静かに点った。

 “赤いリンク”の正体はまだ不明。けれど、検証の道筋は見えた。明日は、もう一歩踏み込む。


ーーーーーーー


 翌日、夕方。

 マンション管理会社から「昨夜と同条件での再検証可。設備の設定変更は不可。廊下の掲示は継続」という連絡が入った。桂一は了承のメールを送り、相沢は掲示の束を一枚増やして鞄にしまう。


「今日は目印テープを少し増やす。立ち止まる位置が一目で分かるように」

「ログは換気の切替時刻を中心に照合。扉には触れないのは昨日と同じだ」


 成瀬から電話が鳴る。

「住民ヒアリング、追加で五件。『二十三時きっかりの三回』が全員一致。『廊下が一瞬しんとする』という言い方も複数」

「ありがとう。『しんとする』はログで“風と人の流れが止まる時間”として並べる」


 白鳥からは短いメッセージ。

〈共用換気の“上り→下り”切替、22:59:50〜23:00:10の間に動く日が多い。今日は59分55秒に上り停止、00分05秒に下り開始の予定〉

「時報アプリと同録で合わせる。——行こう」


     ◇


 夜。共用廊下。

 昨日の掲示は剥がれていない。相沢は掲示の前にテープで半月形の目印を二カ所追加する。立ち止まる人が自然にそこへ入る。


―――――

廊下でのお願い(A5・増補)

・立ち止まるなら掲示の前で

・各戸の扉・呼び鈴・ポストに触れない

・私語は控える/配線・設備に近づかない

・撮影は短時間で(通行を妨げない)

掲出:市影譚(担当:相沢)

―――――


 室内。依頼者は昨日より落ち着いた顔だ。桂一は時報アプリを音声トラックに重ね、マイク二本を確認する。スマート家電は電源を抜いたまま。

「今日もリンクは踏まない。比較のため配信は無音で回す。——準備完了」


 廊下カメラの映像を相沢がチェックし、短くうなずく。

「人の流れ、良い。目印が効いてる」


 時刻は二十二時五十九分四十五秒。

 時報が鳴る。「ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン」。

 白鳥からのメッセージが同時に入る。

〈共用換気“上り”停止〉


 十秒後。

〈“下り”開始〉


 コン。

 コン。

 コン。


「三回、昨夜と同じ間隔」

「外マイク優位。室内は小さめ。昨日より低めの音色」

「気温が一度低い。空気が少し重い」


―――――

観測記録シート(A4)

時刻:23:00:05/23:00:06/23:00:07

強さ:外>内/音色:昨日より低め

環境:外気5℃/湿度57%/廊下 人流少

設備:共用換気 切替(上り→下り)/室内家電OFF

備考:接触なし(映像確認)

―――――


「原因候補は三つに絞れる」桂一は短く指を折る。

「①共用換気の気圧差、②廊下の静まり(音圧の急変)、③扉まわりの“戻りが悪い金属”」

「再現は?」

「触れずにやる。室内の換気扇を強にして、止める→かけるで気圧の変化だけを作る。扉は閉めたまま。——依頼者さん、換気扇、操作してもいいですか」

「大丈夫です」


 相沢が廊下のカメラを見ながら頷く。「廊下は静か。今なら試せる」


 依頼者がキッチンの換気扇を「強」にする。十秒。停止。五秒。再び「強」。

 室内マイクが小さなコンを一度拾った。外マイクは反応なし。

「出た。単発だけど、時間差の吸い→吐きでラッチがわずかに動く音。三連にはならない」

「ということは、室内の換気だけでは“三回”にならない」

「残りは共用側の切替と廊下の静まりの合わせ技だ」


 白鳥に要点を送る。

〈室内換気扇ON/OFFで単発の“コン”のみ再現。三連は共用換気の切替と同時に発生〉

〈ドアクローザ速度は目視正常。ラッチ受けの“戻り悪い”は映像で確認できず〉

「受け取った。機器は触らないまま、時間帯のサンプルをもう一つ取りたい。23:15に共用換気の下り維持で固定される。そこでも鳴るか?」


「じゃあ、23:15までこのまま待つ」

 相沢は掲示の前で二度だけ声をかける。「撮ったら一歩下がってね」「扉には触れないで」。廊下は穏やかだ。


 23:15。共用換気は下りのまま。

 廊下は人影が少ない。

 コン——なし。

 室内のメモに線が一本引かれた。「発生せず」。


「時間条件は“切替点”に寄っている。吹き出し→吸い込みの遷移が扉の隙間を叩く」

「三回なのは?」

「制御のステップが三段あるのか、空気の塊が三回当たる形状なのか。——触れずにもう一つ試す」


 桂一は紙片(A5を細長くしたもの)を玄関の内側、扉から数センチ手前に立て、揺れを観察する。

「切替の直後、吸い→吐き→微調整の3段が見える。紙が引かれて、押されて、少しだけ戻る。音と一致」


 相沢が頷く。「波形も三山。時間差は0.8秒前後で昨日と同じ」


 成瀬から追記。

「住民の言い方を借りると、『空気が行ったり来たりして、郵便受けがきしむ』。——掲示の文にこの言い回し、使っていい?」

「いい。専門語は括弧に入れて短く。『換気の切替(空気の流れの入れ替え)』『隙間(扉のごくわずかな段差)』」


 ここで、配信を短時間だけ再開する。

 相沢がカメラに向かって説明する。「扉には触れていません。共用換気の切替のタイミングで三回鳴るのを記録しました。室内の換気扇だけでは単発の音しか出ません。——撮影は短時間で、立ち止まるなら掲示の前でお願いします」


 コメントは落ち着いている。「三回=切替の三段」は分かりやすい、と感想が並んだ。炎上はない。


 配信を切り、管理人に口頭で結果を伝える。

「設定はいじりません。時間帯と人の流れを紙にします。二十三時前後だけ、立ち止まり位置の掲示を一枚増やしてください」

「分かりました。今夜中にやります」


 最後に、掲示の増補版を貼る。


―――――

掲示(増補・A5)

この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の流れの入れ替え)があり、扉まわりの金属が小さく音を出すことがあります。

・扉・呼び鈴には触れない/立ち止まるなら掲示の前

・撮影は短時間で(通行優先)

・困った時は管理室へ

掲出:市影譚(担当:相沢)

―――――


 撤収の直前、依頼者が小さく笑った。

「『赤いリンク』、怖いって思ってましたけど……仕組みって分かると、落ち着きますね」

「怖さはゼロにならなくていい。どう付き合うかが分かれば十分だよ」


 機材を片づけ、廊下の角で軽く会釈してから二人は外に出た。夜気が指先を冷やす。

「転は、“三回になる形”を図と動画で見せる。触らないでできる範囲で」

「了解。私は図版と字幕を仕上げる。『三段の空気の当たり方』『単発との違い』——この二枚で伝える」


 非常灯の緑が、角で小さく揺れた。

 明日は、見える形にして終わらせる。


  ◇


 翌晩。三回目の検証は「見せ方」を中心にした。

 住民に迷惑をかけないよう、配信は短時間に区切る。配信で見せるのは三つ——①波形の重ね合わせ、②“紙片”で見る空気の動き、③三連になる条件の図解。


「相沢、図版の最終チェック」

「OK。『切替直後に空気が三段で当たる』を一枚、『単発との違い』を一枚。文字は少なく」


 白鳥から事前メモ。

〈共用換気:本日も22:59:55停止/23:00:05開始予定。設定変更なし。データは“見るだけ”。〉

 成瀬からは、住民向け言い換え案。

「“空気が入れ替わる瞬間に、扉の周りで小さい音がする”で統一するね」


     ◇


 廊下の掲示は剝がれていない。相沢が目印テープの角を押さえる。

 桂一は室内で、カメラをドアの隙間の正面と天井のマイクに合わせた。スマート家電はOFF、扉とラッチには触れない。依頼者は同席するが操作はしない。


「今夜は『切替の十秒前〜十秒後』だけ配信する。コメントは読めないけど、終わったら答える」

「了解。私は図をカメラ前でめくるだけにする」


 22:59:50。

 時報が鳴る。ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン——。

 白鳥のメッセージが入る。〈上り停止〉


 廊下は一瞬、「しん」とした。

 23:00:05、〈下り開始〉。同時にコン。

 0.8秒おいてコン。

 さらに0.8秒でコン。


「三回、きょうも同じ間隔」

「外マイク>内マイク。波形、昨日までと重なる」


 配信カメラに図1が映る。相沢の手書きだ。


―――――

図1:切替直後の“空気の当たり方”(イメージ)

①上り→停止(空気の流れが弱まる)

②下り開始(空気が逆方向へ)

③下り安定(微調整)

→ 扉のごく小さな隙間・ラッチ周りが「①引かれる」「②押される」「③少し戻る」の三段で動く

―――――


 続けて図2。


―――――

図2:単発の“コン”との違い

・室内換気扇のON/OFFだけ→「引く/押す」が一度だけ → 単発

・共用の切替→「引く→押す→微調整」の三段 → 三連

(※どちらも扉や呼び鈴には触れていない)

―――――


 相沢が短く言う。

「ポイントは触れていなくても鳴る、という事実。切替の時刻と三段の当たり方がそろうと三回になります」


 ここで、紙片を使った可視化だけ見せる。扉の数センチ手前に細長い紙を立て、切替直後の吸い→押し→小戻りで紙が三回揺れるのを映す。

「触らないで分かる可視化はこれくらい。機器の設定はいじりません」


 配信は二分で切った。チャット欄には「三段の図で分かった」「怖さが減った」が並ぶ。炎上はない。

 録画を保存している間に、住民の質問にコメント返しをする。


「三回は毎晩ですか?」

「建物と風の条件がそろう夜に起きやすいです。23:00前後、共用換気の切替直後。※管理会社さんの設定は触っていません」


「赤いリンクは関係ありますか?」

「『リンクを押さなくても鳴る』ことを確認しました。時間のうわさで人が静かになる→空気の動きが強調される、という順番は影響します」


     ◇


 管理室で口頭共有。

「設定は現状のまま。切替の前後1分に**“立ち止まり位置”掲示**を増やすと、通行の安全が保てます」

「了解。今夜からやります」


 成瀬が住民ヒアリングの最終集計を持って来た。

「『三回のあとに単発が一度』という言い方、複数。23:05/23:10の単発、ログにも出てる?」

「出ています。共用換気の微調整に合わせて単発が鳴る夜がある。三連の再現性は切替直後に集中」


 白鳥がテーブルに無接触ログのプリントを置く。

「設定は良好。上り停止→下り開始→安定の波形が空気側で三段になっている。扉の位置調整などの“触る施策”は不要。運用(掲示・導線)で十分」


「掲示の文案、最終版にするね」相沢がA5を三枚、ペンで整える。


―――――

来訪者向け掲示(最終・A5)

この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の入れ替え)があり、扉まわりで小さな音が出ることがあります。

・扉・呼び鈴に触れない/立ち止まるなら掲示の前

・撮影は短時間で(通行優先)

掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____

―――――


―――――

検証メモ(概要・A5)

・リンク未クリックでも三連音を記録(外マイク>内マイク)

・共用換気の切替直後に発生(無接触ログで一致)

・室内換気扇ON/OFFのみでは単発のみ

※設定変更は行わず、掲示と導線で対応

―――――


―――――

住民向けQ&A(A5)

Q:怖い音ですか?

A:怖がる必要はありません。空気の入れ替えのときに小さな金属音がするだけです。

Q:やってはいけないことは?

A:扉や呼び鈴に触れない、長時間立ち止まらない。

Q:知らせたい時は?

A:管理室または掲示の連絡先へ。

―――――


 依頼者が安心した顔で言った。

「家族にも説明できます。**“リンクを押さなくても鳴る”**って、はっきり言えるのが大きいです」

「それで十分。扱い方が分かれば、日常に戻れる」


 最後に、配信で使った図1/図2と、掲示PDFの公開準備をする。

 桂一は記事の冒頭に、短く結論だけを置いた。

「結は、紙で終わらせる」


 ◇


 翌日、午前十時。

 管理会社の会議室。四角いテーブルに、管理会社の担当二名、管理組合の理事長、市影譚の四人が向き合った。机の上にはA4の紙束と、昨夜のログのプリントだけ。


「では、結果を共有します」

 桂一は三枚の紙を前に出した。言葉は短く、順番は安全から。


―――――

短報(住民配布版・A4/抄)


安全に見学するために

・扉・呼び鈴・ポストには触れない

・立ち止まるなら掲示の前(廊下の通行を妨げない)

・撮影は短時間で


音の条件(断定せず)

・共用換気の切替直後(上り→停止→下り)に三回の小さな音を確認

・リンクを押さなくても発生(時報同録/非接触)

・室内換気扇のON/OFFでは単発のみ


対応

・設定は変更しません(所有者判断のみ)

・掲示と導線で安全を先に整えます

提出:管理会社/管理組合/住民各戸投函(PDF配布)

―――――


「掲示は最終版を三か所。目線の高さです」

 相沢がA5の掲示を取り出して示す。


―――――

来訪者向け掲示(最終・A5)

この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の入れ替え)があり、扉まわりで小さな音が出ることがあります。

・扉・呼び鈴に触れない/立ち止まるなら掲示の前

・撮影は短時間で(通行優先)

掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____

―――――


「住民への言い換えも統一します。『空気が入れ替わる瞬間に、扉の周りで小さい音がする』で運用します」

 成瀬が配布用のQ&A案を配る。


―――――

住民向けQ&A(A5)

Q:怖い音ですか?

A:怖がる必要はありません。空気の入れ替えのときに、扉まわりで小さな金属音がするだけです。

Q:やってはいけないことは?

A:扉や呼び鈴に触れない、長時間立ち止まらない。

Q:知らせたい時は?

A:管理室または掲示の連絡先へ。

―――――


「機器側の確認も口頭で」

 白鳥が淡々と補足した。

「共用換気は上り停止→下り開始→安定の三段。ログは無接触で取得。設定は良好。触る必要はありません。巡回時に掲示の角のテープだけ点検していただければ十分です」


「設定を変えないのは助かります」

 管理会社の担当がうなずいた。

「二十三時前後だけ『立ち止まり位置』の掲示を増やす、でいきましょう。住民配布は当方で印刷します」


「ありがとうございます。では、公開記事と配信アーカイブも本日中に出します。本文は『リンクを押さなくても鳴る』『切替直後に三回』『安全な見方』の三点だけです」


     ◇


 午後。事務所。

 記事の最終確認が進む。タイトルは「23時の赤いリンクは、“切替の三段”で鳴る(設定は触らない)」。

 相沢が図版を配置し、キャプションを短く整える。

 ——図1:切替直後の空気の当たり方(上り停止→下り開始→安定/三段)

 ——図2:単発との違い(室内換気扇では単発のみ)


「太字は三か所に絞るよ。扉に触れない、立ち止まるなら掲示の前、設定は触らない」

「それでお願い」


 公開ボタンを押した直後、受信箱が光る。コメント通知だ。

 最初は依頼者。

「『配信も記事も分かりやすかったです。家族に説明できました。扉に触れない、守ります』」


 続いて管理会社。

「『二十三時前後のクレームが減少しました。掲示で立ち止まる場所が決まると静かです。住民配布は全戸実施します』」


 さらに、同じ階の学生から。

「『“三段の図”で納得しました。リンクを押さなくても鳴るのはびっくり。怖くなくなりました』」


 アナリティクスの滞在時間が伸び、図版の拡大率が高い。要点が読まれている。


「現場の写真、来たよ」

 相沢がスマホを掲げる。管理会社の夜勤さんが撮ったものだ。掲示は目線の高さ、角はしっかり押さえられ、廊下の人の流れは止まらない。


「良いね。紙が街の言葉になってる」

「住民配布も始まってる。問い合わせ窓口はNPOで受けるよ」


 成瀬がフォームの反応を共有した。

「“赤いリンク”の相談は今のところ沈静化。代わりに、近隣の別棟から『エレベータ前の“笑う壁”』ってタイトルで一件。夕方だけ薄く笑い声が聞こえるそう」


「早いな。まずは所有者と安全の紙。次も設定は触らないで確認していこう」


 白鳥から短い電話。

「『リンクの件、記事で“押さなくても鳴る”を最初に持ってきたのが良かった。余計な模倣が減る』」

「ありがとう。配信アーカイブにも**“扉に触れない”**をテロップで入れておいた」


     ◇


 夕方。

 管理会社から、住民配布に同封する覚書の確認依頼が届く。文面は簡潔だ。


―――――

運用覚書(管理会社/管理組合/市影譚)

目的:二十三時前後に発生する三回の小さな音について、安全に対応する


設備設定は変更しない(所有者判断のみ)


掲示は目線の高さに三か所。巡回時にテープの角を点検


立ち止まり位置は掲示の前。通行の妨げにならないよう誘導


住民周知は**Q&A(A5)**で配布


問い合わせは管理室または掲示の連絡先へ

―――――


「異議なし。これでお願いします」

 桂一は送信し、記事末尾に掲示PDFとQ&A PDFのリンクを追加する。

 ——この紙は誰でも使えます。加工・再配布可。危ない場所では必ず大人が見守ってください。


 窓の外は早い夕暮れ。事務所の蛍光灯が静かに唸り、プリンタが配布用のPDFを吐き出す。


「これで締めに入ろう」

「うん。最後に一行、置いて」


 桂一はカーソルを動かして、本文の末尾に短く書いた。

 ——“赤いリンク”は、恐怖のボタンではなかった。時間と建物がそろっただけだ。怖がる前に、注意書きを貼ろう。


 公開済みの記事にその一文が加わる。

 受信箱がもう一度光った。今度は管理組合の理事長からだ。

「『夜の見物が落ち着きました。三回でも驚かなくなった、という声が多い。ありがとうございました』」


「よし、一区切り」

 相沢が背伸びをする。

「次の“笑う壁”、どうする?」

「まず所有者へ連絡。安全の紙を先に置いてから、音の取り方を決める」


 四人はそれぞれの荷物をまとめる。

 プリンタの上には、新しいA5の束。掲示の角を押さえるためのテープも十分に用意されている。

 今日の仕事は終わり。次は、夕方に笑うという壁だ。


―――――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ