#01 23時の赤いリンク
木曜、二十二時四十七分。
受信箱の角がこんと光った。件名は短い。
「赤いリンクを開くと、夜十一時にノックが鳴ります」
桂一はPCの明るさを少し下げ、メールを開いた。隣では相沢が三脚を伸ばし、スマホ用ジンバルを装着している。
「今夜、配信で検証するんだよね?」
「する。まず注意書きを貼る。廊下での私語禁止、各戸に触れない、立ち止まる位置は掲示の前——これを先に決めてからだ」
メールの本文は大学一年生から。
——SNSで広がっている“赤いリンク”。開くと23:00ちょうどに三回ノックが鳴るという。別日でも起きた。録音は雑音でずれる。管理会社には「気のせい」と言われた。生配信で検証してほしいが怖い——助けてほしい、という依頼だ。
「時間が決まってるのは助かる」
「配信タイトルは『23時の赤いリンク、検証します(安全に)』でいい?」
「いい。住人に迷惑をかけないことを最優先」
成瀬から電話が入る。
「同じ建物から三件のDM。どれも23時だけ。掲示の雛形、送ったよ」
「助かる。貼ってから始める」
白鳥からも短いメッセージ。
〈サーバ側のリンクは踏まない。URLは検体化してローカルで再現。スマート家電や通知は切り分けたい〉
「了解。設備の設定はいじらない。記録だけ取る」
相沢はチェックリストを確認する。
「カメラ一台、マイク二本、時報アプリ、ログ用PC。ミュート解除、録音開始、二重確認——声出してやるよ」
「解除、確認、録音開始。もう一度。解除、確認、録音開始」
◇
大学近くの築浅ワンルーム。共用廊下はコンクリ打ちっぱなしで、軽く響く。夜勤の管理人に挨拶し、A5掲示を貼る。
―――――
来訪者向け掲示(A5)
このフロアでは、23:00前後に録音・配信の検証を行います。
・立ち止まるなら掲示の前で
・各戸の扉・呼び鈴・ポストに触れない
・私語は控える/配線・設備に近づかない
掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____
―――――
「立ち止まり位置、床にテープで印つけるね」
「頼む。『戸に触らない』は二回目立つように」
部屋の提供者は依頼者本人。二十歳、細縁のメガネ。肩が少しこわばっている。
「本当に、23時ぴったりに三回なんです。録音すると、どうも時刻がずれて……」
「こっちで時報音を同録する。あとで合わせられる」
機材を置く。玄関の上にマイク一、室内にマイク一。スマートスピーカーは電源を抜く。スマホ通知は機内モード。冷蔵庫の自動霜取りはコンセント間に小型ロガーを入れてログだけ取る。
白鳥から追記。
〈ドアのラッチが戻りきらないとコンが出る。空調の風や廊下の気圧の変化で三回続くことがある〉
「設定は触らず、観察だけ。ドアクローザの動きは目で見る」
配信のスタンバイ画面に文言を出す。「心霊の断定はしません/危険な模倣は不可/戸に触れない」。モデレーター用の固定コメントには「廊下での私語NG/掲示の前で立ち止まる」。
時刻は二十二時五十九分二十秒。
「配信開始。音声?」
「OK。時報、55秒」
「行く」
時報が鳴る。「ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン」。
廊下は静か。視聴者数だけ増えていく。相沢が落ち着いた声で告げる。
「しばらく無音です。これが正常です」
五秒。十秒。
二十三時ちょうど。
コン。
ひと呼吸。コン。
もう一拍。コン。
「来た。記録する」
「外のマイクのほうがはっきり大きい。室内は小さい。外から内への順で強いね」
「扉には誰も触れていない。廊下のカメラも確認済み」
―――――
観測記録シート(A4)
地点:大学近郊ワンルーム
時刻:23:00:01〜
音:コン×3/間隔 約0.8秒
強さ:外マイク>室内マイク(外のほうが明確)
設備:スマート家電OFF/空調ON(弱)/廊下 静か
備考:扉・ラッチ・呼び鈴への接触なし(映像確認)
―――――
「リンクは押してない。押さなくても鳴るのが、今わかった」
「じゃあ、時間条件か建物の動きが関係してる可能性が高い」
視聴者コメント。「上の部屋の足音じゃ?」
「足音は連続して響く波形になりやすい。今のは硬い三発。足音とは違う」
廊下カメラに非常灯と角の曲がりが映る。相沢が掲示の前に立ち、短く案内する。
「ここで立ち止まってください。扉や呼び鈴には触れないで」
23:05、23:10にも単発のコンが一度ずつ。どちらも外マイク優位。
白鳥からの連絡。
〈この時間、共用換気が上りから下りに切り替わる。気圧の変化で隙間が鳴る可能性〉
成瀬からはヒアリングの集計。
「赤いリンクの拡散は22:30〜23:00がピーク。静かに廊下に出る人がいる、という証言も」
「つまり、人が一旦静かになる時間がある。そこで空気の動きだけが残る」
「可能性としては十分。次の段階で切り分けよう」
配信のコメント欄に「紙があって見やすかった」「三回、聞こえた」が並ぶ。
「今日はここまで。扉には触らず、時間帯と設備ログを照らし合わせます。続きは明日の回で」
相沢が配信を切る前にもう一度だけ念押しする。
「真似するときは、必ず注意書きを貼って、住人の迷惑にならないようにしてください」
配信を終了。録音ファイルの保存が進む間、廊下を一巡して掲示の角を押さえる。風でめくれていない。
管理人が小声で言う。
「掲示、効きますね。立ち止まる場所が決まると、静かです」
「ありがとうございます。明日も同じ時間に、もう一度やります」
撤収。機材をバッグに戻し、玄関で靴を履く。依頼者が小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。——少し、安心しました」
「大丈夫。誰も扉に触れていなくても鳴ることは分かった。明日、原因の切り分けを進める」
外は冷たい。夜風が角を回り、袖口に入った。
桂一はスケジュールに「明日23:00 再検証」と打ち込み、相沢と視線を交わす。
「明日は換気の切替とドアの戻りを重点的に見る。設定は触らない。記録で比べる」
「了解。掲示はそのまま、枚数を一枚増やす」
歩き出す二人の背中の向こうで、非常灯がまた一つ、静かに点った。
“赤いリンク”の正体はまだ不明。けれど、検証の道筋は見えた。明日は、もう一歩踏み込む。
ーーーーーーー
翌日、夕方。
マンション管理会社から「昨夜と同条件での再検証可。設備の設定変更は不可。廊下の掲示は継続」という連絡が入った。桂一は了承のメールを送り、相沢は掲示の束を一枚増やして鞄にしまう。
「今日は目印テープを少し増やす。立ち止まる位置が一目で分かるように」
「ログは換気の切替時刻を中心に照合。扉には触れないのは昨日と同じだ」
成瀬から電話が鳴る。
「住民ヒアリング、追加で五件。『二十三時きっかりの三回』が全員一致。『廊下が一瞬しんとする』という言い方も複数」
「ありがとう。『しんとする』はログで“風と人の流れが止まる時間”として並べる」
白鳥からは短いメッセージ。
〈共用換気の“上り→下り”切替、22:59:50〜23:00:10の間に動く日が多い。今日は59分55秒に上り停止、00分05秒に下り開始の予定〉
「時報アプリと同録で合わせる。——行こう」
◇
夜。共用廊下。
昨日の掲示は剥がれていない。相沢は掲示の前にテープで半月形の目印を二カ所追加する。立ち止まる人が自然にそこへ入る。
―――――
廊下でのお願い(A5・増補)
・立ち止まるなら掲示の前で
・各戸の扉・呼び鈴・ポストに触れない
・私語は控える/配線・設備に近づかない
・撮影は短時間で(通行を妨げない)
掲出:市影譚(担当:相沢)
―――――
室内。依頼者は昨日より落ち着いた顔だ。桂一は時報アプリを音声トラックに重ね、マイク二本を確認する。スマート家電は電源を抜いたまま。
「今日もリンクは踏まない。比較のため配信は無音で回す。——準備完了」
廊下カメラの映像を相沢がチェックし、短くうなずく。
「人の流れ、良い。目印が効いてる」
時刻は二十二時五十九分四十五秒。
時報が鳴る。「ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン」。
白鳥からのメッセージが同時に入る。
〈共用換気“上り”停止〉
十秒後。
〈“下り”開始〉
コン。
コン。
コン。
「三回、昨夜と同じ間隔」
「外マイク優位。室内は小さめ。昨日より低めの音色」
「気温が一度低い。空気が少し重い」
―――――
観測記録シート(A4)
時刻:23:00:05/23:00:06/23:00:07
強さ:外>内/音色:昨日より低め
環境:外気5℃/湿度57%/廊下 人流少
設備:共用換気 切替(上り→下り)/室内家電OFF
備考:接触なし(映像確認)
―――――
「原因候補は三つに絞れる」桂一は短く指を折る。
「①共用換気の気圧差、②廊下の静まり(音圧の急変)、③扉まわりの“戻りが悪い金属”」
「再現は?」
「触れずにやる。室内の換気扇を強にして、止める→かけるで気圧の変化だけを作る。扉は閉めたまま。——依頼者さん、換気扇、操作してもいいですか」
「大丈夫です」
相沢が廊下のカメラを見ながら頷く。「廊下は静か。今なら試せる」
依頼者がキッチンの換気扇を「強」にする。十秒。停止。五秒。再び「強」。
室内マイクが小さなコンを一度拾った。外マイクは反応なし。
「出た。単発だけど、時間差の吸い→吐きでラッチがわずかに動く音。三連にはならない」
「ということは、室内の換気だけでは“三回”にならない」
「残りは共用側の切替と廊下の静まりの合わせ技だ」
白鳥に要点を送る。
〈室内換気扇ON/OFFで単発の“コン”のみ再現。三連は共用換気の切替と同時に発生〉
〈ドアクローザ速度は目視正常。ラッチ受けの“戻り悪い”は映像で確認できず〉
「受け取った。機器は触らないまま、時間帯のサンプルをもう一つ取りたい。23:15に共用換気の下り維持で固定される。そこでも鳴るか?」
「じゃあ、23:15までこのまま待つ」
相沢は掲示の前で二度だけ声をかける。「撮ったら一歩下がってね」「扉には触れないで」。廊下は穏やかだ。
23:15。共用換気は下りのまま。
廊下は人影が少ない。
コン——なし。
室内のメモに線が一本引かれた。「発生せず」。
「時間条件は“切替点”に寄っている。吹き出し→吸い込みの遷移が扉の隙間を叩く」
「三回なのは?」
「制御のステップが三段あるのか、空気の塊が三回当たる形状なのか。——触れずにもう一つ試す」
桂一は紙片(A5を細長くしたもの)を玄関の内側、扉から数センチ手前に立て、揺れを観察する。
「切替の直後、吸い→吐き→微調整の3段が見える。紙が引かれて、押されて、少しだけ戻る。音と一致」
相沢が頷く。「波形も三山。時間差は0.8秒前後で昨日と同じ」
成瀬から追記。
「住民の言い方を借りると、『空気が行ったり来たりして、郵便受けがきしむ』。——掲示の文にこの言い回し、使っていい?」
「いい。専門語は括弧に入れて短く。『換気の切替(空気の流れの入れ替え)』『隙間(扉のごくわずかな段差)』」
ここで、配信を短時間だけ再開する。
相沢がカメラに向かって説明する。「扉には触れていません。共用換気の切替のタイミングで三回鳴るのを記録しました。室内の換気扇だけでは単発の音しか出ません。——撮影は短時間で、立ち止まるなら掲示の前でお願いします」
コメントは落ち着いている。「三回=切替の三段」は分かりやすい、と感想が並んだ。炎上はない。
配信を切り、管理人に口頭で結果を伝える。
「設定はいじりません。時間帯と人の流れを紙にします。二十三時前後だけ、立ち止まり位置の掲示を一枚増やしてください」
「分かりました。今夜中にやります」
最後に、掲示の増補版を貼る。
―――――
掲示(増補・A5)
この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の流れの入れ替え)があり、扉まわりの金属が小さく音を出すことがあります。
・扉・呼び鈴には触れない/立ち止まるなら掲示の前
・撮影は短時間で(通行優先)
・困った時は管理室へ
掲出:市影譚(担当:相沢)
―――――
撤収の直前、依頼者が小さく笑った。
「『赤いリンク』、怖いって思ってましたけど……仕組みって分かると、落ち着きますね」
「怖さはゼロにならなくていい。どう付き合うかが分かれば十分だよ」
機材を片づけ、廊下の角で軽く会釈してから二人は外に出た。夜気が指先を冷やす。
「転は、“三回になる形”を図と動画で見せる。触らないでできる範囲で」
「了解。私は図版と字幕を仕上げる。『三段の空気の当たり方』『単発との違い』——この二枚で伝える」
非常灯の緑が、角で小さく揺れた。
明日は、見える形にして終わらせる。
◇
翌晩。三回目の検証は「見せ方」を中心にした。
住民に迷惑をかけないよう、配信は短時間に区切る。配信で見せるのは三つ——①波形の重ね合わせ、②“紙片”で見る空気の動き、③三連になる条件の図解。
「相沢、図版の最終チェック」
「OK。『切替直後に空気が三段で当たる』を一枚、『単発との違い』を一枚。文字は少なく」
白鳥から事前メモ。
〈共用換気:本日も22:59:55停止/23:00:05開始予定。設定変更なし。データは“見るだけ”。〉
成瀬からは、住民向け言い換え案。
「“空気が入れ替わる瞬間に、扉の周りで小さい音がする”で統一するね」
◇
廊下の掲示は剝がれていない。相沢が目印テープの角を押さえる。
桂一は室内で、カメラをドアの隙間の正面と天井のマイクに合わせた。スマート家電はOFF、扉とラッチには触れない。依頼者は同席するが操作はしない。
「今夜は『切替の十秒前〜十秒後』だけ配信する。コメントは読めないけど、終わったら答える」
「了解。私は図をカメラ前でめくるだけにする」
22:59:50。
時報が鳴る。ピ・ピ・ピ・ピ・ポーン——。
白鳥のメッセージが入る。〈上り停止〉
廊下は一瞬、「しん」とした。
23:00:05、〈下り開始〉。同時にコン。
0.8秒おいてコン。
さらに0.8秒でコン。
「三回、きょうも同じ間隔」
「外マイク>内マイク。波形、昨日までと重なる」
配信カメラに図1が映る。相沢の手書きだ。
―――――
図1:切替直後の“空気の当たり方”(イメージ)
①上り→停止(空気の流れが弱まる)
②下り開始(空気が逆方向へ)
③下り安定(微調整)
→ 扉のごく小さな隙間・ラッチ周りが「①引かれる」「②押される」「③少し戻る」の三段で動く
―――――
続けて図2。
―――――
図2:単発の“コン”との違い
・室内換気扇のON/OFFだけ→「引く/押す」が一度だけ → 単発
・共用の切替→「引く→押す→微調整」の三段 → 三連
(※どちらも扉や呼び鈴には触れていない)
―――――
相沢が短く言う。
「ポイントは触れていなくても鳴る、という事実。切替の時刻と三段の当たり方がそろうと三回になります」
ここで、紙片を使った可視化だけ見せる。扉の数センチ手前に細長い紙を立て、切替直後の吸い→押し→小戻りで紙が三回揺れるのを映す。
「触らないで分かる可視化はこれくらい。機器の設定はいじりません」
配信は二分で切った。チャット欄には「三段の図で分かった」「怖さが減った」が並ぶ。炎上はない。
録画を保存している間に、住民の質問にコメント返しをする。
「三回は毎晩ですか?」
「建物と風の条件がそろう夜に起きやすいです。23:00前後、共用換気の切替直後。※管理会社さんの設定は触っていません」
「赤いリンクは関係ありますか?」
「『リンクを押さなくても鳴る』ことを確認しました。時間のうわさで人が静かになる→空気の動きが強調される、という順番は影響します」
◇
管理室で口頭共有。
「設定は現状のまま。切替の前後1分に**“立ち止まり位置”掲示**を増やすと、通行の安全が保てます」
「了解。今夜からやります」
成瀬が住民ヒアリングの最終集計を持って来た。
「『三回のあとに単発が一度』という言い方、複数。23:05/23:10の単発、ログにも出てる?」
「出ています。共用換気の微調整に合わせて単発が鳴る夜がある。三連の再現性は切替直後に集中」
白鳥がテーブルに無接触ログのプリントを置く。
「設定は良好。上り停止→下り開始→安定の波形が空気側で三段になっている。扉の位置調整などの“触る施策”は不要。運用(掲示・導線)で十分」
「掲示の文案、最終版にするね」相沢がA5を三枚、ペンで整える。
―――――
来訪者向け掲示(最終・A5)
この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の入れ替え)があり、扉まわりで小さな音が出ることがあります。
・扉・呼び鈴に触れない/立ち止まるなら掲示の前
・撮影は短時間で(通行優先)
掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____
―――――
―――――
検証メモ(概要・A5)
・リンク未クリックでも三連音を記録(外マイク>内マイク)
・共用換気の切替直後に発生(無接触ログで一致)
・室内換気扇ON/OFFのみでは単発のみ
※設定変更は行わず、掲示と導線で対応
―――――
―――――
住民向けQ&A(A5)
Q:怖い音ですか?
A:怖がる必要はありません。空気の入れ替えのときに小さな金属音がするだけです。
Q:やってはいけないことは?
A:扉や呼び鈴に触れない、長時間立ち止まらない。
Q:知らせたい時は?
A:管理室または掲示の連絡先へ。
―――――
依頼者が安心した顔で言った。
「家族にも説明できます。**“リンクを押さなくても鳴る”**って、はっきり言えるのが大きいです」
「それで十分。扱い方が分かれば、日常に戻れる」
最後に、配信で使った図1/図2と、掲示PDFの公開準備をする。
桂一は記事の冒頭に、短く結論だけを置いた。
「結は、紙で終わらせる」
◇
翌日、午前十時。
管理会社の会議室。四角いテーブルに、管理会社の担当二名、管理組合の理事長、市影譚の四人が向き合った。机の上にはA4の紙束と、昨夜のログのプリントだけ。
「では、結果を共有します」
桂一は三枚の紙を前に出した。言葉は短く、順番は安全から。
―――――
短報(住民配布版・A4/抄)
安全に見学するために
・扉・呼び鈴・ポストには触れない
・立ち止まるなら掲示の前(廊下の通行を妨げない)
・撮影は短時間で
音の条件(断定せず)
・共用換気の切替直後(上り→停止→下り)に三回の小さな音を確認
・リンクを押さなくても発生(時報同録/非接触)
・室内換気扇のON/OFFでは単発のみ
対応
・設定は変更しません(所有者判断のみ)
・掲示と導線で安全を先に整えます
提出:管理会社/管理組合/住民各戸投函(PDF配布)
―――――
「掲示は最終版を三か所。目線の高さです」
相沢がA5の掲示を取り出して示す。
―――――
来訪者向け掲示(最終・A5)
この廊下では、23:00前後に換気の切替(空気の入れ替え)があり、扉まわりで小さな音が出ることがあります。
・扉・呼び鈴に触れない/立ち止まるなら掲示の前
・撮影は短時間で(通行優先)
掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____
―――――
「住民への言い換えも統一します。『空気が入れ替わる瞬間に、扉の周りで小さい音がする』で運用します」
成瀬が配布用のQ&A案を配る。
―――――
住民向けQ&A(A5)
Q:怖い音ですか?
A:怖がる必要はありません。空気の入れ替えのときに、扉まわりで小さな金属音がするだけです。
Q:やってはいけないことは?
A:扉や呼び鈴に触れない、長時間立ち止まらない。
Q:知らせたい時は?
A:管理室または掲示の連絡先へ。
―――――
「機器側の確認も口頭で」
白鳥が淡々と補足した。
「共用換気は上り停止→下り開始→安定の三段。ログは無接触で取得。設定は良好。触る必要はありません。巡回時に掲示の角のテープだけ点検していただければ十分です」
「設定を変えないのは助かります」
管理会社の担当がうなずいた。
「二十三時前後だけ『立ち止まり位置』の掲示を増やす、でいきましょう。住民配布は当方で印刷します」
「ありがとうございます。では、公開記事と配信アーカイブも本日中に出します。本文は『リンクを押さなくても鳴る』『切替直後に三回』『安全な見方』の三点だけです」
◇
午後。事務所。
記事の最終確認が進む。タイトルは「23時の赤いリンクは、“切替の三段”で鳴る(設定は触らない)」。
相沢が図版を配置し、キャプションを短く整える。
——図1:切替直後の空気の当たり方(上り停止→下り開始→安定/三段)
——図2:単発との違い(室内換気扇では単発のみ)
「太字は三か所に絞るよ。扉に触れない、立ち止まるなら掲示の前、設定は触らない」
「それでお願い」
公開ボタンを押した直後、受信箱が光る。コメント通知だ。
最初は依頼者。
「『配信も記事も分かりやすかったです。家族に説明できました。扉に触れない、守ります』」
続いて管理会社。
「『二十三時前後のクレームが減少しました。掲示で立ち止まる場所が決まると静かです。住民配布は全戸実施します』」
さらに、同じ階の学生から。
「『“三段の図”で納得しました。リンクを押さなくても鳴るのはびっくり。怖くなくなりました』」
アナリティクスの滞在時間が伸び、図版の拡大率が高い。要点が読まれている。
「現場の写真、来たよ」
相沢がスマホを掲げる。管理会社の夜勤さんが撮ったものだ。掲示は目線の高さ、角はしっかり押さえられ、廊下の人の流れは止まらない。
「良いね。紙が街の言葉になってる」
「住民配布も始まってる。問い合わせ窓口はNPOで受けるよ」
成瀬がフォームの反応を共有した。
「“赤いリンク”の相談は今のところ沈静化。代わりに、近隣の別棟から『エレベータ前の“笑う壁”』ってタイトルで一件。夕方だけ薄く笑い声が聞こえるそう」
「早いな。まずは所有者と安全の紙。次も設定は触らないで確認していこう」
白鳥から短い電話。
「『リンクの件、記事で“押さなくても鳴る”を最初に持ってきたのが良かった。余計な模倣が減る』」
「ありがとう。配信アーカイブにも**“扉に触れない”**をテロップで入れておいた」
◇
夕方。
管理会社から、住民配布に同封する覚書の確認依頼が届く。文面は簡潔だ。
―――――
運用覚書(管理会社/管理組合/市影譚)
目的:二十三時前後に発生する三回の小さな音について、安全に対応する
設備設定は変更しない(所有者判断のみ)
掲示は目線の高さに三か所。巡回時にテープの角を点検
立ち止まり位置は掲示の前。通行の妨げにならないよう誘導
住民周知は**Q&A(A5)**で配布
問い合わせは管理室または掲示の連絡先へ
―――――
「異議なし。これでお願いします」
桂一は送信し、記事末尾に掲示PDFとQ&A PDFのリンクを追加する。
——この紙は誰でも使えます。加工・再配布可。危ない場所では必ず大人が見守ってください。
窓の外は早い夕暮れ。事務所の蛍光灯が静かに唸り、プリンタが配布用のPDFを吐き出す。
「これで締めに入ろう」
「うん。最後に一行、置いて」
桂一はカーソルを動かして、本文の末尾に短く書いた。
——“赤いリンク”は、恐怖のボタンではなかった。時間と建物がそろっただけだ。怖がる前に、注意書きを貼ろう。
公開済みの記事にその一文が加わる。
受信箱がもう一度光った。今度は管理組合の理事長からだ。
「『夜の見物が落ち着きました。三回でも驚かなくなった、という声が多い。ありがとうございました』」
「よし、一区切り」
相沢が背伸びをする。
「次の“笑う壁”、どうする?」
「まず所有者へ連絡。安全の紙を先に置いてから、音の取り方を決める」
四人はそれぞれの荷物をまとめる。
プリンタの上には、新しいA5の束。掲示の角を押さえるためのテープも十分に用意されている。
今日の仕事は終わり。次は、夕方に笑うという壁だ。
―――――