私で童貞捨てたくせにね
「卒業!?やっとか、お前!」
俺がそう言うと、向かいに座る彼はくしゃっと目を細め、いえーい、とピースサインを作った。
素朴な顔立ちに、アッシュの髪が若干浮いており、首元では銀色の安っぽいネックレスがきらりと光る。いかにも"大学デビューしました"といった感じの、どこにでも居そうな大学生の風貌だ。
「一ヶ月前くらいだったか?付き合い始めたの。そうか、お前もとうとう卒業したんだな」
「ああ、やっとだよ。周りがどんどん卒業していくからさ、焦ってたんだけどな。いやあ、適当に捨てなくてよかったわ」
記憶を反芻し、堪能するように彼はニンマリと笑った。
時刻はお昼どき。学食は混み始め、賑わいが増していた。
隣でコツン、とカツ丼が置かれたと思うと、
「何の話だ?」
声が降ってくる。
カツ丼をテーブルに置き、俺の隣に腰掛けたのは同じサークルに入っている友人だった。
「卒業したんだってよ、ついに」
俺が向かいの彼を指さすと、隣の友人は目を丸くして、まじか、と口パクする。
「良かったなあ、お前。そうか、彼女できたって言ってたもんな」
ツヤツヤの黒髪をセンター分けした彼は、うんうん、と自分事のように嬉しそうに頷く。
「やっぱ最初は好きな人とがいいよな」
そう言う彼の瞳には、微かに後悔が滲んでいるようだった。モテそうな見た目ではあるが、なにか苦い思い出があったりするのだろうか。
「ああ、焦りすぎるのは良くないからな。誠実さが一番だ」
俺がチキンカレーを口に運びながらそう言うと、二人は同時にぐりんとこちらを向き、示し合わせた様に、へん、と鼻で笑った。
「お前に言われてもなあ」
「誠実さをお前が説くなよ」
なんだよ、と眉を動かし不平を表しながら、俺はカレーを咀嚼する。
「……別に変なことは言ってないだろ」
そうだけどよぉ、と向かいの彼は苦笑する。
「かーっ、リア充はいいよなー。童卒なんて朝飯前だよなーっ」
カツ丼を掻き込みながら、隣の彼はヤケクソで俺に言う。
「というか、お前が童貞だった時間が存在してること自体、信じられんわ。生まれた時から卒業してたんじゃね?」
向かいの彼の言葉に、俺はいやいや、と首を振る。
「そんな馬鹿なことある訳ないだろ。俺もかつてはそうだったよ」
「はーん?じゃあ、言ってみろ。卒業したのいつだ?いつの時なんだよ」
俺は記憶を遡りながら、首を傾げる。
「……十四?」
「ぶふぉっ」
隣の彼が、嚥下寸前のカツ丼を詰まらせかける。苦しそうに咳き込んだ後、俺をきっと睨んだ。
「さっすが陽キャ様は違うなぁ!十四で卒業?さぞ可愛いギャルとヤったんだろうな!」
「あんまり大声で喋るな」
俺が窘めると、彼は首を捻りながら、腹の虫がおさまらない、といった様子で豚カツにかぶりついた。
俺はふう、とため息をつくと、一旦スプーンを置き、頬ずえをついて、ガラス張りの壁に写った自分の姿をぼんやりと眺める。
ハイトーンカラーの髪に、ダボついたスウェット。だらりと座る姿。
浮いてないだろうか。髪も、服も、姿勢も……俺も。
心の中で一歩後ろに下がるように目を細めて、風景の中に俺の姿を溶け込ませる。そうしてふと自分を見失う瞬間、俺の中に安心が溶けだすような感覚がする。こんなことが、癖になっていた。
瞬きをして我に返ると、視界の中に"浮いている"ものが存在していることに気づく。
俺たちの斜め前方に、一人の女子生徒が座っていた。
きゅっと一つにまとめた髪に、くすんだ色のシャツ。かけている分厚いメガネのせいで瞳はよく見えない。
真冬の枯れ木のような色のなさ、寂寥感、冷たさ、とにかくそんなものを全身に纏っていた。
ガラスに写る煌びやかな光景の中で、一人もくもくと定食を食べている地味な彼女は、確かに浮いた存在だった。
「あーいう奴って、彼氏とかいたことあんのかな」
カツ丼を食べ終わった隣の彼が言う。
"あーいう奴"が、俺がさっきまでじっと見ていた彼女のことを指していることに、数秒かけて気づく。返答に迷っていると、彼がまた口を開いた。
「想像つかねーよな。俺、授業でちょっと話したことあるけど、すっげえ無愛想。一生処女だろ、多分」
「……ああ」
「昔からあんななんだろうな。小学校とかでもいたよな、なんか地味なやつって」
「……昔から、あんな感じだよ」
俺の言葉に、向かいの彼が、驚いた顔でこちらを見る。
「なんだよ、あの子と知り合いなのか?」
「……幼なじみなんだよ」
そう言うと、二人は怪訝な顔で、まじか、とこぼした。
「めちゃくちゃ意外だわ。全然タイプ違うだろ。なんかあれ?親同士が仲良いとか?」
俺は、まあそんな感じ、と適当に濁す。
大学に入ってからは全然やり取りもしてない、と言うと、
「まあそうだよなー」
と、二人は納得した様子だった。
***
茜さす夕日が街を色づける、そんな夕方。
俺は帰宅するため、停車していた電車に乗りこんだ。
電車の中はやけに空いていた。俺はどこに座ろうか視線を動かし、そしてふと、ドア脇にもたれかかって外を眺めているその見知った顔を見つける。
化粧っ気のない顔立ちは、夕日に照らされ、そのシャープな輪郭にオレンジ色を乗せていた。
一生処女だろ、多分。
そう言われていた彼女だった。
まずい、と思った。俺は別の車両へ移ろうと踵を返し、
「ども」
かけられた声に思わず肩を揺らす。振り返ると、彼女の黄昏色に燃える瞳は確かにこちらを捉えていた。
「……ども」
無視する訳にもいかないので、軽く頭を下げて彼女の向かい側、空いているドア脇に移動する。
車内には、俺たちのほかには、買い物袋を持った老女が少し離れた位置に腰掛けているのみだった。眠っているのか、白い髪のその人の頭は、かく、と時々揺れている。
しばらく、沈黙が続く。彼女の方をちらりと見ると、相変わらず感情の読めない顔で暮れゆく景色を眺めている。
ああ、不愉快だ。
彼女が視界に入ると、その度に俺の中の何かが剥ぎ取られていくような気がする。手には汗が滲むのに、口の中はカラカラに乾く。堪らず俺は腕を組む。袖を握る。唇を噛む。逃げ出したい。
「大学、楽しそうだね」
彼女が言った。
無機質な声。しかしどこまでも澄んでいて、触れると痛いほど冷たい。俺は、彼女の声を山を流れる小川の様だと思ったことがあった。
何も言えない俺を見て、彼女はふっと息をつく。
「本人がいる前であれこれ好き勝手言うような人とつるむのは、どうかと思うけど」
聞こえていたのか。
「……悪い」
目を逸らした俺を、彼女はぼんやりと見つめる。
声は上手く出なかった。耳から聞こえる音は確かに大人の男のもので、しかし何故だろう。強ばった喉に、あどけなさと無骨さが互いに引っ張り合うような、あの懐かしい気持ち悪さが宿るのは。
メガネの奥のその瞳は、今ならはっきりと見える。水晶のようなそれを、俺はよく知っていた。
メガネを外したときの、吸い込まれそうな瞳。
痛みに耐えるように揺らいだ、幼い瞳。
彼女はぽとりと、その場に落とすように言った。
「私で童貞捨てたくせにね」