第四話
「もしかして、狼の魔獣じゃないのかな……? この子、噛みついたりしないよね?」
フローラは恐る恐る屈みこみ、ルーチェに手を伸ばす。
「大丈夫ですよ、きっと。優しく触ってあげれば、優しくしてくれるのです」
フローラが伸ばした手のひらを、下からルーチェが舐めた。
「ひぇっ!?」
慌てて手を引くフローラだったが、もう一度伸ばし直して、今度はルーチェの頭に触れる。そして指先で優しく撫でた。ルーチェは耳を横に倒して、気持ち良さそうに目を細める。
「ほんとに大人しい……というか、人懐っこいんだね……」
フローラはだんだん大胆になっていき、ルーチェの身体をあちこちまさぐる。ひっくり返してお腹を見たり、尻尾をつまんだり。ルーチェはされるがままで、むしろ喜んでいた。
ひとしきりそうしていた後、フローラは地面に座り込んで顎に指を当て思案顔になる。
「むむむむ……これは一体どういうことなのか……」
「アーシェさんの方が訊きたいです。そんなに変ですか、この子?」
フローラはルーチェに向けていた視線をアーシェの方に移し、口を開く。
「この子拾って三年って言ってたよね? 最初どれくらいの大きさだった?」
「これくらい」
アーシェは両手で大きさを示す。アーシェの手のひらよりは大きいが、赤子の頭よりは小さい、僅か十五~六センチほどのサイズ。
「そんなに小さいときに? ほんとの赤ちゃんだね……」
「アーシェさん、こーんな大きな狼の魔獣に襲われたことあるんですよ、山の中で」
今度は両手を精一杯伸ばして、アーシェは大きさを表す。足りないと思って、立ち上がって移動しながら、再度大きさを示して訂正する。それは三メートルを超えるものだった。
「一人だったら固有魔法使って走って逃げるだけだったんですけど、一緒に村の人がいたんで、仕方なく倒したんですよね。そしたら、どうもそこ狼の魔獣のお家だったみたいで、樹の根元の洞に、この子と他に何匹も赤ちゃんいて」
「それ拾ってきたの?」
「そう。村の人が殺してしまえって言うから、その時は置いて帰ったんですけど、やっぱり可哀想だからあとで戻ってみたら、この子だけ生き残ってて」
「じゃあ、やっぱりこの子、狼の魔獣で間違いないみたいだね。歳も三歳、そしてもう大人」
「三歳で大人なの? こんなに小さくて? アーシェさんよりも小さいですよ?」
立ち上がっても自身の胸くらいまでしかないルーチェの頭を撫でながら、アーシェは問う。フローラはもう一度ルーチェの身体をまさぐりながら説明をしてくれた。
「この子、見た目は大人の狼の魔獣と大体一緒なんだよ。それにね、狼の魔獣は半年で大人と変わらない大きさまで育つ。そして一年でもう完全に大人。これは間違いない」
「どうしてわかるんですか?」
「それ、調べた人いるから。――ね、アーシェちゃんは、この子をどうやって育てたの?」
「どうやってって……」
アーシェは首を傾げ、こめかみに人差し指を当てながら、何か特別なことをしたかどうか必死に思い返す。特に思い当たることはない。
「んー、ここで普通に育てただけですよ? ご飯も人間が食べるのと一緒。共食いになっちゃうので、お肉はあげてないですけど、普通にお米とか野菜とか。好き嫌いあるみたいで、食べないやつもありますけど。苦いのとかは嫌いみたいですね」
アーシェの説明に思うところがあったのか、フローラは顔を近づけて食いついてくる。
「お肉はあげてない。つまりお米や野菜だけなら、大人しく育つ……? いや、違うね。それなら草食の魔獣は、みんな大人しいはず。草しか食べないのでも、人見るとすぐ襲いかかってくるからね……。というか、植物ですら襲い掛かってくるのあるから、お肉は関係ない」
フローラは今度は腕組みをして考え込みだす。アーシェはルーチェと一緒に、首を傾げてそれを見上げていた。ふと、フローラが立ち上がりながら声を上げる。
「閃いた!」
そして広間の中を小走りに移動しながら、あちこち確認しだした。しばしのち、満足したのか、何度も頷きながらゆっくりと歩いて帰ってくる。
「ね、そのあげてるご飯、向こうにあるのだよね? あれちゃんと浄化したやつだよね?」
「もちろんです。体調悪くしちゃったら困るから、ちゃんとしたの買ってきて、火も通してからあげてます」
「ふっふっふっふ、あたしは今、世紀の大発見をしてしまったのかもしれない!」
フローラは天を指差し、元気よく宣言をした。その指をルーチェに向けて、フローラは言う。
「つまり、この子は浄化されたんだよ!」
「浄化……された?」
アーシェは鸚鵡返しに問いながら、倒れこみそうなくらいに首を傾げた。ルーチェが真似をして、こてんとひっくり返る。
「この場所、入り口から少し上りになってるよね? だからなのかはわからないけど、山の上みたいに瘴気が薄い気がする」
「だからここで飼ってます。他の人がここまで入ってくることはないってのもありますけど」
「ご飯もちゃんと浄化して、瘴気が含まれてないもの。そうすると、瘴気の影響がない場所で、浄化したご飯だけあげてれば、魔獣って大人しく育つんじゃないかな? 大きくもならなくて、こうやって人を襲わないどころか、お友達になれるような可愛い性格に」
アーシェはルーチェを見下ろし、不思議そうに目をぱちくりとさせる。そして突然フローラが上げた声に、その身を飛び上がらせた。
「ぎゃー! あたしは大事なことを忘れてたー!」
「ななな、なにを忘れてたんですかー?」
ルーチェを抱きしめて震えながら、アーシェはフローラを見上げて問う。
「解析!」
フローラは右手の人差し指と親指で円を作ると、それでルーチェを覗き込むようにして叫んだ。その円の中に金色の光が宿る。フローラの瞳も同じ色に輝き、アーシェはその眩しさに目を細めた。
『解析……物事を見極める固有魔法か……?』
レティスの呟きが心の中で響く。詳しいことを聞きたかったが、本人に訊けばいい話なので、出かかった言葉を飲み込んだ。
「やっぱり。お母さんはやり方を間違ってたんだ……」
「何のお話?」
「この子はね、魔獣であって魔獣じゃないの。この子は犬っていう動物。犬守村ってとこがあって、狼の魔獣に似た山神様の使いが祭られてた。どうして魔獣に似てるのかは、その村には記録がなかったけど、やっぱりこういうことだったんだ……」
「動物って何? 魔獣とは違うんですか?」
フローラはすぐにはそれに答えず、ルーチェを抱き寄せてから、その頭を撫でつつ言う。
「動物と魔獣は同じもの。あたしの解析がそう教えてくれる。昔は大人しかった動物が、瘴気の影響で狂暴化したのが魔獣なんだよ、きっと」
「瘴気の影響で……? 人間が苦しむのと一緒で、動物ってのも瘴気で苦しむの?」
「証拠はないけど、きっとそう。この子は瘴気の影響を受けずに育ったから、普通の動物として大人になったんだよ。もしかしたら魔獣は全部動物で、瘴気の影響を排除して育てれば、こうやって大人しい動物に育つのかもしれない」
嬉しそうにフローラの頬を舐めているルーチェの愛らしい顔を、アーシェは見つめた。元気に育つようにと深くは考えずにやったことが、結果的にルーチェを救った。もし外で飼っていたら、浄化していない食べ物を与えていたら、ルーチェは魔獣と化して処分することになっていたのかもしれない。自然と目頭が熱くなり、何かが頬を伝うのを感じていた。
「ルーチェー!」
フローラから奪うようにして、ルーチェを抱きしめた。その温かく柔らかい毛並みに頬ずりをする。そんなアーシェを、フローラがにこやかに眺めていた。
「やっぱりあたしのお母さんはやり方を間違ったんだ。村人の説得を諦めず、村の中で育ててみれば、違った結果が出てたのかもしれない」
フローラの意味深な台詞に、アーシェは不思議そうに見上げる。質問するまでもなく、フローラは詳細を語り始めた。
「あるところに、魔獣の研究をしている学者がいたの。その人は森で魔獣を拾ってきて、育ててみることにした。どれくらいの期間で育つのか。何を食べて育つのか。どんな性格で、何をすれば喜んで、何をすると怒るのか。それを知れば、魔獣と共存出来るかもしれないと思って」
フローラはルーチェを見つめながら続ける。
「観察しやすいように、村の中に檻を作って育てようとしたけど、村人は当然、危険だと反対した。だから仕方なく、村から離れた森の中に、頑丈な柵を作ってそこで育てた。そして狼の魔獣は半年で大人と変わらない大きさに育ち、一年で完全に大人になるっていうのを突き止めた」
「その狼の魔獣は、ルーチェみたいにはならなかったんですか?」
「うん。狼の魔獣は決して学者に懐くことはなかった。魔獣同士は意味もなく殺し合ったりはしない。肉食の魔獣が、生きていくために、食べるために殺すだけ。でも魔獣は人を食べないのに人を襲う。何もしなくても襲い掛かってくる。最後は学者も、柵を壊されて噛み殺された」
語り終えると、フローラは地面を見つめて膝を抱える。その顔は、涙こそ出ていないものの、泣いているようにアーシェには見えた。
「その学者って人、もしかしてフローラさんのお母さん?」
「へへへへ、お母さんはやり方を間違ったんだよ。きっと愛情が足りなかったんだ。アーシェちゃんみたいに、瘴気のことまで考えてあげてれば、違う結果が出てたのかもしれない」
フローラの気持ちを感じ取ったのか、側に行って慰めるように優しく頬を舐めるルーチェ。その頭を撫でつつ、フローラはしんみりと言った。
「きっとアーシェちゃんがこんなとこに住んでまで、ルーチェのことを考えてあげたから、こんなに人の気持ちがわかる優しい子に育ったんだと、あたしは思うよ?」
寂しげな様子のフローラを見て、顔も覚えていない母のことをアーシェは思い出した。
「フローラさんも独りぼっちなんですね……」
「アーシェちゃんもそうなんだね、きっと。一人で住んでるんだよね、ここに?」
「ふふふふ、アーシェさんは一人じゃないのです。このルーチェがいるのです! 家族なのです、アーシェさんの!」
ルーチェはアーシェの方に戻ってきて、押し倒すようにして顔を舐め回し始める。またしばらく嬌声が続いた。フローラも参戦したので、かつてない規模の騒ぎとなった。