第一話
萌葱色の風が吹いた気がした。後に残ったのは、幼い頃に見たことのある気がする、特徴的な形状の節の目立つ天井。目玉のようで怖いと泣いた記憶が蘇った。それで今の萌葱色の正体に思い至り、風が吹き去った方向に首を回す。
「くーちゃん……」
クリスはベッドの側に置いた椅子に座り、窓の外を見ていた。アーシェの声を聞くと、視線だけを向ける。
「あら、やっと目が覚めたのね。随分とよく眠る子だこと」
「ここ……くーちゃんのお家? アーシェさん、どうしてこんなとこで……」
次第に思考がはっきりしてきて、意識を失う直前の出来事を思い出す。アーシェはベッドから跳ね起きて、大きな声を出した。
「あの子は!? あの背中大怪我した子はどうなったの!?」
ベッドから飛び下りたものの、脚に力が入らずその場で崩れ落ちた。
「他人の心配もいいけど、自分の心配もしなさい」
クリスが立ち上がり、アーシェを引き起こしながらそう言う。その瞳には怒りの色はなく、どちらかというと哀憐の色が浮かんでいるように見えた。
「母様はむしろあなたの方を心配していたわ。時の流れを変える固有魔法を使うと言えど、あなたのやったことは異常だと。実際、あれから丸三日近く眠っていたのよ」
「丸……三日!?」
鸚鵡返しに驚きの声を上げながら窓の外を見ると、もう傾いて色が変わりつつある陽が、そこにはあった。少なくとも、丸一日眠っていたことは確かのようだった。
「どうなったのかは、自分の目で確かめてきなさい。ほら、これあげるわ」
アーシェの手に置かれたのは、竹の皮で包まれた握り飯と木製の水筒だった。アーシェはそれを見て、満面の笑みに変わる。
「くーちゃん、ありがとう! 食べさせてきますー!」
そう言ってまだ覚束ない足取りながらも、小走りにクリスの家を出ていく。扉を閉めるときにクリスが何かを言っていたが、アーシェは気付かず祝女の屋敷の方へと坂を上り始めた。
『それは己の分だと言っておったぞ』
「ふぇっ!? 助かったから食べさせて来いってことじゃないの……? え……じゃあ、もしかして、あの子死んじゃったの……?」
アーシェは絶望に包まれて立ち止まった。呆れたようなレティスの声が心の中で響く。
『三日も経っているのだ。助からなかったのなら、既に埋葬されているであろう。ならば見てこいではなく、聞いてこいと言うはず。それは三日間飲み食いしていない己の分だ』
レティスの言うことの論理性は、急に襲い掛かってきた猛烈な空腹感が証明した。
アーシェは包みを開けると、中の握り飯に大きく口を開いてかぶりついた。かなり柔らかく蒸してあったが、唾液がうまく出ず、咀嚼に苦労する。木筒の蓋を開け、水で無理やり流し込んだ。そのまま貪るようにして飲み食いしながら、ゆっくりと坂を上がっていく。
「アーシェちゃん、大活躍だったねえ」
「暴走娘も、たまには役に立つもんだな」
道中村人たちに掛けられた声で、自身の努力が無駄には終わらなかったことを、アーシェは確信出来た。祝女の屋敷の前に辿り着いたときには、その頬は既に濡れそぼっていた。鼻を啜ってから、扉を叩いて声を掛ける。
「祝女様! カテナ様! アーシェです」
ややあってシャロンの返事がして、扉が開かれる。アーシェに向かって満足気に微笑むと、詳しいことは話さず奥へと案内してくれた。
「フローラ殿、お待ちかねのアーシェさんが来ましたよ」
病室となっている、ベッドが複数並んだ大部屋に入ると、シャロンはそう声を出した。それに反応して、ベッドの上で上半身だけ起こしていた少女がこちらを振り向く。三つ編みにして左肩から前に垂らした、金糸雀色の巻き毛が勢いよく揺れた。菜の花色の瞳がアーシェに向くと、整った顔立ちがくしゃっと崩れる。
「あなたがアーシェちゃん? 聞いてたよりもずっと小さいんだね。助けてくれてありがとう」
「良かったですー!」
アーシェは走り出し、ベッドの上の少女に飛びついた。その胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
「良かった、良かった、ほんとに良かったですー。もう無理かもしれないと思ってたからー」
「へへへへ、無理だったのに、あなたがどうにかしてくれたんだよ」
少女はアーシェの頭を撫でながら、心底嬉しそうに笑った。そしてアーシェの小さな身体をぎゅっと抱きしめ、頬を寄せて耳に直接囁くようにして言う。
「本当にありがとう。もう絶対死んだと思ってたから、最初はここ、伝承にある天国とやらだと思っちゃったよ。助かったって言われても信じられなくて、解析しまくっちゃったもん」
「でも本当に天国なのかも。だってアーシェさん、今幸せいっぱいすぎるから」
そう言って互いに頬ずりをして、人肌の感触を確かめ合う。その温かさと滑らかさが、ここは幻想の世界ではなく、現実の世界だと教えてくれていた。
少女はアーシェの身体を両手で引きはがすと、間近で瞳を覗き込みながら笑顔で問う。
「あたし、那智フローラ。智路村ってとこから来たの。あなたはアーシェちゃん?」
「智路村? 変な名前……」
「こら、他人の村の名前に失礼だよ」
「あははは、ごめんなさい。アーシェさんです。神代アーシェさん!」
間近で見つめ合いながら、満面の笑みを交わし合う。アーシェは生きていることの喜びを感じ取っていた。人の死が日常的なこの世界において、これほど幸せなことはない。満足感と達成感がアーシェの身体に満ち満ちて、思わず力が抜けてフローラの胸に寄りかかってしまう。
「本当に良かったです、本当に……」
「ありがと、アーシェちゃん。何度お礼を言っても言い足りないよ。一生言ってるかも」
フローラはアーシェの身体を抱きとめ、何度も頭を撫でる。しばらくしてから、ずっと黙っていたレティスの声が心の中で響いた。
『アーシェ、己も礼を言わねばならぬ』
「ありがとう、フローラさん!」
胸に顔を埋めたままそう礼を言うも、レティスは苦笑しながら否定する。
『そうではない、クリスにだ。一睡もせず、ずっと看病してくれていたのだぞ?』
「ええっ!?」
アーシェは驚いて跳ね起きた。フローラも突然のアーシェの行動に目を丸くしている。
「あ……えっと……ごめんなさい! アーシェさん、くーちゃんとこ行かないと!」
何が起きているのか把握出来ないのだろう。呆然とした様子のフローラを置き去りにして、アーシェはベッドを飛び下り部屋から出ていく。様子を見に来ていたカテナが、肩を竦めてその後姿を見送った。
「ふおおおお! どいてどいてー!」
アーシェは軽く時間暴走を使いながら、坂を駆け下りてクリスの家へと向かう。
『全く元気な奴だ。つい先程まで昏睡していたというに……』
レティスの呆れた声が心の中で響く。アーシェは誉め言葉と受け取って、特に気にはせずにクリスの家の扉を開けた。
「くーちゃん!」
目に入ったのは、アーシェがいなくなって空いたベッドに横たわったクリスの姿だった。かなり大きな声をかけてしまったはずなのに、返事すらない。
「くーちゃん……?」
不審気な表情でベッドの側に歩み寄る。クリスは穏やかな寝息を立てて、熟睡しているようだった。こんなに大きな声を出したのに目を覚まさないクリスを見るのは、初めてだった。よほど疲れているのだろう。
自分のために、クリスも無理してくれていたことをアーシェは察した。その薄萌葱色の柔らかい髪の毛をそっと撫でる。触れられても目を覚まさず、クリスは昏々と眠っていた。アーシェは慈しみの微笑を浮かべて、その安らかな寝顔を眺める。
『そっとしておいてやれ。看病が必要な状態ではない。己は家に戻って、しっかりと栄養補給をし直せ』
「あ、そう言われるとお腹ペコペコ。フローラさんに色々聞きたいことあるけども……。もう暗くなってきたし、今日は大人しくお家に帰りますか……」
最後にクリスの頭を一撫ですると、なるべく音を立てないよう扉を閉めて外に出る。そしてはたと気付いた。
「ルーチェ! ルーチェ怒ってるかも! 三日もほったらかしにして。――それよりもご飯! ルーチェもご飯食べてないかも! 三日分も置いてなかったもん。ルーチェが死んじゃってたら、アーシェさんのせい……。急がなきゃ! ふおおおお!」
アーシェは再び時間暴走を発動して坂を駆け下り始めた。心の中でレティスの溜息が聞こえる。
『やれやれ、己は本当に走ってばかりだな……』