第四話
「祝女様ー! カテナ様ー!」
村の一番高いところにある祝女の屋敷の扉を開け放ち、中に駆け込むと同時にアーシェは叫んだ。時間暴走状態のまま飛び込んだので、アーシェの身体によって押し出された空気が暴風と化し、玄関の中を吹き荒れる。置物が倒れて派手な音を立て、蝶番が故障した扉が斜めになって、耳障りな軋み音を発す。しかしそんなことは一切気にせず、アーシェは再び叫んだ。
「祝女様ー! カテナ様ー!」
アーシェにとってはやっと、しかし実際にはすぐに、玄関脇の部屋から側女が顔を出す。
「何事ですか! ……あなたですか、相変わらず騒がしい子ですね。――その方は?」
アーシェに背負われた少女に気付くと、側女は不審げな表情に変わって駆け寄ってきた。
「シャロンさん! 大変なの! この人、大怪我してて。カテナ様、カテナ様呼んできてください! それから祝女様も! 魔獣にやられた傷なんです、これ。浄化しないと治らないかも!」
アーシェは向きを変えて少女の背中を見せる。側女のシャロンが深刻な表情に変わったのが、見なくてもわかった。場の空気が張り詰める。
「すぐに奥へ。あいにくお二方ともご不在です」
「どこ行ったんですか? すぐ呼んできます」
奥の板間へと案内され、そこへ俯せに少女を横たわらせながら、アーシェはシャロンを見上げる。しかし彼女は首を横に振り、アーシェにとっては絶望的な返答をした。
「カテナ様はオーメからお戻りになられておりません。わたくしが手当てをします」
小刀を取り出し、慣れた手つきで少女の服の背中を裂き始める。彼女も治癒師であったことを、アーシェは思い出した。ただの側女ではなく、祝女であるセシリアの母にして偉大なる治癒師、カテナの助手としても働いている人間だった。
「これは……なんと酷い……」
剥き出しになった少女の背中は赤黒く染まっており、爪の形に深く抉れて、骨が見えている場所も多数あった。生きているのが不思議と思えるくらい酷い状態で、アーシェは思わず身を震わせながら視線を逸らした。
『急いでセシリアを呼びに行け。瘴気を浄化せぬと命を落とすぞ、これは』
レティスの忠告に従い、治療の邪魔にならぬよう努めて声を抑えて、アーシェは問う。
「祝女様は? 祝女様はどこに? せめて浄化しないと治りません、これ」
「祝女様は今頃山頂でしょう。お戻りになられるまでは、まだかなり……」
「ええっ!? なんでこんな時間に、また山頂に?」
アーシェは窓の外を見て、既に陽が傾きかけているのを知って思わず大きな声を出した。
「今日もお忙しく働いておられましたから。今朝はこの間生まれたクロカミの赤子の容体が急変し、浄化に行っておられました。近頃クロカミが急増しているのは、もちろん知っているでしょう? 彼女らの家々の浄化の仕事もお忙しく、ご不在がちなのです」
「そんなあ……」
アーシェは大きく肩を落とし、その場にへたり込んだ。シャロンは手から淡い光を発生させて傷口に当てる。カテナと同じ治癒の固有魔法に見えたが、大分効力は弱そうだった。
「イロカミでも耐性の低い者が出てきているでしょう? それらの家も周る必要があるらしく、暗くなってから山を下りられることも多くあります」
「どうしてそこまでして御神体のところへ……? こういうときのための祝女様じゃないんですか?」
その言葉を聞いて、シャロンは視線だけ一瞬アーシェに向けて答える。
「そう仰らずに。だからこそ姫神様にそれを収めてもらうべく、お祈りが欠かせないのです。カテナ様がおられないのも、その件について他の村の者との会合を持っているからです」
『アーシェ、ほとんど治っておらぬ。このままではセシリアが戻る前に死ぬ。呼びに行け』
「でも、勝手に禁足地に入るわけにも……」
レティスの言葉にそう答えるも、少女は今にも死んでしまいそうにアーシェにも思えた。
『物事には優先順位というものがあるのではなかったのか?』
「しきたりよりも……人の生命の方が大事!」
後で怒られるのは覚悟の上。禁足地となっているこの先の領域に踏み込んで、山頂へ向うべくアーシェは立ち上がった。振り向くと、騒ぎを聞きつけたのか、クリスがやってきたところだった。
「くーちゃん、大変なの! この子魔獣に襲われて――」
「あなたはすぐにオーメに向かいなさい」
アーシェの言葉を遮るように、クリスが鋭く言う。一目で状況を把握したのだろう。
「母様はきっとオーメの集会場にいるわ。会合の後、昨日私が連れ帰った人の仲間の手当てをするために残ったのだけれど、それは終わってるはず。姉様は私が呼んでくる。これでも一応は祝女の一族。緊急時に呼びに行くくらいなら、罰されることはないはず」
「くーちゃん……」
「急いで。あなたの方がずっと遠くまで行くんだから」
クリスは言い終わる前にもう振り向いて駆け出していた。アーシェもその後を追って屋敷を飛び出す。左手に曲がって禁足地へ向かうクリスの背中を見送ると、アーシェは直進しつつ固有魔法を発動した。
「ふおおおおお! 時間暴走、最大出力!」
坂を転げ落ちるようにしてアーシェは村の中を駆けていく。葛折りになっているところでは近道をして崖や急斜面を飛び下り、樹の根に足を取られて実際に転げ落ちた。それでもすぐに立ち上がると、ひたすらに突き進む。先程往復した道を再び走り、河沿いに何もかもを振り切ってオーメへと驀進した。
並の人間の脚であれば、歩いて四時間くらいはかかる道程。運動能力に長けたイロカミが走ったとしても二時間以上はかかる荒れた道を、アーシェはほんの二十分もかけずに走り抜いた。
前方の平地に、背の高い樹々に埋もれるようにして、開けた一角が見えてきた。古代遺跡の並んでいた一帯を切り拓いて作った、オーメの街。そこまで一気に走り寄る。
石灰岩を積んで作られた紅白の石垣に囲まれた場所で、斜面状になった部分が入り口である。魔獣侵入防止用の鉄製の防護柵を軽々と跳び越え、その向こうの下り斜面の先まで宙を舞う。驚いて見上げる人々が視線を向けるのも追いつかない速度で、何度も来たことのある交易都市オーメの中を突き進んだ。
中央にある石造りの建物の前まで行くと時間暴走を解き、入り口の扉の横に寄りかかっている屈強な女性に声をかけた。
「すみません、カテナ様いませんか? 姫神村の、神和カテナ様! ここ集会場ですよね?」
突然現れたように見えて狼狽えたのだろう。目を丸くしてアーシェを眺めるだけで、女性は何も答えない。アーシェは荒い息を吐きながら、その服に掴み掛かって激しく揺さぶった。
「カテナ様です、カテナ様! 姫神村が今にも死にそうなんです! すぐに来てもらわないと、大変なことに!」
「カ、カテナ様なら、今大事な打ち合わせの――」
やっと口を開いた女性の言葉を搔き消すようにして、鋭い大声が響く。
「何事だい! まったく喧しいね、大事な話をしている最中だというのに!」
「カテナ様!」
その威厳と活力に満ちた声は、紛れもなくカテナのものだった。
「おや、アーシェかい。騒々しいわけだ。一体何をしに――」
奥から出てきたカテナの姿を認めると、背の高いその身にアーシェは突撃した。
「大変なんです! 祝女様がいなくて、くーちゃんが呼びにいって、血がいっぱいで骨が見えてて、瘴気もたくさん纏わりついてて――」
余りにも慌て過ぎているからか、ずっと全力で走って酸欠になっているからか。まともな説明になっていないことを、アーシェは自覚すら出来ていなかった。
「待て待て、落ち着け。お前はいつも何を言っているのかよくわからぬ」
カテナは両手をアーシェの肩に置いて押さえつけ、落ち着かせようとするも、アーシェはそれを撥ね退けて抗う。
「落ち着いてなんていられません! とにかく帰らなきゃ! 早く帰らなきゃ!」
「何故帰らねばならぬ。今大事な話をしているところだ。それ以上の理由というのなら、きちんと説明をせい」
『どちらにせよ、普通に帰ったら間に合わぬ。己が抱えていけ。力は貸してやる』
レティスの言葉とともにアーシェの身体に魔力が供給され、再び力が漲ってくる。
「ふおおおおお!」
アーシェは雄叫びを上げると、右手をカテナの股の間に突っ込み、左手で肩を掴んで、その身体を持ち上げた。既に時間暴走を発動しており、カテナには抵抗の余地がないほどの速度。そのまま両肩に担ぎ上げる形で、アーシェは振り返った。
「時間暴走、最大出力! 間に合って、アーシェさん!」
自らを鼓舞しつつ、自分よりはるかに大柄なカテナを担いで走り出す。自身の体重は時間暴走中軽くなるようだが、他人の重さは変わらない。二倍近くあるカテナの体重を支えるアーシェの脚は、魔力を帯びて強化されているとはいえ、疾走の負荷で悲鳴を上げていた。歯を食いしばりつつ、いつもの雄叫びを上げる。
「ふおおおおお! 絶対、絶対間に合わせますよー!」
自らの脚を激励し、爆走を続けた。
「頑張って、アーシェさんの脚! ここが勝負所! 姫神村に着いたら折れちゃってもいいから、それまではなんとか耐えて! お願い!」
アーシェの遥か前方では光の剣が多数舞い続け、その進路を事前に確保する。闇に包まれつつある森の中で、それを目印にしてアーシェは突き進んだ。意図を汲んでくれたのか、カテナが暴れもせず大人しく担がれていてくれることが救いだった。
流石に上りはきつく、速度は下がる。ましてやカテナを担いでいる。それでもオーメから二十五分ほどで祝女の館まで駆け上がると、外でクリスが待ってくれているのが見えた。
「くーちゃん!」
アーシェは時間暴走を解くと同時に力が抜け、カテナの重みでその場に押し潰された。
「母様、詳しい説明聞けてないと思うから簡潔に教える。アーシェが重傷者を連れ帰ってきたの。浄化はもう大分進んだと思うけど、傷はほとんど治っていない。かろうじて生命を繋いでいる状態。母様でないとあの子は助けられない。奥へ行って早く治療してあげて」
「わかった。傷は洗ったか? 薬草も塗るだけでなく飲ませたか?」
「抜かりはないわ。シャロンはよくやっている。早く奥へ。――アーシェ? アーシェ?」
アーシェの意識はもうほぼ喪失していて、視界は真っ暗だった。クリスが身体を揺り動かし声を掛けているようだったが、返事をすることも出来ずにそのまま混濁の淵へと落ちていった。
『己はよくやった。褒めて遣わす。己の生命は、我が守ろう』
最後にそうレティスの声が聞こえた気がした。