第四話
『アーシェ、我は今、失望しておる。絶望ではなく、失望だ。何故だかわかるか?』
レティスの唐突な質問の意味は、アーシェには当然わからない。神に失望したというのだろうか? 何も罪などないように思える人々を、一方的に滅ぼそうとすることに?
『神ではない。己に失望したのだ。己はこの程度で立ち止まるような人間であったか? 他人のためになら、どこまででもただまっすぐに突き進む、暴走娘だったのではないのか?』
「それは……そうですけど……みんなを助けたいですけど、でもこんなの勝てるわけありません……」
『やる前から決めつけるなとクリスを叱りつけたのは、己ではなかったのか?』
「でも……でも!」
アーシェの目の前に、一振りの光の剣が浮かび上がる。いつも見慣れている雷霆。今までアーシェのために数々の敵を打ち倒してきた、神殺しの剣。
『彼奴らは神ではない。所詮ただの使い走りに過ぎない。この神殺しの剣の真の力を解放すれば、彼奴らごときがいくら群がろうとも、畢竟、蚊虻の如き存在に過ぎぬ』
「雷霆は、そんな力を……?」
『しかし、今の我には叶わぬ。己の魂の中に囚われしこの身では』
「じゃあ、どうすれば……?」
『己にはあるか? あの時のように自らの魂を捧げてでも、人々を救う覚悟が? その身体を我に明け渡してでも、あの者どもを打ち倒す覚悟が?』
あの時のように。そのレティスの言葉とともに、アーシェの脳裏に不思議な光景が浮かび上がった。
空を走る無数の稲妻。照らし出された大理石の台座。そこに横たわる黒髪の少女。迫りくる海神の軍団。そして顕現する、神殺しの咎人。少女の魂を贄とし、その身を依り代とし。神に抗う、雷霆の如き光の剣。
それは前世の記憶。かつて大海に消えた、幻の大陸での出来事。
「アーシェさんは……神代の巫女……。神をこの身に宿すための器」
『あの時、我はポセイドンに負けた。しかし今度は違う。間違った儀式による偶発的な召喚ではなく、共に転生した身体の譲渡。そして相手はただの神の下僕』
アーシェは自分の胸に手を当てて呟く。頬に涙を伝わらせながら。
「だからレティスさんは、アーシェさんの中にいたんですね……。この時のために、みんなを救うために、いてくれたんですね……。クロカミだったアーシェさんを生き永らえさせ、天使と戦うために。……レティスさんは、やっぱり姫神様。アーシェさんは、姫神の神代!」
アーシェはすっくと立ちあがった。目の前に迫る天使の大軍を見上げて言う。
「フローラさん、ルーチェのことお願いします。ご飯は朝晩ちゃんとあげてください」
同じく放心状態で空を見上げていただけのフローラの視線が、アーシェを向く。その眼が驚愕に見開かれた。
「まさか……戦うつもり、あれと? あんなのと?」
「大丈夫、レティスさんが代わりに戦ってくれます。レティスさんは神殺しの咎人だから。あんなのには負けません」
「代わりにって……どういうこと、アーシェちゃん?」
不審気な顔で見上げるフローラに、アーシェは自信満々な笑顔を向けた。
「アーシェさんは、神と戦うために、神を受け入れるための器。そのために、またこの世界に生まれてきたんです、きっと」
アーシェは瞼を伏せ、胸に手を当てて告げる。自分の心の中に住む守護神に向かって。
「生贄にでもなんでもなります。この身体も、魂も、みんなを救うためになら、全部捧げます。その代わりお願い。必ずみんなを助けて。くーちゃんを、フローラさんを、ルーチェを、必ず守って!」
『よく言った。神殺しの本領を見せてやろう。数多の神々を震え上がらせた、咎人の力を!』
レティスの言葉とともに、アーシェの漆黒の髪が、光り輝くような月白色に変わる。その瞳は、空色に煌めいていた。
「この全身を駆け巡る力……やはり、神代の巫女の身体は違う」
アーシェは――いや、アーシェの身体を受け継いだレティスは、拳を握ってその感触を確かめた。そして呆然と見上げているフローラに告げる。
「そこにいると巻き込まれる。クリスと合流して、村人たちと山を下りるのだ。なるべく遠くへと逃げよ。あとは我に任せろ。あの程度の輩、粉々に打ち砕いてみせよう」
レティスは天を見上げ、手を掲げて呟く。
「雷霆」
その上空に巨大な光の剣が顕現した。山頂へと降下してきていた天使の一体に急速に迫る。蒼白い輝きが一気に降下し、一撃で両断した。
「その姿……この力、アーシェちゃんじゃ……ない? レティスさんなの? アーシェちゃんは!? アーシェちゃんはどうなったの!?」
「今は話をしている時間はない」
「でも!!」
「いいから早く逃げよ。アーシェの心遣いを無駄にするな。貴様が死んだら申し訳が立たん。行け! 攻撃が来るぞ!」
フローラは一瞬の躊躇の後、何かを振り切ったかのように立ち上がり、転げるようにして駆け出した。それを確認すると、レティスは再び天を仰ぎ、次々と光の剣を生成する。幾多もの神殺しの剣が降り注ぎ、あるいは下から突き上げ、横から薙いで、天使たちを打ち倒していく。
しかし幾百とも幾千とも知れぬ天使たちの、ごく一部を切り崩したに過ぎない。レティスへと向かって、天使たちから雷撃が降り注ぐ。火焔が渦を巻いて燃え盛り、冷気が大地を凍結すべく襲い掛かる。
「時間暴走」
レティスが静かに呟くと、時間の流れが極小化した。まるで空中に固定されたかのような天使の攻撃の間を、余裕の表情で駆け抜ける。
「まるで止まっているように見えるぞ。アーシェ、己の力と我の力は相性が良いようだ。己の時間暴走があれば、この雲霞の如く空を埋め尽くす大群ですら、まさに雲霞のように弱き存在に過ぎぬ。搔き消せ、雷霆! 人々の暮らしを脅かす敵を打ち払え!」
レティスは姫神山の急斜面を駆け下りながら、次々と雷霆を展開する。レティス自身が発動した時間暴走は、雷霆にも影響を与えていた。時間の流れの変化に巻き込まれることなく、レティスから見れば等速に、天使たちから見れば高速に飛び交った。
「貴様らはこの世界では悪魔と呼ばれているが、確かにお前たちは天使ではなく悪魔だ。この時代の人々のこともよく知らずに、一方的に正義を振りかざすなど、神々の方こそ驕り高ぶっているではないか!」
レティスは駆け巡る。まるで暴走娘アーシェのように。山中を走りながら、天使の軍団相手に一方的に攻撃を続けた。
「イロカミを生み出したのは、神々が振り撒いた瘴気だ。それは人の罪ではなく、神の罪」
隣の山の頂へと駆け上がると、移動したことに気付いてすらいない天使たちに向かって、レティスは手をかざす。巨大な光の剣がその前に生成され、伸びていく。
「女だけで繁殖できるよう人を改造したことは、確かに神への反逆かもしれない。だが、それは古代人がやったこと。この時代の人類の罪ではない。生み出された者たちに、その子孫たちに、何の罪があるというのだ!」
数十メートルはあろうかという、剣の形をした眩い輝きが、回転しつつ天使へと飛んでいく。そしてまとめて両断していった。
「彼女たちは、無駄に殺すことはせず、大地を汚染することもない。狭い土地に身を寄せ合って瘴気を避け、ただ必死に生き抜いてきただけではないか。古代図書館の扉を開いたことで、危機感を持ったのかもしれない。だが、かつての人類と同じ過ちを犯すとは限らない。可能性だけで人々を虐殺するなど、それこそが許されぬ罪であり、過ちではないか」
あれほど無数にいた天使たちの数が、明らかに減っている。まばらに宙を漂うその無力な姿を見て、レティスは勝利を確信した。
「過ちを犯した神は、どの神が裁くのだ? それはきっと我の役目なのだろう。我は今この瞬間のために、悠久の時を越えて、この時代に転生したのかもしれぬ。神に抗い、神を裁く、この神殺しの力。それを最大限に引き出させてくれる、心優しき盟友アーシェと共に!」
劣勢を覆すための援軍だろうか。六枚の翼を持つ巨大な天使が、後光を背負いつつ雲間から降臨してくる。その姿を認めると、レティスは遥か上空へ向けて手をかざした。そして宣う。
「我が名はアーシェ=レティス。神を断罪する者なり。逃げ帰って貴様らの主に伝えるがよい。自らの過ちを悔い改めず、人々を虐げるというのなら、天界まで攻め込みその頸を刎ねると!」
優に百メートルは超える巨大な天使の頭上から、さらに巨大な光の剣が降臨する。キロメートル単位の大きさと思われるその輝きは、まさに神殺しの名に相応しい威容を誇っていた。剣先だけで六翼の大天使の姿を消し飛ばすと、そのまま光の粒子となって空中に散っていった。
あとには、極光のような神秘的な輝きだけが残った。あれほどいた天使の大軍は、初めからそんなものなどいなかったかのように、全てが消滅していた。空を揺蕩う、蒼白く輝く不思議な光の渦だけが、何かが起きたということを伝えていた。
その冷たい色の光の渦は、やがて温かな色に変化していく。優しく大空を包み込みながら、だんだんと赤みを増し、曙光のような輝きとなって、真昼の朝焼けを空に拡げていった。




