大国の継承者⑤
花色の瞳を惜し気もなく晒すように、エルシは目を大きく開いていた。
寮舎を出て、すぐそばにあるグラウンドの芝生の上に寝転がり、はあはあ息を切らしちゃってね。押し倒された時に強かに打ち付けた頭が痛んで、朦朧としていたの。わた飴みたいなふわふわの雲が青空を流れてゆくさまをぼんやり眺めていると、それを遮るように視界の端から美丈夫がひょっこり顔を出した。カタリーナの長い足がエルシの脇腹を挟むように立っているもんだから、これじゃあ身動きが取れやしない。
「もう……ダメ…………」とエルシが息も絶え絶えに言った。
「何言ってんスか、初めたばかりだろ。お楽しみはまだまだこれからッスよ」
とカタリーナ。薄笑いを浮かべるさまがとても意地悪そうだ。
「ほらエルシ、いい子ッスから、からだの力を抜きなって」
「無理だよ、こわい…………カタリーナ、痛いのは嫌だ……!」
「大丈夫ッス、俺の言う通りにすれば痛くないッスよ」
首を横に振るうエルシを見下ろすカタリーナが優しく言う。子どもに言い聞かせるように、「大丈夫、大丈夫ッスよ……」ゆっくりと繰り返した。真っ赤に彩られた唇をペロリと舌舐めずりする。
「優しくシてあげるッスから、安心しなエルシちゃん」
そう言うとカタリーナは、皮の手袋を着けた拳を大きく振りかぶった。
「ぎゃあぁあ!?あっっっっぶな!!!」
迫り来る拳の風圧を顔で受けたエルシはぎょっとしてね。身を捩って蜥蜴みたいに這いながら、なんとかカタリーナの足の間から抜け出した。
ちょっとの間もなく、すぐ後ろで大きな破壊音が聞こえたもんだから、エルシが慌てて振り返ってみると、芝生に直径30センチほどの穴が開いていてね(それがまた、先ほどまでエルシの顔があった場所でエルシはゾッとしたの)。その中心にはカタリーナの腕が突き刺さっていた。地面にめり込む拳を引っこ抜くと、手袋についた土を払い落とした。
「避けちゃ駄目じゃないスか~」とカタリーナが楽しそうに言った。
「どこが優しいのさ!?それ絶対痛いやつだよ、嘘つき!当たったら死んじゃうやつだよ!」
エルシはつい声を荒げてね。這いつくばったままカタリーナを睨み付けた。先ほど蹴り飛ばされた時に走馬灯を見たばかりなのだ。普段はおとなしいエルシが感情的になるのも無理はない。
「だーからぁ、痛みなんか感じる間も無く半殺しにしてあげるッスから。俺って優しい!」
「カタリーナは優しいの定義が普通とズレてる…………これくらい!ズレてる!!」
エルシが両手をうんと広げて説明するけれど、手をグー・パーと閉じて開いてを繰り返すカタリーナは知らんぷりだ。
「いい特訓日和ッスね~」と、朝一番にエルシの寮部屋を訪ねたのはカタリーナだった。寝ぼけ眼を擦るエルシを半ば無理やり引きずり出してね。特訓の内容とルールを簡単に説明すると、エルシが質問する間も与えず蹴り飛ばしたの。
「つまりッス」とカタリーナ、「エルシに必要なのは、御伽能力を自由に使いこなせるようになることでオッケー?」
親指と人差し指で輪っかを作り、その穴を覗くようにエルシを見た。
「そうだよ………」とエルシが蹴られた尻を撫でながら肯定した。
「ついでに体力もつけた方がいいッスねぇ。昨日王都を歩き回っただけですげーバテてただろ?このもやしっ子!」と、誂う口調でカタリーナ。
「て・わけで、今から殴る蹴るの暴、…………戦闘訓練をしたいと思うッス!エルシは逃げずに全部受けること!反撃できるもんなら、してもいッスよ~」
「……え?ちょっと待ってどういうわけ?今何て言っ、」
「はいっじゃあスタァートォ!!」
カタリーナ曰く、「死に瀕した際や本能がヤバい!って感じた時に、御伽能力は覚醒しやすいんスよ」らしくってね。そんなわけで、体力向上も兼ねた戦闘訓練が始まったのは数分前のこと。すでにエルシは息も絶え絶えだ。
「エルシはさ、からだに力が入りすぎなんスよ。悪退治の時もすっげー緊張してただろ?全身の筋肉がガッチガチに強張ってるから、いざって時に動けないんスわ」
そう言うとカタリーナは、地面に転がるエルシを引っ張って立たせてね。キャッチボールをするように胸の前で手を構えた。
「試しに、パンチ打ってみ?」
と薄ら笑いするカタリーナに、エルシはムッとした。これは完全にナメられている。僕だって学園に来るまでは、教育の一環としてリデル家でしょっちゅう模擬戦闘をさせられていたのだ。少しは戦えるってところを見せてやる!意気込んだエルシはぎゅっと拳を握った。
「えいっ」エルシは渾身の一撃を放った。
「…………マジッスか」拳を受け止めたカタリーナは愕然とした。弱い、弱すぎる。
エルシの拳を軽くあしらい、カタリーナは退屈そうに欠伸をした。
「そんな蚊の止まったような激ショボへなちょこパンチじゃあ、悪どころか虫も死なないッスよ」
「ひ、ひどい」
「予想以上のショボさに開いた口が塞がらないッスわ」とカタリーナ。
「手だけで打とうとしちゃダメなんス。からだ全体を捻るように打たなきゃ。こう…………パンチを打つと同時に腰を回転させて、下半身の重心を拳に乗せる感じで」と言いながらカタリーナは軽く拳を握り、足を肩幅に広げて構えてね。寮舎の近くに聳え立つ大木に照準を合わせると、「標的に向かってぇ~………真っ直ぐ、打つべし!」拳を大木の方向に打ち出したの。ビュッと鋭い音がエルシの横を通り過ぎると、風圧を真っ正面から食らった大木が破裂するように真ん中からへし折れた。
「って・とこスかねぇ。エルシちゃんやってみ?」
ドシン………!と大きな音を立てて地面に倒れた大木を一瞥してから、エルシはスッと手を挙げた。
「カタリーナ先生、僕には出来ないと思います」
「やってみないと分かんねぇと思いまス。鍛えりゃなんとかなる、諦めたらそこで終わりッス!」
「まさかの根性論!」
「ガッツあるのみッスから!でなきゃ、エルシはいつまで経っても落ちこぼれのままッスよ?それでもいいんスか?」
煮え切らないエルシの態度にカタリーナは眉を潜めた。カタリーナに聞かれ、エルシは言葉に詰まったの。昨日悪と対峙した時、御伽能力が発動できずに自分の腑甲斐無さを嘆いたばかりだ。無力な落ちこぼれのままじゃ、エリーシャに辿り着くことだって出来やしない。視線をあちこちに彷徨わせた後に、エルシはカタリーナの目を真っ直ぐ見つめたの。唇をきゅっと結び、なけなしの勇気を振り絞った。
「それは…………やだな。僕は強くなりたい」
「じゃ・決まりッスね」
カタリーナは満足げに頷くと、右手の指を3本立てた。
「先ずは御伽能力の覚醒と体力の向上、そんでもって戦闘技術の底上げが目標ッスね!友達をボコボコのボコにするのは気が引けるけど、…………これもエルシの為ッスもん!心を鬼にしてビシバシいくッスよ~!」
「………楽しそうだね」
「あーもー心が痛むッスわ~!そんじゃ早速行くッスよ、御伽能力【白雪姫】!」
心にもないことを口にするカタリーナは終始笑みを絶やさずにいてね。手袋を外して御伽能力を発動すると、左手にドロリとした粘液を纏った。翡翠色の猛毒に覆われたカタリーナの拳は、日光に反射してキラキラと輝いていてね。悪かと見間違うほどの悪悪しい表情をつくる友人を前に、エルシは顔を真っ青にしたの。
「え、待って。能力使うのはナシだよ」
「何を甘っちょろい事を言ってんスか。アリでしょ」
「僕を殺す気なの!?」
「最初からそう言ってんじゃないスか。でも俺は優しいから、手加減して半殺しにしてあげるって。ほら、避けんなよ~?」
とカタリーナ。当然のように言われたエルシはゾッとしたの。
あ、これはダメだ。半殺しってのは冗談でも比喩でもなんでもない事実で、つまり避けなきゃ確実に死ぬってことだ。悟ったエルシは忽ちに気が気じゃなくなってね。
「………戦略的撤退ってやつも、時には必要だよね」とエルシの独り言、「頑張る覚悟は出来たけど、僕はまだ死ぬ覚悟は出来てないんだ」
間もなくエルシが回れ右をすると、(「あっ、こらエルシ!逃げずに攻撃受けるんスよ!」と背後でカタリーナが叫んだが聞こえないフリだ)視界の端に美しい碧が映り込んだ。海のように深い碧色の髪を風に靡かせながら歩いてくるセーレンは、エルシと目が合うと上品に微笑んでみせた。
「二人とも………何、してるの……?」
「今訓練中なんスよ」カタリーナが風で乱れた前髪を整えながら言った。
「セーレン!」とエルシが思わず泣きついた。額に汗をかいてカタリーナから逃げようとするエルシを、セーレンはうっとりと見つめたの。
「エルシ……ぐったり、してる、姿も、……素敵ね。私も、戦闘……訓練、参加しよう、かしら………」
「え」
カタリーナ側への加勢発言に、駆け出そうとしたエルシの足が止まる。追い打ちをかけるようにカタリーナが声を弾ませた。
「ちなみにセーレンは訓練でも手加減しない常に全力少女なんで、気を抜くとガチで死ぬッスよ~」
「頑張る、わ」
「寄って集って僕を殺す気なの!?」
肩をぐるぐると回して準備運動を始めるセーレンに、エルシは慌てて待ったをかけた。
「ところで、セーレンは何しに此処へ?」とカタリーナ。その顔には頭上に広がる青空よりも爽やかな笑みを浮かべていてね。スカートに付いた砂埃を払い、少し離れたところにある花壇の縁にちょこんと座るセーレンを振り返った。エルシに懇願されたセーレンは、戦闘訓練には参加しないで大人しく見学していたのだ。
「ハインリヒ女王に、………お使いを、頼まれたから」とセーレン。所々抉られた芝生の上に転がるエルシを見遣り、懐から羊皮紙を取り出した。
「言うの遅くね?」
「水差しちゃ、ダメかしら…………って」
「任務どんなのスか?俺も見たい」
「これ………今日、エルシが、受け持つ、任務の、リスト」
「…………………………………え、…………僕が?」
まさかのご指名に、のろのろとエルシが上半身を起こした。立ち上がる気力も残っていなくて、エルシは赤ん坊のように這い這いしてセーレンに近付いたの。渡された羊皮紙にさっと目を通したエルシは、記された任務の数に顔を顰めた。
「…………多いね。これ全部悪退治の任務?」
未だに御伽能力を自在に発動できないエルシは不安で胸がいっぱいになる。
「ん~………そうでもないッスよ。ほら、コレとかソレとかは、調査の依頼ッスね」とカタリーナが横から覗き込む。記されたリストの何項目かを長い指でさした。
「王都内の見回りや、都民からの調査依頼なんかも任務のうちなんス」
「調査?」とエルシが首を傾げた。
「そう、調査………」セーレンがゆっくり頷いた。
「悪の発生って、突発的なものって思われがちなんスけど、案外そうでもないんスよ」とカタリーナの言うには、「昨日の可愛いワンちゃんみたく、発生しても直ぐ退治される悪もいれば、上手いこと身を潜めて人々に危害を加える悪もいるんスわ」
「例えば………人攫いや、神隠し。あとは、猟奇殺人鬼の……出没も、そうね。常識では……考えられない、怪奇現象、その他………諸々が、…………実は悪が、元凶だったって、ことは、よくあるの……」とセーレンが指折り例を挙げた。
「そういった、一般市民じゃ手に負えない摩訶不思議案件を調査するのも、俺達継承者のお仕事なんスよ」
「今、雑魚モブって言った?」
うっかり聞き流しそうになったカタリーナの失礼な発言をエルシは指摘したものの、
「そんで、学園に舞い込んだ依頼は、ハインリヒ女王の采配によって相性のいい継承者に割り当てるんスよ~」カタリーナは笑って誤魔化した。
「そういえば、エルシの御伽能力、エリーシャと………同じなんでしょ?」と思い出したようにセーレン、「だったら、とても……頼もしいわね……」
言われてエルシは、セーレンの視線から逃げるように目を反らしたの。カタリーナが横目でエルシを窺った。
「でも、僕は…………」言い淀むエルシにセーレンは首を傾げてね。
「………何か、ワケあり?」
「ま・そんなとこッス」とカタリーナが代わりに答えた。
「だからエルシのこと任せるッスね」
「ええ、……任された、わ」羊皮紙を仕舞いながらセーレンが言った。
「え、何を任せるの?」エルシだけが話についていけずにいたもんだから、カタリーナとセーレンを交互に見たの。目が合ったカタリーナが長い指でエルシを指差した。
「エルシのお守りッスよ。継承者といえど俺らは学生、まだまだ半人前ッスもん」
「だから、私達は、基本的に………二人一組で、任務に………就くの」
「それにエルシは新参者ッスから、まだ任務のことでわかんない事も多いだろ?」
「だから………ペアになった、相手にどー………んと、面倒見て、もらえば………いいのよ」
セーレンは優しく諭すと、ゆっくり胸を叩いた。
「て・ことで!」とカタリーナ。ジャジャーン!と自分で効果音を言い付け加えると、セーレンを指差してね、「今日のエルシの相方は、百戦錬磨のセーレンちゃんでッス!」だとさ。
「いえー………い…………頑張っちゃう、ぞ………」
「う、うん。頑張ろうね」
セーレンは両手でVサインを作ると両の目尻の部分にかざしてポーズを決めた。セリフとテンションがまるでちぐはぐで、エルシは反応に困ってね。ぎこちなく頷くと、カタリーナが助け舟を出した。
「セーレンお嬢サマは、こう見えてめちゃ強いんスよ。マジで頼りになるから安心して任務行ってきな」
「今、私……褒められ、た……?……カタリーナ、優しいのね………素敵」とセーレンが目を輝かせた。
「そッスね、惚れないでね」カタリーナは手の平を前に出して、セーレンが近付いてこないよう距離を取った。
「あら………つれない、のね。そんなところも、素敵………」
ぞんざいに扱われたところで、ちっとも気にしないセーレンのハートは強靭だ。カタリーナをうっとり見つめて数秒後、セーレンはエルシに向き合うと微笑みかけた。
「エルシ…………よろしく、ね?」