ふうと黒曜①
黒曜が“お山”に住み着いて、一ヶ月が経とうとしていた。
朝餉も終わり、ふうは外に遊びに出ている。
黒曜とりんは、天高く晴れ渡った空の下、湯を飲みながら小春日和をゆるりと楽しんでいた。
「うまいな、りん殿の湯は」
「ふふ、それはどうも。ちょいと香りのある草を煎じてあるだけさ。都では茶なんてものもあるとは聞くけれど、やんごとない方々しか飲めないってぇお話だしねぇ」
「あいつらに味なぞ分かりゃしねぇだろうがな。なんでも、同じ葉っぱでも淹れ方によっては味が変わるんだそうだ」
「へぇ、それも面白いねぇ」
黒曜はあれ以来、庵の前の洞穴に毛皮を敷き、そこに武具などを置いて寝泊まりしている。
庵に赴くこともあるが、それも今の様に湯を飲んだり、煮炊きをする程度のことだ。
助けたあやかしの子らは皆、親元や住処に戻っていった。今ではちょくちょく、ふうと遊んだり、黒曜で遊んだりしている。黒曜もまた、そんな子ども達に辟易しながらも、適当に遊んでやったり、遊ばれたりしていた。
平和だ、と黒曜はしみじみ思う。
「……噛み締めてたのかい?」
りんは湯入れを手に、誂うような口調で黒曜に話しかけた。黒曜は少し渋い顔をしながら冷めた湯を一気にあおり、湯呑を無言でりんに差し出す。
りんは少し眼を細くしつつ、新しい湯を湯呑に注いだ。
「あんた今、平和を噛み締めていたろう?」
「……まあ、な。良いことだ。良いことだとは思うが、どうにもケツの座りが悪いというかな」
「まぁ、わからなくもないけれど」
「慣れぬことはするもんじゃあねえな」
「お山の子どもらと遊んでいる黒曜殿も、それはそれで良くお似合いだけどねぇ」
「誂うんじゃあねえよ」
そんな言葉を交わしつつゆったりと湯を呑む。藍色の作務衣のりん、浅い灰色の作務衣の黒曜は、まるで長年の旧き友人のように、互いに気を許している様だった。
「そういえば、ふうがちょっと気になることを言っていてね」
「……何かあったか」
「いやぁ、特に何ということもないんだけどね。……このお山に、ヒトが入っているのを見たらしいのさ」
「……ヒトが? あの麓の村はもう誰もいねえぜ?」
「お山も広いからね。周りにあるのはあの村だけじゃない。……他にも、お山の裏には鬼の里への入り口もあるしね。……それは黒曜殿も見たんだろう?」
「ああ」
「まあ、悪さするやつらばかりでもないからねぇ。それはそれでいいんだけども」
「ヒトは厄介だな」
“お山”と呼ばれる山は各地に存在する。“ヌシの住む山”という意味を込めて、霊峰の総称として使われる言葉だ。
勿論それぞれに名前が付いており、その名で呼ばれるのが常ではあるが、りんがヌシをしているこの山だけは、“お山”という呼び名で通っている。
「熊やら、猟師の類いならいいんだけどねぇ。ただ、あの子が遊んでいる辺りまで登っているとなると……ということで、黒曜殿」
「ん、引き受けた」
「あれ、まだ何も言っていないのに」
「入り込んでるヒトを探るんだろう」
黒曜は言うなり、庵から出て身支度を始める。とはいえ、大したことではない。作務衣の腰に革の帯を締め、旅草履を履き、黒光りする小刀を一振り、帯に挟み込むだけのことである。
「顔に書いてあるぜ。ふうや子ども達が心配でしょうがないってな」
「……人が悪いねぇ」
りんは苦笑すると懐から小刀を取り出し、鞘ごと黒曜に放り投げた。
受け取った黒曜が鞘から抜くと、刀身はやや赤みを帯びた金色をしている。
「これは……ヒヒイロカネか」
「普段遣いのものだけどね。昔、ケモノビトの鍛冶が打ったものさ。以来、錆もなければ刃こぼれもない。ここにいる間貸しておくよ。いつもあの大斧を持ち歩いてるわけでもないんだろう?」
黒曜は自分の小刀を抜き、受け取ったヒヒイロカネの小刀を帯の背中に差し直した。更に、りんに向かって自分の小刀を放り投げると、
「そいつを預かっておいてくれ。ただの黒鉄の小刀だが、それなりに思い入れのあるもんだ」
「へえ、そういうのには拘らない性質だと思っていたけどねぇ」
「自分で打ったんだよ。まあそれだけのことだ」
「黒曜殿が? へぇ……」
りんは意外なものを見るように黒曜を見た。その視線を知ってか知らずか、黒曜は後ろを向いたままである。
「錆もするし刃こぼれもするが、それなりに使い込んでる。手入れもしてあるから、こいつの代わりに使ってくれて構わねえぜ」
「じゃあ預かったよ。……済まないね、ヘタに私が出ると大ごとになっちまうからねぇ」
「ヌシ様ってのも大変だな。じゃあ行ってくる」
「あいよ、行ってらっしゃい」
ふうに何かあれば躊躇なく動く癖にな、と黒曜は少し可笑しくなりながら、洞穴を出たのだった。
――――
「……ねえな」
洞穴を出て、いくらか歩いた先にある、少し開けた原っぱで遊んでいるふうを見つけた黒曜は、まず周辺の足跡を探してみることにした。
この辺りの土は粘度が高く、登るためにしっかり踏みしめた足跡はしばらく残る。
特に手がかりのない今、ただ闇雲に探すよりはと、それを頼りに探索を始めたのだが、人のものと分かる足跡は皆無だった。
「おっと、ここじゃ見つかっちまうな」
黒曜は、その巨躯を器用に隠しながら、ふうから付かず離れずの間合いを保っている。
そのふうはと言えば、花を摘んでは持ってきた籠に大事そうに入れている。何本か毎に種類を変えているらしい。籠の中は、様々な花に彩られている。
なるほど、小さくても女なのだな、などと黒曜が感心していると、ふうは籠の中から一本ずつ別の種類の花を取り出し、何やら細工をし始めた。
(ヒトの子と何も変わりはねえ。……こんな子が次のヌシとはな)
しばらくそうしている内、ふうはその作業にも飽きたのか、摘んだ花を持って来た道を戻り始めた。
やれやれ、ようやくお役御免かと思い、黒曜もそっと動こうと腰を上げたその時である。
「!」
黒曜は、ふうが歩いていった道の反対側に、ヒトの気配を感じていた。