ふう③
「……何処からだ」
「……黒曜殿、ゆっくり左に数歩、そこから一気に草むらへ。……ふうを頼むよ」
「いけるか」
「いけるさ」
黒曜は、音を立てぬよう、じりじりと動いた。数歩の距離を動いた所で、
「しっ!!」
黒曜が全力で駆けると同時に、それが地面の中から姿を現した。
「下かっ!!」
「ぢぃぃぃっ!!」
それは、全身に泥を纏い、頭頂に大きな一本の角を持つ鬼であった。痩せぎすで、あばら骨が浮き出ている。
餓鬼である。
餓鬼は地面から飛び出ると黒曜を目で追う。が、その時には黒曜はふうをつれ、草むらに届こうとしていた。
「逃げたか」
「逃げちゃいないさ」
餓鬼が声のした方を振り返る。そこにはりんが、既に構えをとっていた。
「見ない顔だねぇ」
「……お山のヌシか」
「……あんたは? この沼のヌシはどうしたんだい。河童の一族がいただろう」
「ここが沼だったのを知っているか。……ヌシはオレが喰った」
りんは、沼が干上がったのはヌシがいなくなったからだ、と考えていた。一夜にして、というのが不可解ではあったが、ここにいたヌシの影響が強かったとすれば、分からぬ話でもない、とりんは思った。
そもそもヌシの棲む場所は、ヌシの力で護られている。その力がなくなれば、その場所は“ヌシの土地”としての力を失う。この元沼地も、かつてはそうした場所だったのだろう。
つまり、この場所は「本来は沼地ではなかった」ということになる。ヌシが毒沼を求め、その力でこの場所を沼地にしていただけなのだ。
「相当強いヌシだったとお見受けするけどねぇ」
「知らねえな。オレが来た時には死にかけのヨボヨボだったぜ」
「……で、それからずっとここにいるのかい。毒沼だったはずだけれど」
「毒じゃねえ、酸だ。あの河童、酸を周りにばら撒いて、ここを護ってやがったんだよ」
「酸……なるほど、あのにおいもそのせい……」
「沼の中はただの水だったぜ。野郎ども、余程ここに誰も寄せ付けたくなかったらしい」
「……ここには何があるんだい」
「知らねえよ。聞くまでもなく喰ったからな」
そこまで話すと餓鬼は、再び黒曜達の方を向いた。
「それにしても、こんなとこに九尾の子が来るとはな。しかもまだ尾割れもしてねぇ」
「……どういうことだい」
「聞いたことねえのか? ……あやかしが、より強い身体になる法だよ」
餓鬼はぶるぶると身を震わせながら、眼をかっと見開いた。
「肝よ! より強いあやかしの肝を生きたまま喰らうのよ!! そうすることで、今より強い力を手に入れるのよ!!」
「そのためにここで待ってたってぇのかい」
「いいや、九尾の子を待ってたんじゃねえよ」
「……じゃあなんだい」
「決まってんだろうがよ」
餓鬼は目を血走らせ、口を耳の近くまで大きく裂き、挙句に感極まって身悶え始めた。
「この沼の! ヌシを喰った! このオレの力!! これを試すために!! ああっ!! ここで誰かが来るのを待ち伏せしてたんだよぉぉ!!」
はあはあと息を荒げる様子に、りんは思わず後ずさりしていた。
「待ったぜぇ……最初の頃は武士やらあやかしやら、ちょいちょい来たけどよぉ……最近は帰らずの沼とか言われて、なぁかなか寄り付きやがらねえからよぉ……」
帰らずの沼。以前、知り合いのあやかしがそんな話をしていたと、りんは思い出していた。
「そうしたらよぉ、お山のヌシと、噂のヤトハレと、しかも九尾の子が来るじゃねえか。千載一遇とはこのことよぉ。ここで一発、てめぇらの肝を喰らえば、オレは並ぶもののない程の力を手に入れられるぅ!!」
「喰えればねぇ……」
「酸の沼のヌシを喰ったオレに勝てると思ってんのかよねぇちゃん」
「……おや? より強い者の肝が欲しいんじゃなかったかい? あんたが簡単に勝てる相手で強くなるのかい。もう少し賢い頭と付け替えた方が良くないかい?」
「……んだと」
餓鬼に怒気が宿り、頭の角に火花が走り始めた。りんはその時、角だけは泥が落ちていることに気がついた。
(あれが虎の子、かねぇ)
「まずはてめぇからだねぇちゃん。……肝、喰わせろや」
「真っ平ごめんこうむるよ」
「……気の強ぇねぇちゃんだな」
「今回はこっちがあんたの縄張りに入り込んだんだ。詫びと言っちゃあなんだけど、このまま消えるなら、今だけはなかったことにしてもいいんだけれどね?」
「……死んだぞてめぇ」
角の火花はもはや、放電しているようにバチバチと鋭い光を放っている。
餓鬼は身体を低くし、頭を前に突き出すように構えた。
一際大きな火花が散り、鬼が突進してきた。
「その肝、もらう!!」
「ふん」
りんは軸足を基点に身体を回し、突進を避けた。餓鬼はそのまま走り抜け、もんどり打って倒れた。
「てめぇっ」
「なっちゃないね。ヌシの肝ってやらの力はどうしたんだい」
「……後悔、するなよ」
餓鬼は言いながら立ち上がり、そのままりんと距離を取った。
充分に距離を空けたところで、餓鬼は大きく吼えた。
「――……がぁぁあああっ!!」
その咆哮に応えるように、土がぼこり、ぼこりと泡を立て始める。その泡は段々と大きくなり、やがてそこから、やはり大きな一本角を持つ餓鬼が、十数体現れた。そしてりんを中心に一定の間隔を保ちながら、ゆっくりと包囲していく。
「……土人形か」
「ばぁか、そんなちゃちなもんじゃねえよ。……こいつらはそれぞれがオレと同じ力を持ってんだ。 ――さぁ、ヌシ殿よ」
餓鬼は勝利を確信したかのよに、目を見開いて顔を大きく歪ませた。
「安心して、肝を喰われてくれや。……すぐにあいつらも送ってやるからよ」
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