りん⑦
今回で「りん編」は完結となります。
また、仕事の事情などで、少しの間、更新をお休みします。今月はちょっと厳しいかも。
式神に乗った賀茂周明は、下山の道をひたすらに辿っていた。
狼の式神は、周明が現在用意している、一番速い式神である。
「麓が見えてきたか。糞、無駄に曲がりくねりおって……」
「ほんとになぁ」
「ひっ!」
急に周明の後ろから声がした。
周明は文字通り飛び上がり、首だけを回し、後ろを見た。
そこには、巨大な狼にまたがった大男が、ニヤニヤしながら追走していた。
「おかげで追いついたぜ、賀茂周明」
「きっ貴様っ!!」
「まぁそう急ぐなよ。山を下りるんだろ? 麓まで付き合うぜ」
「くっ……!」
補足されてしまっては焦る意味もない。
諦めた周明は、山の麓に近い、少し広くなっている場所に止まった。
「……貴様」
「ご挨拶だな。あんたの為に急ぎ駆けつけたってのに」
言いながらりんから降りた黒曜は、降り際に小さく「かたじけねえ」と呟きながら、りんの首元をぽん、ぽんと撫でるようにたたいた。
(……まったく、照れ臭いことをおしでないよ)
りんは小さく唸ると、周明と共にいるふうを見た。
腸はこれ以上ないほどに煮えくり返っている。
自分が護るお山に入り込み、大切な一人娘であるふうを攫い、この不遜な陰陽師の貧相な身体を、今すぐにでも引きちぎってやりたい。
だが今の黒曜の仕草に、少し安堵している自分がいることも判っていた。
「で、降りたってぇことは覚悟決めたってことでいいんだな?」
「……っ」
「さすがに勝てると思っちゃいねえだろ? そっちのでけぇ狼も式神だって割れてるしな?」
「……貴様のその狼は、ヌシか」
「私なら何だって言うんだい?」
状況は見るまでもなく明らか。
ここで周明が式をけしかけたとて、目の前のヌシに勝てる可能性など、微塵もない。
周明は、ふうに固執するあまり、失念していたのだ。
かつて最強の“ヌシ”といわれ、名声を求める名だたる陰陽師、武士を返り討ちにしてきた九尾。りんが、その九尾に匹敵する力を持つ、現在の“お山”のヌシであることを。
「賀茂、選ばせてやるよ」
「……何をだ」
「決まってんだろ」
黒曜の言葉には抑揚が全く無かった。
この男のことなど心底どうでもいい、そういう声である。実際黒曜にとって、この陰陽師のことなどはどうでもよかった。
――ただ、またりんとふうの笑顔を。
この半年程を過ごした、お山の安寧を。
黒曜が望むものはそれだけであった。
当然ながら、この周明を見逃すつもりは全くない。
「素直に死ぬか、抗って死ぬかだ」
荷を外し、真・波切を掴む。
その様子に、周明は冷や汗を垂らした。
戦争での人斬り、武士としての仕合い。
そういった状況を除いて、本来ヒトは、ヒトを殺すことを良しとしない。
まして、文官を殺すなど、通常では考えられることではない。
先の状況において、ヒトに芽生えるのは“狂気”である。
狂気を持ってのみ、ヒトはヒトを斬ることを自賛する。困窮に負けての人食いも、根本は同じことだ。
――だが、今目の前にいるこの男は。
周明は感じ取っていた。
冷静な瞳で、理性を持って、それでも躊躇なく自分を斬ろうとしている。そこに宿るのは狂気ではない。
否、ある意味狂気であるかもしれない。
自分にとって価値を感じる“人外”の為に、無価値ではあっても、それでもヒトである存在を斬り捨てることに心を映さない。
(こやつは本当にヒトなのか……?)
「儂を斬れると、そういうのか」
「言うさ。もはやてめぇはヒトじゃねえ。……ただの、自尊心と虚栄心に取り憑かれたバケモノだ」
「なっ……!」
周明は絶句した。
黒曜の眼には、自分は既にヒトに視えていなかったのだ。だからこそ、躊躇なく刀を持ち、何の思いもなく、斬り捨てようとしている。
ここに及んで初めて、賀茂周明は黒曜を“怖い”と思った。
「……よかろう。この娘は連れていけ。が、儂もここでやられるわけにはゆかぬでの」
「むっ」
黒曜とりんは最初、妙な違和感しか感じなかった。
眼の前にいる周明が、いないように感じる。
周明の身体に存在感がなくなっていく。色も影も、その全てが薄くなり、向こう側が透けて見えるようになったところで、黒曜がはたと気づいた。
「……隠遁の術か」
「いんとん?」
「逃げたんだよ。……腐っても賀茂か」
ち、と黒曜は舌打ちをした。
やがて周明は輪郭だけを残し、それも風に乗って散った。
黒曜とりんが見ている前で、賀茂周明は姿を消したのだった。
「すまん。……りん殿」
「……仕方ない。いずれまた相見えることもあろうさ」
「ふうは無事か」
「大丈夫みたいだね。気を失ってはいるけれど。……黒曜殿、ふうを私の背に乗せておくれ」
「心得た」
黒曜がふうを抱き上げ、割れ物を扱うような手付きでそっとりんの背に乗せた。
「もう、戻れるのかい?」
「ああ、戻る。少し歩きたいんでな、先に帰っていてくれ」
「わかったよ。……あんたが帰ってきてふうも喜ぶさ」
「ふう、も?」
「ああ、ふうも、さ」
嫌な嵐が冬と共に過ぎ去り、再びお山に生命の息吹が戻り始めていた。
いつも応援ありがとうございます。
次章はまったりなお話になりそうです。
申し訳ありませんが、しばらくの間、お待ちくださいませ。