りん⑥
赤鬼から意識を戻し、本体に戻った賀茂周明は、未だ眠りについているふうを忌々しげに睨んでいた。
(九尾の子を攫うたはいいがここで殺すわけにはゆかぬ。こやつがあの九尾の子だと証を立てた上で、宗家共の目の前で屠ってやらねば)
ぎりぎりと、奥歯が欠けそうな程に苛立つ周明であったが、まだ懸念はあった。
(ヌシの女も走り回っておる様子。やつめ、狼のケモノビトというだけあって、動きも早ければ鼻も効きそうだ。……かくなる上は一刻も早くこやつを連れてこの山を出ねばなるまい)
お山のヌシ、りんが陰陽道に明るくないのは予想通りだった。
式神についての知識がないのを突いた奇襲とも言える。
だが、黒曜、坂田金時が用心棒をしていたのは、彼にとって予想外と言えた。
「あの馬鹿力のおかげで虎の子の式神を失うはめになったか。残りは二枚だが……さて」
呟くと周明は九字を切り、予め手元に戻していた紙片を出し、呪言を唱えて式神を呼び出した。一体は驢馬ほどもある巨大な狼、もう一体は武士の姿をしている。ふうを狼の背に乗せ自分も跨ると、残った武士の式神に命令した。
「儂はこの子どもを連れ山を下りる。お前はここに残り足止めをせよ。勝たずとも良い、出来るだけ時間を使わせるのだ、よいな」
周明がそう言うなり、式神は無言で洞穴の入り口に立った。その雑な動きに周明は少し眉をひそめる。
「仕方あるまい、仕込んでいる時間はない。……いくぞっ」
巨大な狼と化した式神は、洞穴のしめった土を抉るように蹴りつけた。
――――
りんは、疾走っていた。
もちろん、ただ闇雲に走ってるわけではない。
子どもを担いだヒトの通れる獣道を中心に、覆うように立つ木々の枝のたわみまでを目に焼き付けながら走っているのである。
りんはこの山を熟知している。
どこの木がどう生えているか、どの地に何が生えているか、どれほどの虫が集まっているか、どんなにおいがするか、その全てを頭に叩き込んでいる。
――どんな変化があっても見逃さぬ。
その思いを胸に、必死に駆けていた。
それを見たあやかしなどが声を掛けようとするが、その時にはもう姿がない。速さ自慢の鎌鼬でさえ、その動きを追い切れぬ程の速度であった。
そんな時である。
りんは、お山の三合目付近、麓への山道から少し外れたあたりに、大きな気の動きを感じていた。
(なんだ? この感じ……誰かがやりあっている)
そう思った時には既に身体が動いていた。急に方向を変え、一気に斜面を駆け下りる。
が、辿り着く前にその気が消えた。りんはその場で立ち止まり、辺りを注意深く観察する。
(片方は恐らくさっきの式神とかいうやつだろうね。でも、もう片方。……あの気は)
がさり、と近くの草が鳴る。
一瞬緊張が走るが、茂みから出てきたのは、先の紙片を追ってきた黒曜であった。
「黒曜殿!」
「! りん殿か!」
「久しいね。……とはいえ、あいすまぬ、今は祝う時ではなくてねぇ」
「分かってる。……あの紙っきれが見えるか?」
「ん……見えるよ、あれがどうした……なんで風向きと逆に飛んでるんだい?」
「あれを追えば、恐らくふうが見つかる」
「えっ!」
「説明は行きすがらだ。……ゆこう」
「わかったよ」
黒曜とりんは再会を喜ぶ暇もなく、紙を追って駆け出した。
「黒曜殿、斧はどうしたんだい?」
「こいつに変わった。昔使っていたものを取りに行ってな。ついでに打ち直してきた」
「へぇ……」
「ふうが攫われたのは聞いた。理由も大体な」
「相手はおん、みょうじ? だったっけ」
「ああ。そうか、りん殿は知らずとも無理もない。平たくいやあ呪い師だ。紙に仮の命を吹き込んで使ったり、呪いをかけたりな。占いもやる。朝廷にはなくてはならねえ存在だが、ふうを攫ったのはそれのはぐれだ」
「はぐれ……?」
「賀茂家って陰陽師の名門がある。そこの宗主候補だったやつが放逐されたんだよ。理由は知らねえが、まぁ推して知るべしだ」
「なるほど……」
そこでりんは気づいた。
「見せしめとしてふうを殺してみせるなら、その宗家って所にいくんじゃないかねぇ」
「! なるほど、えげつねぇ……」
「となれば山道の方だね。他に麓まで下りられる道はない」
「だな。よし、急ぐぞ」
「黒曜殿、ちょいとお待ちよ」
「どうした」
「お山の力を借りるのさ。……向こうを向いていておくれ」
言うなりりんは、両腕を自分を抱きしめる様に身体に巻いた。呼吸が荒くなり、全身が脈を打つ。
黒曜は素直にりんに従い、そっぽを向いた。
「あんまり、見られたくないんだよ。……变化の様はさ」
やがて。
「ォー……ォォォォオォオオオォォオォォーー…………」
あの時の遠吠えか。
黒曜は、りんと初めて遭った時の、麓の村での变化を思い出した。
「ォオォオオオォォオォォーー…………」
(随分なげぇが……)
「……待たせたね」
「随分となげぇ……!!」
その声に振り向いた黒曜は、神を見たような気分になった。
そこにいたのは、子馬程もある、巨大な銀狼であった。
白銀の毛、より深い銀色の鬣。
しなやかな筋肉の流れ、そして鋭くも優しい目をしている。
――なんという美しさか。
黒曜は言葉を失った。
「なんて顔してんだい」
「い、いや、お前さん、……りん殿だよな?」
「そうさ。本性としちゃあこっちの方が近いからね、力を存分に使えるのさね。……時間がない、黒曜殿、乗りな」
「……俺はでけえぞ?」
「なぁに、それくらい大きくないと振り落としちまう。……さ、早く」
黒曜がりんに跨がる。首の鬣を掴むように促したりんは、
「……いくよ」
一陣の疾風となり、お山を駆けた。
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