りん①
黒曜が真・波切を完成させる少し前の朝のことである。
りんはいつものように、ふうを連れて庵の外、以前ふうが花摘みに来ていた場所で、ふうと一緒に雪でうさぎを作ったりして遊んでいた。
雪はふうの膝上あたりまで積もっている。ヒトであればそうそう踏み入れることは出来ないが、ケモノビトであるりんとふうには然程問題にはならない。ただ、長くいると指先のしもやけが心配になる程度である。
「あ、お母ちゃんみて! おはながさいてる!」
「ん? あぁ、雪割草だ、こんなところに珍しいねぇ」
「ゆきわりそう?」
りんはふうの隣にしゃがみ、手折らぬ様にそっと花に触れた。ふうもそれに習い、ちょん、とつついては、揺れる花を見てにこにこと微笑んでいる。
「うん、本当ならね、もう少し高い所に咲く花なのさ。ほら、もう少しお山を登ると、木が生えないようになってくるだろ?」
「うん。いまはゆきがいっぱいのところだよね?」
「そうそう。普通はあの辺から上に咲くんだけどねえ」
少し思案げな顔をしたりんではあったが、
「そそっかしい種が、うっかりこんなとこまで下りてきたのかねぇ」
と、特にそれ以上気にする風でもなかった。
陽が高くなってくると、光の当たっている雪が水気を帯びてくる。あまり長くいると風邪をひくと、りんはふうに声をかけた。
「さ、そろそろ戻ろうか。お腹空いたろう? ふうがおじちゃんと釣ってきたお魚、炙って食べよう」
「うん! ……ねえ、お母ちゃん」
「なんだい?」
「あのね、あのね」
いつになく思いつめたような表情を見せるふうに、りんは少し微笑ましくなりつつ応えた。
ふうがこの顔をする時は、決まって黒曜のことを話してくる。やれいつ帰ってくるの、また一緒に釣りに行きたいの、肩に乗ってお散歩したいの。
元はだいぶ人見知りだったふうが、随分と慣れたものだ、とりんは思う。
だが、この時は少しばかり様子が違っていた。
「……おじちゃん、かえってくるかなぁ」
「……ふう?」
「あのね、ゆめをみたの。おじちゃんがお山にかえってくるんだけど、まよっちゃって、ここにこれないの。ずっとずっとそうやってるうちに、ふうはおとなになっちゃうの」
「ふう……」
りんはふうを抱き上げると、左腕でふうを支え、右手で優しく背中をなでた。
「お母ちゃん……」
「大丈夫だよ、ふう。あのおじちゃん、お母ちゃんと同じくらい強いヒトなんだ。道だってちゃあんと知ってる。もう少ししたら帰ってくるさ」
「……うん! あのね、あのね、おじちゃんがかえってきたらね!」
「はいはい、かえってきたらなぁに?」
「おじちゃんのこと、お父ちゃんってよびたい!!」
「……へ?」
思わぬ言葉に、りんは普段は細い切れ長の目を大きく見開いた。
――お父ちゃんってよびたい。
無邪気な幼子の言うことである。大概のことは「はいはい」で済ませられるりんだが、この言葉には素直に反応してしまった。
「なんなななに言ってんだいこの子は。おぉおおお父ちゃんてあんた」
「あれ? お母ちゃんおかおまっかー」
「んんっ! い、いいから戻るよっ!」
「はーい!」
りん達が去った後、りんの足跡が点々と残っていた。
しばらくして、足跡が風で半分消えた頃。
「……」
一頭の野犬が、足跡の前に立ち、匂いを嗅いでいた。
野犬はひとしきり匂いを嗅ぎ、雪割草を見つけるとそこに小便をひっかけた。湯気がのぼり、真っ白な花に色が付く。その色はやがて湯気となり、風に乗って何処へかと消えていった。
野犬は急にびくん、と動かなくなった。厚みがなくなり、小さくなる。あっという間に、一枚の紙片になった犬もまた、風に飛ばされていった。
同じ刻。
お山の裾野に無数にある小さな洞穴に男がいた。見た目で言えば三十代くらいだろうか。浅い緑色の狩衣に身を包んでいる。特に大きな男ではないが、不思議な存在感を放っている。
男は洞穴にあぐらをかき、瞑想するように目を瞑っていた。
洞穴にやや色づいた風が入ってきた。先程の色づいた風である。風はそのまま、男の鼻に流れ込んだ。
「……見つけたか」
そう呟いた男はゆっくりを目を開く。しばらくそのまま座していたがそのうち、風に舞った紙片が洞穴に入り込むと、ゆっくりと立ち上がりながらそれを拾い、袂に入れた。
「未だ尾は分かれずか。……その方が都合がよいか」
袂から出した手には、先程舞い込んできたものとは別の紙片が三枚、指の間に挟まれている。紙は人の形を模しており、その紙の真ん中には細く縦書きで「勅令」とあり、それぞれ両脇に「護身」「反撃」と書かれ、その上には「探索」と書かれていた。
「……急急如律令」
男が紙を落とし、唱える。すると、数瞬のうちに三枚の神はヒトの形と大きさになり、男の足元に跪いた。それぞれ狩衣を着て、剣、弓、槍を持っていた。
式神。陰陽師の使役する人形である。
「……これからこの山に、大きな男がやってくる。恐らく一人。二人かもしれぬ。そやつらを見つけ、滅せよ」
「……」
三枚が静かに出ていった後、男は再びあぐらをかき、更に袂から紙の束を取り出した。
「……残り十二枚。ヒトが半分、残りは鬼」
俯き、紙を数えた。
ニタリ、と口角が上がり、口の端からは細く涎が垂れている。
眼は明後日の方を向いており、喉からは時折、こひゅ、こひゅ、と小さな咳が出ていた。
男の名は賀茂周明。
元賀茂家継承候補にして、この近隣に封印の呪符をばらまいた張本人である。
「……やはりここにいたな。あの雌狼が邪魔ではあるが、奴さえ排除すれば問題なかろう。これで宗家の馬鹿共に思い知らせてくれるわ……」
かか、ききき、と漏れ出るように嘲笑う周明だが、やがて静かになり、また瞑想のように眼を閉じたのであった。
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