りんと河童⑤
「サラシ巻いといて良かったよ」
そう言ってりんは作務衣を脱ぎ捨てた。河童達からは感嘆の声があがる。
声にこそ出さぬものの、黒曜もまた、りんの肢体に目を奪われていた。
ほんのりといい香りのする真っ直ぐに延びた銀髪に、しみ一つない白い肌が映える。細く引き締まった腕や背中には、うっすらと筋肉の筋が細くしなやかに走っている。胸はサラシで抑え込んではいるが、それでもその豊満さを隠しきれるものではなかった。
「じゃ、言ってくるよ……なんて顔してんだい」
「い、や。……お前さん、綺麗だなぁ」
「……ばかだねぇ。何を恥ずかしいことを言ってんのさ」
「……いけるんだな?」
「誰に言ってんだい」
りんは土俵に向きつつ、横顔を黒曜に向けて言い放った。
「私はあんたにだって負けちゃいないんだよ?」
「……くく、そうだったな」
「さて、長殿」
りんは土俵に立つ長に向かって尋ねた。
「私はこれでも女なんだけど、下も脱がなきゃいけないのかねぇ? ……この下は、褌も何も履いてないんだけどねぇ」
「!」
「そこでさ?」
そこでりんは言葉を切り、目を細めながら妖艶に笑った。
「このままでやって、私に勝ったら何もかも好きにする。……てのはどうだい?」
「おお! じゃあ俺が出るぞ!!」
「馬鹿野郎、儂だ!」
「爺いは引っ込んでろ! 腰抜けるくらいじゃすまねえぞ!!」
「ぬ、ヌシ様の尻子玉……うひ、うひひ……」
「……だいぶ気持ち悪いのがいるねぇ。ま、いいか。……長殿、構わないね?」
「は、はい! それで一つお願いします!!」
「はいよ」
りんは妖艶な笑みを浮かべたまま、土俵に上がった。これが神事であれば女人禁制といったところだが、今回のような決闘であれば話は別である。
「さて、結局相手は誰なんだい? 私は誰でも構わないよ」
――えげつねえな。
黒曜はその様子を見て呆れ果てていた。
普通に考えて、お山のヌシたるりんに一対一で勝てるあやかしなど、このお山にはいない。自分と互角に近い闘いを見せた五郎丸ですら、獣化した彼女にはかなわないだろう。なんとなれば、黒曜自身も勝てるとは言い切れなかった。
だが、黒曜は次のりんの言葉に、文字通り目を見開くことになる。
「ああ、言い忘れてたけど、この勝負では私は獣化しないからね。安心しておくれ」
「なに!?」
「さて、どうするんだい?」
「し、しばしお待ちくだされ……」
言葉を失った長が我に返ると、土俵を降り、河童たちの元へ向かう。りんは腕組みをしてその様子を見ながら、薄く笑いを浮かべていた。
(おっかねぇ女だな……)
黒曜は内心、この女とは闘いたくない、とまで考えていた。
りんという女は、自分の魅力を理解している。その上でそれを交渉材料に使い、更にその材料そのもので相手を魅了し、自分の思うがままに話の方向を決めていく。
彼女にとっては、既に決闘は始まっているのであった。
(さて、予想通りならこれであいつが出てくるはずだけど……あ、やっぱり)
河童たちの中から出てきたのは、例のイチであった。
イチはあの阿鼻叫喚の中にあって唯一人、軽い擦り傷程度で済んでいる。
(……一人漏らしたからね)
りんは、イチに制裁を加えるつもりなのだった。
後にそれをりん本人から聞いた黒曜は、
「えげつねぇ……」
と、暫くの間絶句したという。
「……ヌシ様、俺がお相手させていただきます」
「イチ、だったかねぇ。勿論構わないさ。じゃ、お手柔らかに……って顔じゃないねぇ」
「……」
イチの眼は充血して真っ赤である。それに加え、既に頭の皿から湯気が出ていた。
「長殿、始めようかねぇ」
「はっきよい!」
りんは脚を開き腰を落とす。先程の黒曜の構えよりも脚は開いていないが、その分前傾の姿勢である。
対するイチは、大きく脚を広げ、どっしりと腰を下ろしていた。
(伊達に慣れちゃいないってことか。重心が下がって動かしづらそうだね)
互いに片方の拳を土俵につく。
もう片方をゆっくり下げ、ついたその刹那。
「ソォイヤソイヤァアアアア!!!!」
「しっ」
ぱぁん、と、土俵の真ん中で小気味良い破裂音が弾けた。
大きく手を広げ飛びかかったイチの顔面に、りんの左の掌底が見事に入っていた。
「ア……ぶ」
「まだまだ寝かせないよ」
崩折れるイチの顔面をそのまま掴んだりんは、そのまま顔面を締め上げる。イチの身体は浮いてこそいないものの、完全につま先立ちになり、どこにも力が入らない。
やけになって暴れるイチの腕を右手で掴み、掌を外側から上に向ける。
「あああああっ!!!!」
めき、という音と共に、イチが一際高い声を上げ、両腕がだらんと力無くぶら下がった。
「そ、そこまで! そこまで!」
長が慌てて止めに入る。
「ぬ、ヌシ様の勝ちぃいいいっ!!」
気絶したイチを土俵に捨て、りんは後ろも見ずに帰ってきた。
「おっかねえな、姐さん」
「まぁ気を失っちゃしょうがないねぇ。全く、あれしきのことで……」
だいぶエグいことしてるけどな、と黒曜は口から出かかるのを必死で抑えた。
「てことで長さんよ。こっちの勝ちってことでいいな?」
「は、はいぃ……」
「これで禍根なしだ。今後はお互い、上手いことやっていこうぜ」
「ちょ、ちょっと待て!」
河童族の老人が声を上げる。
「確かに勝負は決まった、儂らの負けじゃ。じゃが、相撲はまだ終わっとらん!」
「……先に二勝したら勝ちつったろうが」
「だから勝負は儂らの負けじゃ! そんなことは分かっとる! じゃが、勝ち抜けじゃない限り、大将戦までやるのが決まりじゃろうがっ!!」
「そんな決まりは知らないねぇ。そうならそうと最初から言えばいいものを。……悪あがきして一矢報いようってんじゃあないだろうね?」
りんに睨まれ、老人はぐぬ、と言いつつ、それ以上何も言えなかった。
ところがである。
「ふう、おすもうやる!」
「へ?」
「ふうもおすもうやりたいの!」
「ふう!?」
「あのおじいちゃん、すごいにらんでるもん。やらないといじわるされるもん。だから、ふうおすもうやる!」
「……おい、爺い」
黒曜は先程の老人を睨みつける。
「てめぇ、それがてめぇらの恥になるってことが分かんねえのか?」
「そ、それがどうしたっ! そっちのガキだってやるといっておろうがっ!!」
「……の野郎」
「お待ちよ、黒曜殿」
りんが間に入って言った。
「ならご老人、あんたとうちのふうで闘えばいい」
「なにぃ!?」
「出来ないってのかい? ふうはまだ生まれて数年のケモノビトだよ? ……まさか言うだけ言って、ビビったなんてことは……」
「や、やるわい! 儂がやってやるわい!!」
そこで間髪入れず、りんは長に向き直る。
「てことだ、勝負は勝負として、あのご老人とうちのふう、相撲をさせても構わないね?」
「え、いやでも」
「こっちは構わないよ。いずれそういうことも覚えていかなきゃいけないんだ。それが今だってだけの話さ」
「……わかり、ました」
長の返事に小さく頷いたりんは、ふうに向かって言った。
「よし、やっておいで。着物はそのままでいいからね。……本気でやらないと、やられちゃうよ?」
「うん! ふうがんばるよ!」
「てことだよご老人。早く土俵にお上がりよ」
既にふうは土俵に上がりはしゃいでいる。
それを横目に、渋々ながら老人が土俵に足をかけた、その時である。
「! ひぃぃっ!!」
そのまま腰を抜かし、土俵から転げ落ちた老人は、ぶるぶる震えながら丸くなり、呪文のように謝罪しはじめた。
老人は、土俵にいるものが何者なのかに気付いてしまったのだった。
「すみませんすみませんごめんなさいたすけておねがいします……」
「ど、どうした!?」
「ああ長殿、あんたは上がらない方がいい」
「どういうことですか!?」
「ご老人はね、あの子の正体を知っちゃったんだよ。……だから、ね」
りんが黒曜に目配せすると、黒曜は小さくうなずき、ふうに手招きをした。
「ふう、じいちゃん腰が痛いってよ。もう終わったから帰ろうぜ」
「えー、そうなの? じゃあおじちゃん、のっけてってー」
「はいはい……」
黒曜がふうを肩に乗せる。それを見たりんも帰りかけたが、最後に振り返り、長に向かって言った。
「長殿、このことは。……わかっておろう?」
「……も、勿論です」
「ん。ならこれで禍根はなしだ……と、あんたさっきの」
長の後ろに近づいてきたのは、五郎丸だった。
りんは黒曜を呼び止め、振り向かせる。
すると、
「ご、ぐょ、う……」
「おう」
「ま、だ……すもん、とろ……」
「五郎丸が……」
「しゃべった……?」
黒曜は少し驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。
「おう、いつでも来い。またな」
――――
帰り道。
疲れて寝てしまったふうを肩に乗せたまま、黒曜はりんに尋ねた。
「なあ、あの時あの爺い、一体何を見たんだ?」
「ん? ああ、ふうの正体だよ。……ああいう場所だとね、たまに見えるやつがいるもんさ」
「ほーん……」
「あんただって気づいてるんだろ?」
「……まぁな」
黒曜はふうを目だけで見上げた。
「ま、いいじゃねえか。今はちっこい狐っ娘のふうだ」
「そうさね」
初冬の日の入りは早い。
沈みかけた陽の光に伸びた三人分の影は、先にいくにつれ、一つになって揺らめいていた。
りんと河童編、今回で完結です。
次回からは新章が始まります。次はガッツリ、シリアス路線ですよ!
応援よろしくおねがいします°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°