りんと黒曜①
第五回書き出し祭り総合二位作品
「ヌシの庵の無頼客」連載版を、先行公開いたします。
続きは23日(土)の予定です。
「邪魔するよ」
“お山”の中程にある大きな岩に空いた洞穴。申し訳程度の灯りの点いた、それを抜けた先の空き地には、小さな庵が結ばれている。
そこに男が訪れたのは、秋深い夕暮れ時であった。
大きな男だ。並の大人なら彼の胸ほどしかあるまい。ボサボサの蓬髪を無造作に後ろで縛っている。
肩には、その彼の背と同じ位の長い棒を担いでいる。その先は、大きな板が付いているかのようにふくらんでいた。
「……おや珍しい。ヒトのお客人かい」
庵の中から声がする。女にしてはやや低い、落ち着いてはいるが、艶のある声であった。
「麓の村から頼まれてね、すまねえが、村から攫った“獣人”を返しちゃもらえねえか」
「先に攫ったのはヒトだろう?」
からかうような女の声に、男はほんの少し眉を寄せた。
ケモノビトというのは、この辺りに多く住むあやかしの一種である。姿形はほとんど人間だが、耳や角、尻尾などに、混ざっている獣の特徴が現れている。その力は強く、子供でも人間の大人二人を軽々と持ち上げるという。
この土地には、ヒトはケモノビトを年に数人程攫い、労働力として使役する習わしがある。代わりにヒトはお山のヌシに、幾ばくかの供物を供えることになっている。
古くから伝わる習わしで、その謂れを知る物は既に、誰もいない。
「それについちゃ、話が付いてるって聞いてるぜ?」
「……付いちゃいないねぇ。だから返してもらった。悪いかい?」
「知ったことじゃねえな。こっちも貰うものを貰ってんでな、筋は通させてもらう」
「それこそ知ったことじゃない。こちらの道理は通っておらぬぇ」
洞穴からの冷え込んだ空気が、さらに凍りついた感覚があった。
(ほぅ……)
男は表情にこそ出さないが、その実、こころは躍っていた。
「……強いな、あんた」
「物騒なことを。私はただの、お山のヌシだよ」
「戯言を。ただのヌシにこの気は出せんさ」
かすかに烏の啼く逢魔が刻、庵の扉がゆっくりと、音もなく開いていく。
扉からぬるりと出てきたそれは、輝くような長い銀髪を後ろで束ねた、背の高い女であった。大きめの耳がぴんと立ち、髪と同じ色の銀の尾が見え隠れしている。肌もまた透き通るかのように白い。男物の作務衣を着込んでいるため見間違いそうになるが、胸元を大きく盛り上げる二つのふくらみが、女であることを明かしていた。
「狼のケモノビトだと聞いていたが」
男がゆっくりと、担いでいた布包みを下ろす。とん、と包みを地面に軽く置くと、包みが上から解けた。
「……ほぅ」
ヌシが興味深そうな声を漏らした。
包みの中にあったものは果たして、男の背ほどもある、巨大な斧である。
「中々どうして、いい女っぷりだな、ヌシ殿」
「お互い様だよ。私が見上げるヒトには初めて会う」
「そうかい」
「そうさ」
二人が発する殺気に、間の空気が震え出す。その震えは波紋の様に拡がり、やがてぶつかり合い、拮抗する。
男とヌシとの間は未だ離れ、互いの間合いには程遠い。加えて男は斧を地面に立て、ヌシに至っては素手のままである。
「よいのか」
「よいさ」
「……死ぬ気か」
「毛ほどもないねぇ」
拮抗した殺気は凝縮され、いつ弾け飛んでもおかしくはない。
そして、それが弾け飛んだ時、静寂は消され、この地は戦場と化すことになるのだ。
「ひとつ聞きてえ」
「……なんだい?」
「村から攫ったケモノビトはどこだ?」
「この庵の奥にいるよ。まだろくに動けないんでね、寝かしているところさ」
「……動けねえ?」
「おとぼけでないよ」
ヌシの殺気が膨れ上がる。
男の額には汗が滲み、知らずうちに斧を担ぎ上げていた。
――これほどか。
男は内心、舌を巻いていた。
これまで数多くの人、獣、獣人を、請われるままに屠ってきた。が、そのいずれも、男の肝を冷やすものではなかった。
(怖えな)
そう思いつつも、男は薄く笑っていた。
――この男。
一方、ヌシもまた、男に驚嘆していた。
これまで、ヌシを狙って山を漁るヒトは数多く見てきたが、いずれもヌシが姿を見せると同時に腰を抜かし、そうでないものも振り返ることなく逃げ去った。
(怖いのぅ)
ヌシもまた、静かに心を躍らせていた。
秋深い夕暮れの風が、二人の間をひょう、と抜ける。釣られて舞った落ち葉が数片、空気の壁にぶつかり、霧散するその刹那。
「ふんんっ!」
「ひゅっ!」
男が上段に構えた斧を振り下ろし、ヌシが半歩下がり、避ける。
それだけのやり取りである。が、周りでかすかに聞こえていた烏の啼く声が消えていた。それどころか、さっきまで彼らの周辺にあった、動物の気配がすっかりなくなっている。
凛とした静寂。
硬く乾いた地面には深く亀裂が入り、ヌシの髪がはらりと舞い落ちた。
数呼吸の後、いくらか離れたところで、動物たちは呼吸を思い出したのだろう、小さな気配を取り戻していた。
「……深めに振ったんだがな」
「避け切れぬか……」
そのまま再び対峙する。さっきとは違い、男は斧を担いではいない。ヌシにとっては好機なのだが、彼女はおいそれと動けずにいた。
(さて、どう動くか)
(……動かんか)
有利なのはヌシである。そもそも素手で機動力が高いのに加え、男の斧は地面に打ち込まれている。そのまま踏み込めば、勝負は恐らく一瞬で終わる。
だが、それでもヌシは警戒していた。
身の丈程もある大斧を軽々と振り抜く膂力。自分と相対しても一つの揺らぎも見せぬ胆力。それなりにヒトを見てきたヌシではあるが、それでも、これほどの男に出会ったのは初めてであった。
この男は、どう動くのか。
考えてみたところで、答えなど出るわけもなかった。
「ふむ」
埒が明かぬ。
そう感じたヌシは、なんの気配も見せぬままに、ふわりと斧の上に立った。
「ぬっ」
「……さて」
殺気も気配も何もないまま、男に向かって蹴りを放つ。鮮烈な、それでいてどこか優雅な蹴りだが、そのキレは、軌跡にある空気を焦がし、残像を残した。
「ちぃっ」
男は斧を捨て、後ろに飛ぶ。つい数瞬前までは頭のあった場所で、今はヌシの足裏が男を指していた。
「ほぅ……」
「流石にヌシと呼ばれることはある……」
「……これで仕留められぬヒトがいるとはの」
言い捨てると、ヌシはまた、ふわりと後ろに避け、敢えて間合いを外した。
そして、
「拾わぬのか」
「優しいな」
「……きまぐれさ」
間合いを外すことで、ヌシは男に斧を拾わせようとする。だが、男はそうしなかった。
ヌシがそのまま攻め込めば、男に返すすべはない。それを敢えてしないところを、男は「優しい」と評したのだった。
「……名を聞いておらなんだな」
「名乗る程のことでもあるまいよ」
「そう言うな。興が乗っただけさ」
ヌシはそういうと、構えを解いた。
全身からくる緊張感はそのままだが、目は笑っている。
男はその目を見ると、拍子抜けしたように肩をすくめ、言った。
「……ヤトハレ、黒曜だ」
「この山のヌシ、りん」
「山のヌシに収まるようなタマじゃあなさそうだがな」
「ヤトハレ……傭兵に収まるタマではなさそうだがな」
ヌシは少し思案げな様子を見せたあと、真剣な面持ちで黒曜に言った。
「黒曜殿、ひとつ頼みたいことがある」
「……ほう?」
「もし私が負けたなら、我が娘の代わりに私を連れて行ってもらえぬか」
「……なんだと?」
それはつまり、村から取り返してきたケモノビトは、山のヌシ、りんの娘ということである。
さらに、連れ戻す代わりに、自分を連れて行けと、彼女は今確かにそう言った。
りんが、庵の扉を顎で指す。黒曜はそれを眼だけで追う。
すると、庵の入口には、真っ白な毛を血に染めた、まだ年端もゆかぬケモノビトの娘が、怯えた様子で立っていた。
「……!」
「村でやられた。さすがに見かねて連れ帰った。……だから、頼む」
「……クソが」
そう吐き捨て、奥歯をぎりっと鳴らす。
黒曜は懐から、一片の紙と金袋を取り出し、りんの目の前に放り投げた。
「それは今、俺が落としたものだ。それを拾って俺に返してくれ。その礼として、あんたに雇われてやる」
「? 何を……」
「あの村は俺を騙しやがった。自分達には落ち度がないってな。それがこの有様じゃあ、筋の通る道がねえよ」
りんは紙と袋を拾い、黒曜に手渡した。
それを受け取った黒曜は元のように懐に入れると、斧に布を被せ肩に担ぎ、麓への道に足を向けた。
「行くか」
「何をする気だい?」
「知れたことだ」
黒曜はりんを見て、太い笑いを浮かべた。
「報酬分の仕事はする。交渉の末、もっと役に立つ大人のケモノビトを連れ帰るって筋書きだ。あの村で頼まれた仕事はそこまでだ。……そうしたら、次はお前さんからの仕事をする」
「……例えば、あの村を潰す、でもかい?」
「もちろんだ。俺は気に入らねえ仕事は断るが、あんたの仕事なら歓迎だ」
りんは、一瞬ぽかんと呆気に取られた顔をしたが、ふいに呆れたような笑みを浮かべた。
「変な男だね、あんた」
「そうでもないさ」
黒曜は振り返り、笑った。
「あんた程のいい女に、ありがとうと言われたくなった。それだけのことだ」
無邪気とも言えるその笑顔に、りんは仄かに頬を染めた。
「いい顔で笑うじゃないか」
「そうか? 熊のケモノビトとよく間違えられるがな」
「ふふ、違いない。……少し時間をおくれ、身支度をしてこよう。……ふう」
庵の入り口では、ふうと呼ばれたケモノビトの幼女が、心配そうにこちらを眺めている。
「お母ちゃん……」
「ちょっと出かけてくるよ。必ず帰るから、いい子でお休み」
「うん……いっぱい、お出かけ?」
「いいや。……そうだね、朝には戻るから、それまでおねんねしておいで?」
「……あのおじちゃんは?」
「俺? ……ああ、そうか」
黒曜は斧を降ろし、地面に膝をつく。それでもふうよりも随分大きいが、黒曜は更に背中を丸くして、目線を合わせた。
「おじちゃん、お母ちゃんのお手伝いをしてくるんだ。だから大丈夫だ。ちゃーんとお母ちゃん、送り届けるからな」
「……うん」
「どうしたんだい、ふう? やけに浮かない顔じゃないか」
「……他にも、いるの」
「ん?」
「他の子も、痛いことされたりしてるの。お友達もいるの」
「なんだって……!?」
「よし、分かった」
黒曜は手を伸ばし、ふうの頭を優しく包む。
「おじちゃん達が行くのは、あの村なんだ。行ったらみんな、助けてやるから。……だから、安心して待ってろ。な?」
そう言った黒曜の目は、ただ優しく、穏やかであった。




