1・私の異世界史、元の世界を忘れない
なるべく多くの異世界について語りたいと思っているのだが、いかんせん、アニメや漫画が大好きだったにも関わらず、私は秋田で生まれて育った。大学に入るまで。
町に一軒だけあったレンタルビデオショップは大人や幼児向けの作品が多く、コアな作品を求める私を満足させてくれるアニメはなかった。借りるとしたら車で三十分ほどかけて市中に行かなければならないのだが、当時の私は無免許だ。
借りる時は親に頼まなければならない。
ケースから取り出したビデオ、もしくはDVD、そこに書かれたタイトルを見られるのが恥ずかしくてしかたなかった。
秋田と言えば、自殺率全国ナンバーワン、アニメ放送率ワースト一位らしい。ネットの情報なので、確証はない。
だがこの情報元の人物は「アニメの放送本数と自殺率は関係している」と語っていた。
私なら死ぬくらいなら死ぬ気で東京に行き、電気屋のテレビでアニメを見る、という選択をするだろう。
だがやはり、人前でアニメを見るのが恥ずかしい。
そう思い始めた頃に放送が始まったのが『魔法騎士レイアース』(CLAMP原作 ※以降「レイアース」と略)だった。
当時『なかよし』(講談社)を定期購読していたので、アニメよりも先に漫画で存在を知っていた。
東京タワーに社会見学に来ていた三つの中学校から一人ずつ、初対面の三人の少女が異世界セフィーロに飛ばされ、そこで使命をあたえられ、戦うという話だ。
アニメは見たことがなくとも、一期オープニングテーマ曲「ゆずれない願い」(田村直美)は聞いたことがあるという人は多いかもしれない。田村氏はこの曲でNHK紅白歌合戦にも出ている。
話は一期、二期と分かれており、アニメと漫画で少し内容が異なるが、一期の終わり方が衝撃的なのである。
三人の少女は使命を達成する。だが、その結果は、思い描いていたものとは遠く離れたものであり、いわゆるバッドエンドだった。
そして二期で、もう一度異世界へ行き、今度はその異世界のもっと深い部分の真実に触れ、前のような悲劇が起こらないようにと戦う。そして、役目を終えた少女たちは、元の世界に帰還する。
もう一つの異世界ものは、「天空のエスカフローネ」である。
これは、地方住まいだったため、リアルタイムでの視聴が叶わなかった。だが、大学に進学し、一人暮らしを始め、「もう自由にアニメが借りられるぞ!」と歯目が外れたのだろう。とりあえず劇場版「エスカフローネ」を見た。
劇場版はアニメ版の総集編であり、編集版でもあるため、TV版とは少し異なる。だが、最後はTV版と同じである。
主人公の少女は突然、地球から異世界へ飛ばされてしまう。そこで一人の少年と出会い、反発し合いながらも共に戦い、最後主人公の少女は少年を残し、元の世界へと戻る。
ちなみに、TV版である「天空のエスカフローネ」を見たのは、去年2017年の正月のことである。
きっかけはAmazon プライムである。
「異世界作品、どんなの見た(読んだ?)」と聞かれたら、私はこの二作品をあげる。
(他にも読んだり見たりしているが、後で語れたら語ろうと思う)
この二作品の共通点は、「元の世界と異世界を比べている」、また「元の世界に対してホームシック気味」になることだ。
食べ物の違いに戸惑ったり、向こうの時間はどうなっているのか? 家族はどうしているのか? 「エスカフローネ」の場合は、主人公が元の世界で片思いしていた相手を思い出したりもしている。
決して異世界に入りびたりではないのだ。
何の荷物も持たず、そのまま異世界に飛ばされてしまったら?
その描写が細かく描かれている。そして、異世界で戦いに巻き込まれながら、主人公たちは成長して元の世界に戻り、前の生活に戻っていくのだ。
まるで「ドラえもん」の劇場版である。
夏休みの間、異世界へ行って、戻ってきて、のび太はママに宿題をやったのか? と怒られる。
もしくは、どこでもドアに時間を戻すダイヤル(道具名は失念)、タイム風呂敷、タイムマシンを使い、いつもと変わらない一日だったよと装うのだ。
序で述べたとおり、私は現在における異世界作品をほとんど読んでいない。
なので、上記のような元の生活にすんなり戻っていくという終わり方なのかどうなのかわからない。
あと、完結していない作品も多いので、知ることができないという点もある。
だが、明確な違いがあるとすれば、現代の異世界に飛ばされた主人公と、本章でとりあげた主人公たちとでは、元の世界に対する思いが薄いというように私は感じている。
異世界がそれはそれは居心地のいい場所であったのなら、たぶん元の世界のことは綺麗さっぱり忘れて、異世界ライフを満喫するだろう。
だが、異世界に飛ばされて、説明もないままになぜか戦っている主人公がいたりする。元の世界でも戦っていたのなら、まあ、それもありかもしれない。
ただ、「異世界は居心地がいい」と感じるためには「元の世界は居心地が悪」くてはならないのだ。
元の世界――生活は最悪だった。
そう書かれているのは『異世界拷問姫』(綾里けいし著/MF文庫J)である。
これは転生の物語でもある。
主人公は、元の世界で最悪な生活を余儀なくされていた。そして死に、異世界で蘇るが――異世界もまた酷い世界だった。
だが、どんなに酷くても戦う価値はあった、仲間ができた、苦しい時、思い出すのは元の世界での最悪な記憶。あれよりはマシだと前に進む。
個人的なことになってしまうのだが、たぶん私は、「異世界に来たから主人公やります」が苦手なのだと思う。そうではなく、「異世界に行く前から主人公だった、素質があった」という、設定の話になってしまうのだが、後者のほうが好きなのだと思う。感情移入しやすいんだと思う。
逆に、前者の方が感情移入しやすいという人もいるだろう。
それでいいと思う。
つまりは、なんでもいい。ゲームをスタートした瞬間、プレイヤーになりきれる人間は前者的な主人公に対し感情移入できるのだと思う。そして、異世界を楽しむことができる。
異世界に行くことが、ゲームを起動させるくらいお手軽になった。そうとらえればいいのだ。
昔のパソコンの場合、起動する間に、小説を数ページ読むことができたり、ソフトの起動中に席を外したり。
それが今やスムーズに動いて当たり前。すんなりゲームの世界という異世界に没頭できるのだ。
ということは、そんな異世界にのめり込めない自分は旧人類ということになるが、それはそれで――
若者の感性についていけずに小説書いてる自分、大丈夫だろうか?