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何にもないかと思った

作者: コウとフク

 図書館から閉館の曲が流れ、会社帰りの社会人や学生達は足早に家へ帰っていく。

 私も学校帰りに自転車を漕ぎ、乱れた息づかいで、ようやく図書館へ到着した。本を返却して、続き物の小説をすぐに借りた。

 一息ついた所で、図書館を見渡す。

「こんばんは」

 声を掛けてきたのは、私の視線より三十センチほど高い町田弘秋さん。

「陽ちゃん、学校の帰り? 遅いね。お疲れ」

 年齢は私より十歳年上の二十四歳。黒色のエプロンをして、司書として働いている。

「今日は委員会があったんです。決まらないことが多すぎて。挨拶運動がこれから始まるみたいです」

 図書館の時計の針は二十時少し前だ。

「そっか。大変だけど頑張って。あと帰りは暗いから気をつけなよ」

弘秋さんは唸る様に言った。百七十センチはある弘秋さんから、汗のニオイがした。色白の肌と真っ黒な短髪。切れ長の目はきつそうに見えるけど、顔の印象より話し方が柔らかい。傍にいるだけで心臓が高鳴る。

「次はいつ頃くる?」

「この本、読み終わったら来ます」

「そうだよね。いつでも待っているよ」

 待っている、その一言が私を幸せな気分にしてくれる。

今まで本には、興味がなかった。けど、弘秋さんを意識し始めた最近は、時間を見つけて行くようになった。まだ中学二年生だけど、年上の弘秋さんに恋をしている。


 図書館は学校帰りだと、家とは真逆の所にある。自転車登校なので十分の距離なんて平気だ。図書館を出て、家まで急いで帰る。空は真っ暗で、少ない外灯と自転車のライトだけが頼りだ。

 私の家は、中古住宅を改装した小さな一軒家。橘という家の表札の前に立ち、玄関のドアを開ける。すると、母が「おかえり」と言ってくれて、すぐに帰りの遅い父を抜きに母と弟、私で夕食を食べる。

 夕食後、ベッドへ横になる。図書館の本を開くと同時に、ドアが開く音が聞こえた。視線を向けると小学六年生の弟の鷹司がいた。鷹司の部屋は隣だが、たまに遊びに来る。

「自分の部屋に戻って、寝なさいよ」

「やだよ」

 前髪を前分けに垂らし、長い睫と大きな二重瞼で私を見つめた。鷹司はすっと私の隣へ寝そべった。

「あのね、姉ちゃん。今日、学校でサッカーやってさ」

 鷹司は毎晩、学校であったことを話してくれる。右にエクボを描き、声変わりのしない高い声を出す。

 鷹司の話を聞いていると、弟は可愛い顔して問題児なのではないかと感じる。平気で人を悪く言って笑うからだ。鷹司はずっと話していたが、私は話半分に聞き流していた。とにかくノルマの小説を読むことが優先だ。本当は今だって一人の読書時間を満喫したい。 

 けれど必ずといってもいいほど、弟というお邪魔虫が傍にいた。小さい頃から日課のように傍にいる。

 鷹司は無視した態度に慣れているので、大きな欠伸をして仰向けになった。

「姉ちゃん、大好き」

 そう呟くと、隣同士に並ぶ私の赤いパジャマのズボンに自分の素足を絡ませた。 

 私の足は夏の暑さなんて意味がないほど冷えていた。鷹司の熱い足は私の湯たんぽかわりとなった。

 思わず開いている本を閉じて、鷹司の頬をつねってみる。鷹司は笑って私の頬をつねり返してくる。お互い本気でやるようなら、ケンカになってしまう。私達は仲の良い姉弟だ。

 しばらくすると、部屋をノックする音が聞こえた。母がひょっこり顔を覗かせた。

「鷹司、もう寝なよ!」

「はあい」

 鷹司は母の方へ走っていく。母は私に「お休み」と言って、ドアを閉めた。

 今日も私と合わす顔は不機嫌な表情だった。共働きである両親は私より鷹司が好きなようだ。魚の嫌いな私に対して寿司が好きな鷹司の好物ばかりが食卓にでる。理由はわかる。それは私がまだ小さい頃、鷹司が産まれてない時に、私と今の両親は再婚した。私は亡くなった本当の母にそっくりな父の連れ子。母は私が可愛くないのだ。それに気づいている分、私は母とは分かり合えないし、好きになれない。


 翌日も昨日と同じ閉館時間に図書館へ滑り込んだ。また委員会で遅くなった。

 もうすぐ閉館時間前なのを時計で確認して玄関口に立った。自動ドアが開くと、本の整理をしている弘秋さんがいた。私はすぐに弘秋さんの元へ行こうとした。

 けど、弘秋さんはすぐにそこから移動して本棚の見えにくい所で髪が肩まである女性と話し始めた。私は本棚で身体を隠した。閉館の曲が流れる。会話が曲と重なりあって聞こえにくいのに、二人の声がよく聞こえた。

「今日の夜は会えるかい?」

「ごめん。今日は仕事の用事で来ただけだから会えない」

 身体がカッと、熱くなる。

「そっか。少し会えただけで嬉しいよ。来てくれてありがとう」

 弘秋さんは彼女の方を見て、残念そうに言った。彼女が弘秋さんに手を振ると、そのまま私の横を通り過ぎた。彼女の香水なのか、トイレの芳香剤のような臭いが鼻についた。

「くさい」

 私は小さく呟くと、身体の熱が噴き出すように高ぶるような気持ちになった。じわりとと溢れそうな涙を慌てて制服の袖で拭った。

 弘秋さん仕事に戻り、本を片づけていた。今の会話を聞いて、帰ろうとしたけど弘秋さんと話をしたかった。

「弘秋さん。今日も来たよ」

 弘秋さんは私に気づくと、手を止めた。

「陽ちゃん、また遅い時間じゃない」

 弘秋さんは眉をひそめた。

「今日も委員会だったんだ」

 セーラー服のまま、私はつんとした態度を見せた。弘秋さんは私に背を向けた。

「ちょっと待って、送っていくから」

「え」

 そんなこと言ってくれるのは、初めてのことだった。もしかしたら、彼女に今日の誘いを振られたのでついでに私を誘ってみたのではないかと思った。けど、それでもよかった。仮に弘秋さんが狼のように私を襲ってくれても構わなかった。

 仕事をする弘秋さんの姿を見ていて胸がトクンとなった。好きな気持ちは溢れているのに、私の気持ちには気づいていないふりをしているのかと、緊張した。

 しばらくすると、「帰ろう」と弘秋さんがリュックサックを背負って来た。黒のジャンパーと紺のニット帽をかぶっていた。

「すてき」

 思わず口に出してしまう。

「陽ちゃんいつもチャリンコだよね? 俺も最近、ガソリン節約中でチャリなんだよ」

 白い歯を見せて爽やかに笑った。弘秋さんは私の家の隣の地区に住んでいるという話を前に聞いていた。返却口で私の住所を知ったようで私の家は通り道だそうだ。

 私はまた顔をニタニタ緩ませた。暗いから悟られないと思ったけど、弘秋さんの横顔が外灯にあたるとはっきり見えた。

「弘秋さん、さっきいた女の人は彼女?」

 私はさらっと聞いた。

「いやだ。見られていた? 恥ずかしい。彼女だよ」

 照れているのか、ごにょごにょと話す。私の手からじわりと汗が出た。ハンドルを握り締めて、いいなと呟いた。

 弘秋さんは首を振って否定した。

「彼女は別の図書館の司書なんだ。たまたまこちらに用があり、きていたんだよ。でも、すごく仕事ができる人だから、すぐに振られちゃうかもね」

 弘秋さんはそうやって謙遜したが、私には返す言葉が見つからなかった。

 あっという間に私の家に着き、弘秋さんはにこやかに手を振った。

「でわ、またね。おやすみ」

「ありがとうございました」 

 お礼をいった後、急に寒気がした。きっと私の体内の煮え立った血流が冷めたのだ。

 弘秋さんの背中を見送る。

 空しくなった。毎日のように勝手に図書館へ通っている。私はきっと彼女より弘秋さんを思っている。嫉妬心がどんどん溢れ出た。


 家に帰ると、鷹司が夕食を一人で食べていた。両親は今日帰りが遅いと言っていた。母は会社での食事会があるようだ。父はいつも帰りが遅い。鷹司は私に気付くと可愛い笑顔を見せた。

「おかえり」

 早く、自室に戻りたかった。夕飯は食べるのをやめることにした。泣きたい気持ちだった。部屋に戻ると、ふて寝をした。枕に顔を押し付けて、顔中くしゃくしゃにした。声を出さずに泣きたかった。

 私の恋は終わってしまった。私の精神が段々と壊れ、醜くて汚い固体が心の中に住み始めている。弘秋さんは何も知らず、私に優しくする。どうでもいい女に優しくするのって卑怯だ。

 ブーと鼻をかんでいると、ノックの音が聞こえた。激しくならすのは鷹司だ。

「今日は来ないで!」

 私は叫ぶように声を大きくした。

 けれど、鍵のついてないドアは勝手に開いた。ドアから鷹司がひょっこり出てきた。

「姉ちゃん、夕飯は?」

「いらない」

 ふて寝をしたまま、ぶっきらぼうに言う。

「えー。具合でも悪い?」

 鷹司が私に近づいてきて、ベッドの端に座った。

 キシッとベッドが沈む。

 今日は両親がいない。姉弟二人きりだ。

 鷹司が私のうつ伏せになったままの頭に触れる。私は驚いて、仰向けになる。座って見下ろす鷹司が再び、私の顔面に手を伸ばした。

「なによ」

 鷹司は真剣な顔で、もう一度手を伸ばし、私の額に手を当てた。どうやら熱がないか測っているようだ。私は笑った。

「熱なんてないよ、ありがとうね」

 鷹司は私の顔をじっと見て、首を捻った。

「泣いていたの?」

 まさか。首を振る私の目元に優しい鷹司の指が触れた。私もその指を追いかけるように自分の目元に触れると濡れていた。

「大丈夫?」

 鷹司が眉をひそめて私の涙をすくい取る。

「大丈夫。平気、小説読んで泣いていたの。鷹司、食べちゃったなら食器洗うから置いといて。お風呂は沸かした?」

「食器洗ったし、お風呂も沸かしたよ」

 小学六年生の頃、自分はどうだったかを思い出すと、この弟には感心する。

 それに比べて、器の小さな自分。

 鷹司の素直な部分に触れると、寂しくてたまらない心の詰まりが見える。吐き出したくなる。好きな人に恋人がいたんだよ。

私を見つめる綺麗な瞳が、私の汚い部分を見ていた気がした。

「鷹司? ちょっといい?」

「なに?」

 鷹司の首元をひっぱり私のパジャマ越しの胸元に引き寄せた。抗うことなく、私の膨らみ始めている小さな胸に鷹司の頬が当たる。

「なに? 心臓の音を聞けって?」

 鷹司が笑いながら目をつぶる。赤ん坊を抱くようにギュッと抱いた。

「触っていいよ」

「え。いいの?」

 鷹司は長い睫毛を震わせて、片手で私の胸に触れた。ただそっと触れた。

 なぜ、このような気持ちになったのか、わからない。でも触れて欲しかった。誰かに。愛しい人に。弘秋さんに。

「柔らかいね」

 鷹司がパジャマ越しの小さな胸の谷間に、顔をうずめた。鷹司は両手で私の脇腹に触れた。私は「ひゃっ」と身震いして逃げた。でも鷹司は笑って、私のことをくすぐった。

「ちょっと、やめてよ」

 キッと睨むと、鷹司は舌を出してもう一度手の平を胸にそえた。今度は服の下のキャミソール越しだった。お風呂から出た後なので、ブラジャーもつけていない。

 鷹司は少し指を動かしてきた。

「ずっと、触ってみたかったんだよ。女の人のおっぱい」

 鷹司は私の胸を揉んだり、くすぐったりした。私の気持ちはスッと冷めていった。

 私は何をやっているのだろう。

 弟と何やっているのだろう。気持ち悪い。突然、自分のしている行為に吐き気を覚えて、鷹司を手で払った。鷹司は、きょとんとして私を見ている。

「姉ちゃん。エッチなことしてくれるんじゃないの」

 私は首を振って、謝った。私が悪い。こんな風になったのも、自分勝手な私の責任だ。

「鷹司、ごめんね。私は今、頭おかしいの」

「そうかなあ? 姉ちゃん、頭いいし、俺がみた中で、一番可愛い」

 振り払った手を捕まえて、鷹司は自分の胸元に引き寄せた。華奢な体だと思ったら硬くてしっかりしていた。慌てて、引き離そうとしても力が強すぎて、とても太刀打ちできない。

「やめてよ。さっきの終わり。忘れてよ」

「やだよ。俺、姉ちゃんと気持ちいい事したい。それに俺達、半分血が繋がってないんでしょう? 少しぐらい大丈夫だよ」

「それでもダメなものはダメ」 

 確かに私と鷹司は父親の血だけしか同じじゃない。けど、姉弟には変わりない。

 そのまま、鷹司は私を押し倒すように覆いかぶさった。私は、いやいやと首を振るが、男の子の力は容赦ない。今まで子供だと思っていたのに。鷹司はいつこんなことを覚えたのか。

 鷹司が仰向けになった私に馬乗りになる。

 私とばっちり目が合うと、長い睫毛の少年は頬を赤らめて、ぎゅっと抱いた。

「姉ちゃん、すごく可愛い。好き」

 体が震えだす。鷹司が怖い。目の奥からにじみ出てくる涙。これはなんの、涙だろう。

「怖い」

 この涙は驚いている自分に、子供のふりしていた弟に、過ちを犯している姉弟に。

「怖くないよ、俺は姉ちゃんの味方だよ」

 いつの間にか大きくなっていた上背。長い睫毛の大きくて綺麗な目、整った顔立ち。声変わりしてないのに、なぜ、そのピンク色の唇は私に近づいてくるの?

 音を立てて鷹司は私の唇に吸い付いた。吸い付くように舐めてきた。私にとって、はじめてのキス。鷹司は私の唇から顎、首筋と唇を這わしてくる。

「いや、だめだよ」

 両親が帰ってきてしまうのに。

「これ以上、しないで!」

 滲み出てくる涙がぼろぼろと頬を斜めに伝う。それでも鷹司はやめなかった。胸をキャミソール越しから触れていたのに、するりとじかに触れてきた。

「やめて、お願い」

「またこういうことしてくれる? そしたらやめるよ」

 恐ろしいことを言いながら、鷹司は左手を私のパジャマ越しの足の付け根に優しく触れてきた。私はビクンと体をしならせた。

「だめ。無理!」

 精一杯の力で鷹司を押した。鷹司は頬を膨らます。鷹司は私の下半身を這っていた手で自分の下半身をズボン越しに触り始めた。

 鷹司はニヤっと笑った。右頬には憎たらしいえくぼをへこませた。

「姉ちゃんに触れたら固くなった。あちこち柔らかくて気持ちよかったよ」

「いや! 出てってよ! 変態!」

 私は拳を振り上げて、鷹司の腕を叩いた。痛いと怒る鷹司だが、すぐに微笑んだ。

 その笑顔は子供のくせにすごくいやらしい顔つきだった。あまりに私がヒステリックだったのでやっと退散した。

 鷹司のいなくなった殺風景の部屋で、私は震える体を布団で隠した。



「おかえり」

 鷹司の声が遠くから聞こえた。両親が帰ってきたようだ。

 さっきのことがなかったかのように鷹司は家族に溶け込んでいくのだった。



 私はそのまま眠りに落ちて、朝日が上がるまであと一時間ほど前に目を開けた。もう眠れなくて、私は小説を読み進めていく。

 夢中でめくっていると、母親の目覚まし時計がピピピと無機質に鳴っていた。早く止めなければ、より大きさが増すので近所迷惑につながる。けれど、母はそれに気づかない鈍感な性格なので、長い間、その音を放置して再び眠りについてしまう事が度々あった。

 その音に対し、小説を読む集中力が途切れてしまった。台所に水を飲みに行くついでに母の部屋に立ち寄ることにする。

母の部屋は弟の鷹司の隣の部屋にある。鷹司もきっとしびれを切らしているだろう。私はそっとドアを開けて、両親の部屋のドアを開く。

「いい加減にしてよ……あれ?」

 いつも敷き布団に丸まっている母の姿が見当たらない。それに隣にいるはずの父もいなかった。

「あれ?」

 ピピピとなり続ける時計を止めた。そして不思議に思いながら、昨日気まずい思いをした隣の部屋の鷹司の部屋のノックを叩く。カチャリとドアノブを回し、部屋に入ると、鷹司がベッドの上で寝息を立てていた。まだ五時にも回っていない。起こすのが、かわいそうだと思ったけど、両親がいないことの方がおかしいので、鷹司をゆさぶり起こす。

「鷹司、起きてよ」

 少しゆさぶったら、眉を寄せて鷹司の大きな目がギロリと私を睨む。寝起きはすこぶる悪い。

「なんだよ。姉ちゃん。今、何時なの?」

 唇を尖らし、寝癖をつけた鷹司は、枕元の時計を見て、さらに不機嫌になった。

「ひどいよ。まだ起きる時間じゃないよ!」

「そんなことより! 父さんと母さん知らない?」

 私は鷹司の不機嫌より上にくる甲高い声をまくしたてた。その声に鷹司は目を覚ましたようで、いつもの優しい表情に戻る。

「え? なんでいないの? 昨日の夜に帰ってきたよ」

 何も言わずに両親が朝からいないのはおかしい。何かあったのだ。置き手紙でもあるのか探したけど、なかった。携帯電話のことを思い出し、慌てて自分の部屋に戻った。

 すると、一件メールの通知があった。

 驚いて付いてきた鷹司と私のベッドに座る。スプリングが軋んではねた。

『おはよう。急に父さんも母さんもいないからびっくりしたでしょう』

 母からの受信メールだった。私はそのメールに大きく頷く。隣で覗き込む鷹司も何度も首を縦に振っていた。

『実は私達、子育て疲れたの。だから、二人を置いて田舎で暮らすわ。だから二人で暮らしてね』

 そのメールを読んで、私は鷹司と目を合わせた。私もその文が信じられなかったし、鷹司も鼻で笑うほど、疑っていた。

 けれど、その朝を境に育ててくれた両親と会う事はなかった。


         ☆


 それから四年が過ぎた。

「おはよう、起きて」

 朝、目を覚ますと、必ず確認する事は弟の姿だ。私より二つ下の弟、鷹司がいるかどうかを確認する。

 ドアは静かに開けて、私の呼びかけになかなか起きない鷹司をゆさぶり起こす。高校一年生の鷹司は急にぐんと背が伸びた。

「ううう。まだ寝たい~」

 情けない野太い声で、薄っぺらな掛け布団に急いで包まる姿はまるで子供だ。

「もう起きないと! 朝ご飯あげないから」

 何度も起こすのに、いつまでたっても布団から出ようとしない。毎朝そんな感じでこっちも疲れてしまう。昨日も部活から大分遅くに帰ってきて、疲れているのだろう。あるいはアルバイトでもしていたのか。

 中学を卒業し、高校に入学した鷹司は姉の私から見ても色黒で幼い顔立ちが男らしい端正な顔立ちに見える。子供の頃は背が低く、声は少女のようで可愛かったが、随分変わってしまった。百八十センチもある身長を背の低い私にも分けてほしい。

 私は相変わらず、童顔で中学生に間違えられるほどだ。しかし年は高校三年生になり、充分大人に近づいている。

「うるさいな。そんなに激しく揺らすなよ」

 私の強引な起こし方は毎朝の事。最後はTシャツの襟をぐいぐい持って引っ張ると、苦しくなって起きるのだ。私はにんまりと笑って、寝癖頭をポンポン叩く。

「子供扱いはやめろよ。キスしちゃうぞ」

 鷹司は頬を膨らませ、私の手をしり退けてくる。キスに反応してひるむと思ったのか。   

 もう一度、手グシで寝癖を整えてあげる。しつこいと面倒なのか鷹司はあきらめて大きな伸びをした。子供の頃から癖でつい幼い弟として扱ってしまうが、今はれっきとした高校生の少年なのだ。

 けれど一度過ちを犯した二人。それはもう忘れてしまった。あれ以来は何もない。

 寝癖を整えてあげた後、台所に向かった。炊飯器の前に猫の絵柄のお茶碗を二つ置いて、回り終わった洗濯機を確認し、洗濯物籠に移し替える。朝の日課は朝食作りと洗濯だ。   

 中学二年生から始めた主婦業は慣れている。自分の趣味の読書もできなくなったし、家のことしか見えなくなった。学校帰りはスーパーのアルバイトがある。文句を言ったらきりがない。はけ口がなくてストレスはどんどん溜まっていく一方だ。鷹司はおいしいともまずいとも言わずに、もくもくと朝食を食べて、着替えて支度し、家を出てしまう。

 朝食の片づけをして、ひと段落すんだ後、すでに支度してあった鞄を持って高校に向かった。

 

 高校のホームルームが終わり、アルバイトの時間に近づくと、私は猛スピードで自転車を漕いで仕事場に行く。初めのうちは慣れない接客やレジ打ちも最近は慣れた。

 私の失踪した両親は私達のために、家を残してくれた。

 私たちは中学を卒業するまでの間は施設にいた。家を売ったお金と私のアルバイト代金、それから鷹司も休日には働き始めた。

 その溜まったお金で、今は二人でアパートを借りて、生活している。

 失踪した当初は、両親を憎んだし、今まで一緒に笑いあっていたことが不思議だった。 

 いろいろ考えると、死にたくなった。けれど、鷹司がいてくれたから私は頑張って生きようと思った。

「育児放棄? 俺達、産まなければよかったってこと?」

 鷹司が私に聞いた。私は首を振った。知らない。なにもわからない。

 スーパーは高校生から働き始めて三年になる。高校を卒業しても働けば、店長はすぐに正社員にしてくれると言った。三十代の店長は独身で見た目は色が黒く、遊び人タイプだ。それに私を贔屓してくれる。おばさん達は私と付き合っていると噂をするのだった。


「一緒に帰ろう」

 隣には店長がいる。

「はい」

 閉店まで働いた後は駐輪場で店長と待ち合わせるかのように一緒に自転車で帰る。店長も車ではなく、自転車通勤だった。

「誰も残っていませんでした?」

 自転車へ乗る前に私は声をひそめて言った。すると、店長は微笑んだ。噂は本当だった。

「いないって。心配性だなあ。大丈夫だよ」

 自転車のハンドルを持った手を包むように店長は、私の手に長い指を重ねた。暗くて見えない。

「ちょっと」

 私は逆の手で払うようにその手をどかそうとした。けれど逆の手も店長の指に絡め取られた。

「陽ちゃん。いや、陽子、好きだよ」

 私の体は熱くなった。そんな私を見えているのか、店長は私のハンドルにくっついてしまっている両手を優しく握るのだった。

「本、また一緒に借りにいこうね」

 店長は私の手を離して、自分の自転車の鍵を外した。そして乗り込む。私は唇を尖らせて、店長を見た。

 店長の名前は町田弘秋と言う。

 私の初恋の相手と同一人物なのだ。弘秋さんはこの四年の間に変貌を遂げたのだった。 

 いかにもおとなしく色白の弘秋さんは色黒になってしまったのだった。図書館も辞めてしまい、その後は実家でやっているスーパーを継いだそうだ。 前の彼女に振られてから、悲しくて他の道を選んだそうだ。

「店長がいない図書館なんて、もう行きませんよ」

「ふふ。嬉しいこと言ってくれるね」

 なんて、笑う店長は人を弄んでいるとしか思えない。

「もう店長、早く帰りましょう」

 見えないはずの店長の顔はきっといたずらに笑っているのだろう。


 両親がいなくなった後、初恋どころでなかった。自分達が生きるだけで精一杯だった。  

 私は借りっぱなしになった小説をずっと大事に持っていた。返す余裕もなくて、図書館には近寄れなかった。

 けどある日のこと。鷹司が本を返してきてくれた。どうやら気になっていたらしい。

 本がなくなった途端、何かが解放された気がした。両親の憎しみも初恋もこの本がすべて持って行ってくれたのだと思う。

 

 スーパーから帰ると、鷹司がリビングのテーブルに座って待っていた。いつもと様子が違うようだった。

「遅いじゃん」

「閉店までバイトだったの」

 ふーんと、鷹司は椅子から立ち上がり、私の元へ来た。肩にかけた鞄からスーパーで着替えた制服を出してくれる。

「ありがとう」

「心配だよ。変な男に掴まらないか。今度は迎えに行くから、シフトが入っている日の終わり時間教えて」

 私は首を振る。店長との通勤デートを邪魔されたくない。

「もう~、冷たいな。俺達、初めての相手で運命共同体なんだからね。これからもず~と一緒にいよう」

 私の手を引っ張って体を引き寄せる。

「あ、あれは! 過ちなのよ。ごめん。忘れて!」

 四年ぶりにいきなり抱きしめられた。逃げるように体をひねったが、鷹司は強引に私の体へ馬乗りになって二人は床に倒れた。

「両親がなぜ育児放棄したか、理由を知っている?」

「知らないよ。私達のことが嫌いになったんでしょう。もう、離してよ」

 鷹司は大きな目を細めて私の顔に近づいていく。

「俺達の例の行為を見たからだよ」

 近づく、鷹司の顔と言葉に身震いした。首を振る私に対して、鷹司は言った。

「この間、両親と四年ぶりに会ったんだ。県外で喫茶店やっているらしいよ。それと俺達の愛の行為を見て、気持ち悪くて怖くなって逃げたみたい」

 不気味に笑う鷹司はおかしくなったのだろうか。鷹司は私の唇に自分の唇を熱く押し当てた。

「姉ちゃん、小さい頃からずっと好きなんだよ。止まらないよ。俺を受け入れてくれよ」

 私の足に絡みつく足は湯たんぽのように暖かかった。私の体は小刻みに震えた。

 たった一人の家族も弘秋さんも失いたくない。


 私はもう何も失いたくない。

 

                                                                終わり


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