6話 心をかき乱すもの
「嘘だ…」
呟きと、椅子が倒れる音が、止まったように感じた時間を再び動き始めさせる。
ゆらりと立ち上がり、拒否するかのように1歩足を引き、動揺しきった声で呟くように言った。自分に言い聞かすかのように。セルザスを固まった瞳で見つめる。
声が震えていた。
「いや…」
「嘘だ!!」
フェルはセルザスの言葉を遮って、純白と漆黒の羽を広げ、溢れ出る感情に任せて叫んだ。今まで出したこともない声の大きさに自分自身吃驚して目を瞠り、そのままくるりと後ろを向いた。
悲しみ?
怒り?
嬉しさ?
空しさ…?
この気持ちが何なのか分らない。
「だって…お母さんは…死んだって聞いた…」
極力声が震えないようにしながら、それでも震えた声を漏らす。
もどかしさに俯いた目元に影が差した。
母は死んだのだ。
フェルが5歳の時に。
だからもういないはずだ。
悲しんで悲しんで、
いっぱい泣いて。
母の死を認め、受け入れ、
今まで生きてきた。
生きてきたのに。
生きている。
そんな言葉を聞いてしまったら、認めてしまったらいっぱいいっぱいだった心が折れて挫けてしまいそうで、今にも涙が溢れてきそうだった。
『お前の母は生きている』
小石がちゃぽんと音を立てて放り込まれ、波一つなかった静かな水面に波紋が広がっていくかのように、その一言はフェルの心をかき乱した。
自分に言い聞かせるように、自分を落ち着かせるように、努めて静かな口調で話す。
「僕は…信じないよ。お母さんは…死んだんだ。もういないんだ…だから…」
「何故そう言い切る?俺が言ってるんだから…」
「だって…!もし生きているなら…どうして僕の側にいてくれないの?
どうして知らせてくれなかったの?どうして…どうしてっ!」
途中から声を詰まらしながら叫ぶ。
口から零れ出る言葉は”どうして”ばかり。
――もしかして僕は…捨てられたの?嫌われたの?
無意識に拳に力がこもる。
逆光でフェルの背中には影ができていた。セルザスからはフェルがどんな顔をして立っているのかは分らないが、容易に想像できる。華奢な肩が堪えるように震えているのを、セルザスは見た。溜息をつきながら腕を組み僅かに目を伏せ、セルザスが静かに尋ねる。
「お前はそれを自分の目で確認したわけではないのだろ?」
「……。」
無言は肯定ということだろう。
もっともな意見に反論できないフェルはこぶしを握りしめた。
セルザスは倒れた椅子を起こしながら、それにと付け足した。
「まだ話は終ってない。実は…お前の母は―」
セルザスが言いさしたその時。
「半堕天使フェル・ルア・ルシファンス!
お前はこれから堕天する日まで牢屋でおとなしくしてもらう!」
多数の足音と共に、背後でけたたましい声が聞こえた。
もしセルザスから堕天することを聞いていなければ、今ここで混乱で頭がパニックになっていただろう。ただ事ではない雰囲気に2人が後ろを振り返ると同時に、堅い鎧を身にまとった兵が流れるように部屋に侵入してくる。
「なんだお前ら!誰が命令した!聞いてないぞ!」
セルザスが怒号し、フェルの元に走りゆこうと身を翻した刹那、4・5人の兵に取り押さえられ、がくりと膝をついた。
「くっ…離せ!誰がフェルを牢屋になどと言ったのだ!」
渾身の力を込めて抗ったが、この人数に取り押さえられては全く動けない。敵意は感じられないが、喉元に剣の切っ先を据えられる。
「セルザス様。すみませんが少し大人しくしていてください。御無礼をお許しを」
自分の無力さと、苛立ちに、歯噛みしながら叫んだ。
フェルは、セルザスと机を押しのけながら迫りくる兵を交互に見やりながら、不安な面持ちで1歩また1歩と後ずさっていく。背中に壁が当たる。はっとして後ろを振り返る。
後ろには窓しかない。
「あ…」
反射的に窓に手をかけ逃げようとしたがそんな抵抗も空しく、あっという間に囲まれ、取り押さえられてしまった。ずしりと重い鉛の手錠をかけられ、観念したようにおとなしくなる。
一瞬の出来事だった。
兵が手錠の鎖をぐいと乱暴に引っ張り、おとなしくついてこい来いということを言外に告げている。セルザスはその光景を茫然と見ていることしかできなかった。守ると決めたのに。無力な自分が恨めしい。フェルと兵達が前を通り過ぎていく。
「セルザス…今までありがとう」
もう会えないだろうと悟ったフェルがセルザスを一瞥して囁くとほぼ同時に、セルザスは拘束から解放され、自由の身になった。
ぼーっとしていたセルザスだったが、すぐに我に返り叫んだ。
「おい!フェル!!さっきの続きだが」
フェルが兵に鎖を引っ張られて部屋を出ようとしている。
「お前の母は」
フェルがこちらを緩慢に振り向く。
「魔界にいる」
最後に見えたフェルの顔は驚愕にいろどられていた。
足音がだんだん遠くなっていく。
再び静まり返った部屋でセルザスが1人ぽつんと立っている。
乱雑に動かされた机、隅の方に飛ばされた椅子が、先ほどの騒動の余韻を残す。
「フェル…」
窓辺の小さな瓶に挿した、水色のミヤコワスレが哀しげに風に揺られた。
ミヤコワスレ
”また逢う日まで”