1話 白と黒の翼を持つ天使
ぴちょん
水飛沫の音を最後に、
さっきまでの騒々しさが嘘のように、辺りは静まり返った。
ぴちょん
かすかな水の音が大きく聞こえる。
大切なものはいつも失ってから気付くものだ。
何もかもが
遅すぎたのだ。
何故
どうして
嗚呼、なんて事をしてしまったのだろうか。
本当は
ほんとうは――…
「あ”ああああああ」
血濡れた剣を手に取り、そして――…
********
「僕が、悪いんです…」
子どもの天使が言い聞かせるように呟く。
僕は悪い子
駄目な子
いけない子
+ + +
雲の上にある、と言う人が多いが
本当は雲の上ではなく別次元にある。
崖の先に、少年が1人佇んでいる。
崖下は反り返っていて、下から登ることは不可能であろう。
もっとも、ここの住人はわざわざ登る必要はない。
何せ翼を持っているのだから。
美しい純白の翼を。
崖からはずいぶん遠くまで見通すことができた。
空の雲は夕焼けのようなオレンジ色やピンク色に染まっており、
雲の切れ間から光が差し込みキラキラと輝きを放つ。
その崖の先に、少年の天使が1人佇んでいた。
6枚羽の天使。
漆黒の左翼に、純白の右翼。
見た目は12・13歳くらいであろうと思われた。
着古された黄土色の服が少し風になびいた。
肩にかからない程度の金髪が、夕暮れのような光にあたって、少しオレンジがかって見える。まるで狼の耳のようで白に近い色をしており、耳の付け根あたりから、耳と同色の毛が胸のあたりまで垂れ、首には赤い首輪のような物を巻いている。
そして紫の左目、緑色の右目にはいずれにも黄色がわずかに含まれており、不思議な色合いをしている。
何より他の神や天使と違うのは翼の色だ。
漆黒の左翼に、純白の右翼。
漆黒の翼は罪の象徴。
毎日、この時間になるとここへ来るのが少年の日課で何をするわけでもなくただ立てって眺めるのだ。憂いを帯びた瞳は審判の党をぼんやり見ているようで、しかしどこかもっと遠くを見ているようにも見える。
感情をどこかに置き忘れてきたような空虚な目をしていた。
柔らかな風が吹き、少年の頬を風が撫でた。
ふぅ、と息を吐き後ろを振り向くと、そこには墓が1つあった。
神や天使は死ぬと消滅するが、墓を作るか作らないかは個人の自由なのだ。
平らな石を置き、十字架を立てただけの質素な造りの墓は少年の母の墓だ。
母は彼が子どものころに死んでしまった。
死んだと、聞いた。
母の姿はもう思い出せない。
ただ、とても優しかった。
いつだって自分の味方でいてくれるのだ。
優しく、包んでくれるのだ。
だがその温もりは、小さい頃に無くしてしまった。
リボンがするっと手から滑り落ちるようにあっけなく。
「お母さん…」
そっと呟いて目を閉じた。
母は何故急に死んだのだろうか。
病気か、事故か…
否。
それは、自分が悪い子だからかもしれない。
漆黒の翼は罪の象徴。
鐘の音が響き渡った。
澄んだ音が幾重にも響いて、ひと際高い塔を中心に波紋のように広がっていく。
少年は、はっと我に返り背後の審判の塔を振り返った。
「もうこんな時間…また、怒られちゃうな…」
一瞬驚いたように目を丸くし、またもとの寂しそうな表情に戻った。
もう一度墓石の方を振り返りそれからふわりと飛び立つ。
右耳の十字架のピアスに埋め込まれた紅いルビーが、光を受けてキラリと光った。