騒動の気配
「それにしても、本当によかったよ」
疲れが滲んだ表情で、アーシャが呟く。リティシアが首をかしげると、彼は苦笑を浮かべた。
「いや、あの魔物に視力があるのかなんて知らなかったから……目眩ましが効いてよかったなあ……って」
「それってつまり――一か八かだったってこと……?」
「うん……」
アーシャが申し訳なさそうに発した肯定の言葉に、リティシアは血の気が引くのを感じた。――よく無事で済んだものだと、心から思う。
「……それはそれとして。ずいぶん魔法陣から遠いところに、魔物が出たものだな」
シリルはアーシャの言葉に少しも動じていない。エリセはまた泣きそうな顔をしているが。
「それは、あたしも思ったわ」
話題をそらすかのように、リティシアはシリルの言葉に同意した。
「――ちょっと、待って」
立ち直ったらしいエリセが、魔法陣へと近づいていく。
「ここを見れば、分かるんだけどね」
彼女は魔法陣に記された文字を指差す。他の3人はそれを覗き込み、エリセの言葉を待った。
「この文字を魔法陣に書き加えることで、魔法を行使できる範囲が大幅に広がるの。もちろん、その分制御は難しくなるけど…小さな陣で大きな効力を得たいときには、すごく使い勝手がいいんだよ」
なるべく陣を小さくして、目立たないようにしたかったのだろう―――というようなことを言いつつ、エリセはリティシアたちを振り返る。
「……なるほどね」
アーシャが溜め息混じりに呟いて、空を仰いだ。何故探していたかはさておき、この魔法陣を見つけるのに彼らは相当苦労したのだろう。
「魔法陣は見つかったけど……召喚者は――」
「そうよ、召喚者!」
彼の言葉に、リティシアは思わず叫ぶ。今の今まで忘れていたというのも間抜けな話だが、召喚者を捕まえないと根本的な解決には至らない。隣にいたアーシャは、いきなりの大声に耳を押さえていた。
「びっくりした……。うーん、俺が探してから戻るよ。多分、魔法の行使中じゃないから見つけるのは難しいけど、一応ね」
確かに見つかる可能性が低いとはいえ、探さずに放っておくのも気がひける。
「シリルは先に帰ってて。あんまり長い時間留守じゃあ、アリスたちが拗ねちゃうからね……」
また知らない名前が出てきたが、リティシアは聞き流すことにした。
多分、その人物には会うこともないだろうと思ったからだ。魔法陣は消えた。ならば、もう危険もないはずだ。
「確かにそうだが、いいのか?」
「んー。俺が探した方が、効率いいでしょ?」
それもそうだな、とシリルが頷く。ということは、アーシャは探知の魔法にでも優れているのだろうか。そう考えを巡らせて、リティシアはエリセと顔を見合わせる。すると、エリセも怪訝そうに首を傾げた。
「……それとさ。もしかしたらこの子たちは、事件のこと知らないんじゃないのかな。さっきも驚いてたみたいだし」
事件?
その言葉にリティシアはアーシャを見やり、先ほどのエリセの言葉を思い出す。彼女も、事件がどうこうと言っていた。今回のことがそうだと言うなら、リティシアは確かに先ほど知ったばかりなのだが。
「そうだな。もしかすると……」
シリルは一旦言葉を切り、髪と同じく真っ黒な目を細める。リティシアがその言葉の続きを促そうとした瞬間――この場に似つかわしくないような、可憐な声が響いた。
「あっ、いた!」
リティシアは反射的に、声のした方向へと目を向ける。そこには、声の主と思われる少女と―――彼女にそっくりな少年が立っていた。
何故か、怒ったような顔で。
「アーシャ、シリル! 探したんだからねっ!」
びしり、という効果音が聞こえそうな勢いで、少女はシリルを指差した。
「……人のことを指で差さないんだよ」
アーシャが苦笑して、言い含めるように少女に話し掛ける。
「ワタシたち、すっごく退屈だったんだからねっ!」
しかし、少女は言うことを聞く様子はない。
「そうだよ、すぐだって言うからボクらだって留守番引き受けたのに」
少年も口を開き、少女に賛同する。少女より少し低いが、やはりよく似た声だ。
「アリス、まず手を下げろ。それから、暇だって威張るのはよせ。……魔物が出たんだ。そうでなければ一度は家に戻るつもりだった」
シリルはどこか気だるげな様子で、よく似た二人にそう告げる。
「え! またなの?」
少女は驚いたように声を上げ、シリルへと近寄る。少女の靴が、こつんと控えめな音を立てた。
また、とは。何やら不穏な言葉だ。
「ああ、そうだ。――アーシャ、もう行け。見つかるものも見つからなくなる」
「ん、そうだね……シリル、じゃあ後は任せたよ」
シリルの言葉にアーシャは苦笑いを返し、来た道を戻っていく。アーシャが完全に見えなくなった頃、少年の方が口を開いた。
「……それで、誰? そこの人たち」
その緑の目は、間違いなくリティシアたちを見ていた。怪訝そうだが、好奇心の混じった表情をしている。
「……こっちの台詞よ」
苦笑と共にようやくそれだけを口にすると、リティシアは息を吐いて肩を落とした。
あまりに激動的な、人間界初日。ようやく一段落ついたと思ったのだが。
アーシャやシリルの言っていたことや、目の前の子どもたちの反応を鑑みると、どうやらそうでもないらしい。
「……何かもう、疲れたわ……」
彼女はため息混じりに言葉を吐き出す。
どうやら、とんでもないときに人間界に来てしまったらしい、と思考を巡らせて。