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紅玉の姫君  作者: 神奈保 時雨
第一章
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旅立ち

 朝食を取り終えたリティシアは必要最低限の荷物を持って、住み慣れた城の玄関に立っていた。今日ここを出れば、しばらく我が家を見ることもない。

彼女はかなり長く人間界に留まるつもりだった。しかし、700年近く生きているリティシアにとっては、それさえほんのわずかな時でしかないのだが。

 扉に向かって立っている彼女の後ろには、穏やかな微笑みを浮かべた母と、どこか寂しそうな父がいる。


「リティシア、最初はどこへ行くつもり?」


 ユリアの言葉に、彼女は振り向かないまま答えた。


「そうね、最初はリンドールの王都に行こうと思っているの。……母さまの生まれ故郷だもの」


 そうなの、と相槌を打つ母と、だんまりを決め込んだ父の方へ、リティシアは振り返った。青と赤の目が、それぞれ自分を見つめている。


「……そろそろ、行くわね」


そう告げると、ユリアはただ頷き――それまで黙っていたアンゼルムが、唐突に口を開いた。


「――リティシア。……気をつけて、行って来るんだぞ」

リティシアは1度、驚いたように瞬きをし――ふっと笑みをこぼした。


「……ええ。父さま、母さま、行ってきます」


 それだけ言うと、彼女はまるで散歩にでも行くような気軽さで、扉の外へと出て行った。ぱたん、と乾いた音がして扉が閉まる。


「……行っちゃったわねえ」


 ユリアは溜め息混じりに呟くが、隣の夫から返事はない。彼女はアンゼルムに目をやり、今度は苦笑を浮かべた。


「ちょっと……貴方、目が赤いわよ。まさか泣いてるんじゃないでしょうね?」

「な……泣いてなどいない。目が赤いのは元からだ、元から」


 アンゼルムはむっとした顔で、苦し紛れの反論をする。しかし、彼はすぐに表情を物憂げなものに変えた。やはり、娘としばらく会えないことが寂しいのだろう。


「しかしユリアに似て、気が強い娘になったものだな」

「あら、貴方はそこが好きだって言ってたじゃない。……まあ、私に似たのは認めるわよ」


 彼女は悪戯っぽい笑顔――先ほどリティシアが浮かべていたような――を浮かべ、玄関の扉を見つめた。



「こうなると思っていたもの。……あの子が人間界に行きたいと、初めて言ったときからね」







 リンドールは、人間界きっての大国だ。

 800年ほど前に、世界で唯一の大陸クルアールを――正確に言えば、その中で人間の住んでいるところのみだが――統一した。今は大陸から離れた島々にある国々を虎視眈々と狙っている。

 そんなリンドールの王都、ミリュキア。

 その路地裏に大量に積まれた木箱の影が、ほんのわずかに揺らめいた。人気のない路地裏で、その現象を見ているものは1人もいない。


 そのうちに段々と揺らめきは大きくなり――ついに、影から黒が溢れ出した。それに紛れて、ひとつの人影が飛び出してくる。その人影が音もなく路地に降り立つとともに、溶け出した黒はただの影へと立ち返った。


「――成功、かしら?」


 肩にかかった髪を後ろへ払い、リティシアは呟いた。その真紅の目で辺りを見回し、誰にも目撃されていないことを確認する。


「ここがリンドール……」

 ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれることなく消えていく。

 人間界へ「出てくる」のに、あえて人気のない場所を選んだ彼女だったが、これではいまいち――人間界へ来たという実感が沸かない。彼女はしばし考え、ひとつの結論を出した。


「……大通りに出るとしましょう」


 独り言を口にして、彼女は一瞬の迷いもなく方向を決めた。土地勘も何もないリティシアだったが、とりあえず歩いていればどこかの通りには出るだろうと、気楽なことを考えていた。彼女の行き当たりばったりな行動は生来のものである。


 こつこつと、リティシアの靴音だけが路地に響く。空は快晴だというのに、路地裏は狭くじめじめとしていて、日光が少しも入ってこない。早く通りに出たいものだと考えながら、しばらく歩いたところで、彼女の耳は何かの音を拾った。



 魔族や天使は人間に比べ頑丈で、身体能力が優れている。

 聴覚も例外ではない。人間にとってはかすかな音でも、リティシアには簡単に聞き分けられるのだ。彼女は耳を澄ませ――これは雑踏の音ではない、と判断した。

 大通りが近いわけではなさそうだが、人がいるようだ。リティシアの耳には、それは会話のように聞こえる。


(……行ってみようかしらね)


 彼女は足を速め、音源を辿った。リティシアが出てきた路地裏より、さらに汚い路地。そこが音源だった。曲がり角のところで、リティシアは煉瓦でできた壁に身をひそめる。

 会話をしている人々をそっと観察すると、1人の少女が4、5人の男たちに囲まれているのが見えた。

 ……何やら、不穏な空気だ。


 リティシアからは少女の顔は見えない。しかし、長い金髪をふたつに分けて編んでいて、顔をうつむけているのは認識できた。なんとも、気の弱そうな女の子である。ここまで近くに来ると、会話の内容も簡単に聞き取ることができた。リティシアは向こうに気付かれないように息を潜め、聞き耳を立てる。

「困ります……」


 少女の控えめな声。困り果てたようなその声は、周りを囲んでいる男たちにかき消された。


「何でだよ、姉ちゃん魔法使いなんだろ?困るのはこっちだぜ」

「そうそう、ちょっと治療してくれるだけでいいんだって」


 魔法使い、という単語に反応して、リティシアは食い入るように少女を見つめた。彼女は魔力を持っているのか、と。

 しかし、後姿では外見さえほとんど分からない。もう少し会話を聞いてみようかと思った矢先、彼らの言葉は激しさを増した。


「ぶつかってきたのはそっちだろ?まさか治せないなんて言わないよな?」

「違うじゃないですかっ、そっちが――」

 少女は反論を試みるが、男たちは聞く耳を持たない。周りを取り囲んだまま、少女を責め立てる。

(……何よあれ、感じ悪い)


 どうやらあの男たちは、怪我――多分存在しない怪我を理由に、彼女に文句をつけているようだ。

 意図は不明だが。

 脅しにしては、要求しているものは治癒魔法。金銭の類ではない。彼女には彼らの目的が、さっぱり分からなかった。

 しかし男たちのその態度は、裏路地にうんざりしていたリティシアをさらに苛立たせるのには充分だった。さらにその苛立ちは、段々と怒りへと変わっていく。


(大体、人間との記念すべき最初の出会いがこんなのだなんて、どういうことよ。……いらいらするわね)


 この場面に遭遇してしまった直接的な原因は、リティシアがこちらに歩いてきたことだ。しかしそんなことはすっかり失念してしまった彼女の怒りは、すでにあの男たちに向かっている。さらに顔を下に向けてしまった少女の腕を、1人の男が取ろうとしたところで――その怒りが爆発した。

リティシアは角から飛び出し、あえて足音を立てて彼らに近寄る。

 男たちがリティシアに気付いたころには、既に男と少女の間に割り込んでいた。彼女は棘のある口調で、男たちに噛み付く。


「……何よ、黙って聞いてれば。嫌がる女の子を囲んで散々文句を言うのが貴方たちの礼儀なの?」


 いきなり現れてそう言い放ったリティシアに、男たちは一瞬固まったが――すぐに罵声の大合唱が始まった。

 リティシアは耳はいいものの、何人もの人間の言葉を聞き分けることはできない。そこで彼女は彼らを一旦無視し、自分の後ろにいる少女を振り返った。優しげな顔立ちの少女は、空色の瞳でリティシアを見つめている。きょとんとしている彼女に目を向け、リティシアは早口で話しかけた。


「貴女、こいつらと何かあったの?」

「え、えっと……この辺を歩いていたら、この人たちのうちの1人にぶつかられて」


 少女は戸惑いつつも、それに答えを返した。


「それで絡まれたんですけど、さすがに魔法で吹き飛ばしてしまうわけにもいかないので……話してわかってくれればと」


 リティシアなら間違いなく、ここまで我慢できないだろう。彼女は生来気まぐれな性格だし、自分の得にならないいざこざは嫌いだ。それにそこそこ短気である。しかし、大人しく優しそうな少女は、怒ることも実力行使に出ることもできなかったらしい。


「……そう」

 リティシアは再び男たちの方を向く。

「時と場合によっては、賢い選択だわ。……どうやら、それは通用しない相手だったみたいだけれど」


 その言葉がさらに気に障ったらしい。彼らの中でいちばん背の高い男が、彼女に向かって声を張り上げた。


「何なんだよ、いきなり割って入って? お前、正義の味方かなんかのつもりかぁ!?」


「…笑わせないでちょうだい」

 リティシアは赤い目で男を真っ直ぐ見つめ、それをせせら笑う。


 強く射抜くような真紅の視線に、男たちはたじろいだ。それには構わずに、彼女はさらに笑みを深くする。


「あたしが、気に入らないだけよ。文句があるのならお相手するけど?」


 挑発とも取れる発言。

 それに、背の高い男が反応した。何やら叫びながら、右の拳を大振りする。しかし、怒りに任せた隙だらけの攻撃が当たるはずもない。リティシアは難なくそれを避けると同時に、すらりとした右足を伸ばし――それは見事、相手の鳩尾を捉えた。


 女性とはいえ、魔族の力はけして弱くない。案の定、派手な音を立てて男が倒れこむ。しかし、残りの男たちは誰ひとりとして、倒れた仲間に近寄ろうとしなかった。

 急なできごとに動けないのか、リティシアを警戒しているのか。

 ついでにリティシアの後ろの少女も、あまりのことに動けなくなっていたのだが――うずくまる男を見下ろしているリティシアはそれに気付かない。


「……安い挑発に乗るものねぇ」


 彼女は冷酷な口調で言い捨てると、固まっている男たちに目をやった。後ずさる彼らに、リティシアは追い討ちをかける。


「まだ、何か?」


 先ほどまでより、ずっと強い口調で。男たちは捨て台詞さえ残さず、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。リティシアに蹴飛ばされた男も、よろけながらも逃げていった。



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