エーデルフェルト
この世界には3つの種族が存在する。
地上に住まう人間、遥か高く、空に近い山々に住まう天使、そして――リティシアたちのように、鬱蒼とした森の奥に住んでいる魔族。3つの種族はそれぞれまとまって住んでいる。
そのうち魔族は、ある吸血鬼の一族が王族として、ひとつに纏め上げていた。その王族の名は、エーデルフェルト家。
「エーデルフェルト、エーデルフェルトって、王族だから何よ?リティシアは好きなことを好きなだけやれって、父さまよく言ってたじゃないの!」
今、王の座に就いているのはリティシアの父であるアンゼルム。
つまりリティシアは魔界の王女なのだが――
「今までのこととこれとは違うんだ、一人娘を知らない土地に1人で行かせるなんて……」
「ちょっと、落ち着きなさいよ、二人とも」
彼女は今、人間界に行きたいと言ってアンゼルムを困らせていた。
今現在、種族間での関わりはまったくといっていいほどなく、その点ではリティシアの願望はとんでもないものだと言える。しかし、人間界に行く術がないわけではない。
そして、リティシアがそう望むのには理由があった。
「それに、まったく知らないところってわけじゃないでしょう?」
リティシアはしばらくむっとしていたが、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
それとともに放たれた言葉を聞いて、アンゼルムは逆に、眉間に皺を寄せる。彼女がこういう表情をするときは、必ずと言っていいほど何か企んでいるのだ。
「父さまだって昔、人間界に行っていたのでしょう?しかも、お祖父さまの反対を押し切って」
そう、第一の理由は、自らの父も人間界に出向いたことがあるということ。彼もまたリティシアと同じように親の反対を押し切り、人間界行きの許可を勝ち取ったという。
だからこそ、アンゼルムは人間界を好きだと言っているのだ。それはリティシアも知っていた。そして、それほどまでに父が行きたがった世界を一目見てみたいと、彼女は思っていたのである。
しかし、アンゼルムが引き下がる訳もない。彼は人間界を好いている以上に、一人娘を溺愛している。単身旅にやるなどもってのほかだ。彼は娘に負けまいと口を開く。
「お前、何百年前の話だと思っているんだ。大体あのころはまだ国交があってだな……」
「あたしは別に悪いことだとは思わないわよ」
まったく聞いていない。
アンゼルムはひそかに溜め息をついた。
「だって、父さまは人間界に行ったから母さまに出会えたのでしょう?だからあたしが生まれたのよ。とっても――ロマンチックじゃない」
そんな言葉で締めくくり、リティシアは両手を組み合わせる。
「リティシア、いつからそんな女の子らしいことを言うようになったんだ……?」
「あら、失礼ね。あたしはいつだって女の子らしいわよ」
ふたつめにして最大の理由。
それは、先ほどリティシアが言っていたように、ユリアの生まれが人間界――つまり、彼女が人間だったからだ。アンゼルムは人間界でユリアに一目惚れをし、また彼女もアンゼルムに惹かれ――二人は無事結婚した、ということらしいが。
少しおどけてみせたが、母の生まれ故郷を見たいというのは紛れもない事実である。
「でもねえ、リティシア」
黙って父娘の言い合いを聞いていたユリアが、穏やかな口調で娘に語りかけた。
「魔族と違って、人間は全部が全部魔力を持っているわけではないのよ。私がいたころとは、随分変わっているんじゃないかしら」
天使や魔族は、魔の力を生まれ持っている。魔力は魔法という不可思議な術の原動力となり、また、それを持つものの老化を極めて遅らせるのだ。
リティシアも外見は17歳ほどにしか見えないが、実際は先日680を超えたばかりだ。人間にも魔法使いと呼ばれる、魔力を持った人間がいるという。
ユリアはそんな人間の1人だった。そして魔法使いから生まれた人間も魔力を持つ。しかしそうした存在は、ほかの種族に比べれば、ほんの一握りだ。
ユリアが人間界にいたのはリティシアが生まれる前のことだから、既に700年以上の時が過ぎている。そのころとまったく同じ世界だとは限らないだろう。
しかし、リティシアはそれを意に介さなかった。
「住んでる人たちが変わっても、文化はそうそう変わったりしないわよ」
どうやら、彼女は譲る気などまったくないようだ。それを悟ったユリアはゆっくり息を吐き、アンゼルムへと目を向けた。
「……アンゼルム。行かせてあげたらどうかしら?きっとこの子、人間界へ行くまで言い続けるわよ」
「ユリア……」
思ってもみない妻の言葉に、アンゼルムは目を見開いた。
「小さいころにした、貴方との約束をずっと覚えていたのよ、この子」
確かにリティシアがまだ子どもだったころ、「人間界へ行きたい」と言った彼女に、「大人になったらな」と言ったのはアンゼルムだ。彼はまさか本気だとは思っていなかった。しかし、娘の方はそれを本気にした。
それで今現在、彼女は「1度許可をもらった」と言い張っている。実際は彼女が強引に、人間界行きの計画を進めたのだが。
そんなリティシアは母の言葉を聞き、今が好機と踏んだようだ。テーブルへと身を乗り出し、最後のひと押しとばかりに言葉を並べ立てる。
「ねえ、あたし、父さまたちの縁の地に行ってみたいのよ。いいでしょう、お願いだから」
それから程なくして――アンゼルムは、ユリアとリティシアの言葉の前に陥落した。
その瞬間、リティシアが両の拳を空中へと突き上げたのは、項垂れていたアンゼルムには見えなかったのだが。




