決意を新たに
アーシャが天使だと判明した日から、3日が経った。
「……どうしたものかしら」
リティシアはふと、ひとりごちる。特にやることもない昼下がり。彼女はひとり、自室の寝台に寝転がっていた。
結局今回も、証拠らしい証拠は見つからなかったらしい。調べ直しに行ったシリルはそう言っていた。
早く事件を解決したくとも、状況がそれを許してはくれない。それがリティシアのやる気を殺いでいるのは確実である。
「こんな事件、早く終わってくれればいいのに……」
受け手のいない言葉は、静かな空間に消えていく。
そのとき、扉が叩かれる音が響いた。軽やかな速さで、2回。
「……はい」
リティシアは起き上がり、扉を見つめた。
「リティシア? お茶淹れようと思うんだけど、リティシアも飲む?」
聞こえてきた柔らかい声に、心臓が跳ねる。
「えぇと……そうね。飲もうかしら」
リティシアは言葉を探すように目を彷徨わせる。そんな様子は、ドアの向こうにいるアーシャからは見えていないのだが。それは幾分有り難かった。
「分かった。じゃあ、降りてきてね」
アーシャはそれにまた柔らかな調子で返し、扉の前から遠ざかっていく。
――気まずい。
彼が階段を降りていく音を聞きながら、リティシアは息をついた。気まずいとは言っても、リティシアが一方的にそう思っているだけではあるが。
(――アーシャは何も知らないのだもの。当然だわ)
リティシアが魔族だということを、彼は知らない。知らないままでいいのだ、とリティシアは自分に言い聞かせる。その方が、自分にも彼にもいいのだと。
現段階で自分の正体が明らかになることは、リティシアに取って大きな痛手だ。
アーシャに取っても、魔族と関わりを持つことは痛手だということは分かりきっている。
だから彼と関わるのは、『人間』のリティシアでいい。その気持ちそのものに嘘はないはずだと、リティシアは部屋から出ながら思案する。
――しかし、果たしてそれだけだろうか。
怖がっているのもまた事実ではないのか、とリティシアは自分に問う。
アーシャは誰にでも優しい。しかし、彼は天使だ。天使は魔族を嫌う。リティシアが魔族だと知れたら、彼はどんな反応をするのだろう。ふと、そんなことを考えるときがあるのだ。
(……馬鹿みたいね。どう思われようと関係ないじゃない)
リティシアは階段を下りる速度を落とす。階段は彼女が進む度に小さく軋んだ。
――……本当に関係ないと思うのか。
彼女は再び、自分に問うた。最近、こんなことを考えてばかりだ。
これでいいと思うたび、決意を新たにするたび、罪悪感ばかりが募る。正体を隠す明確な理由ができたことで、自分が嘘をついているという事実が浮き彫りにされた、そんな気分だった。
階段を力なく下り、リティシアは居間へと入る。
「あ、リティシア。そろそろお湯が沸くから、待っててね」
同時に台所から声が掛かり、リティシアは頷いてから微笑んだ。それからふと、居間に目を向ける。テーブルは、アーシャとリティシアの席以外は既に埋まっていた。どうやら皆まとめてお茶の時間らしい。
「リティシア、何か考え事?何だか難しい顔してる……」
彼女が席に着くと同時に、エリセが首を傾げた。
「ああ、いえ。何でもないの」
リティシアが小さく首を振ってみせると、エリセは怪訝な顔をしつつも頷いた。リティシアはそれから台所へと―――台所に立っているアーシャへと目を向けた。
彼女の頭の中には、やはり先ほどと同じ考えが回っている。そうして、リティシアは何度目かの決意をした。魔族であることは黙っていよう、と。
しばらくしてアーシャが運んできた紅茶は、全員の好みにぴたりと合うものだった。
アーシャは皆の様々な好みをしっかりと記憶している。ここ数日で、リティシアが気づいたことだった。彼は人への気配りが自然にできている人なのだろう。
「……紅茶、美味しい」
リティシアが微笑んで言った言葉に、仲間たちも同意する。
「そう? よかった。嬉しいな」
温もりのある笑顔を浮かべるアーシャは、本当に嬉しそうだ。人を喜ばせるのが好きだということも、彼について最近分かったことのひとつだった。
リティシアはそれに笑みを返しつつも、胸の辺りが痛むのを感じた。しかし、エリセがこちらを心配そうに見ていることに気づき、何でもない振りをしてみせる。
リティシアの悩みの理由など、ここにいる誰も知る由もない。悩んでいるのだと明確に気づいている者も、まだいないだろう。
リティシアはそのまま、隠し通してしまいたかった。 知られれば、いつかは自分の秘密さえも言わなければならなくなるかもしれない。しかし、いつまで隠せるかは分からない。
特にエリセは人の機微に鋭い。現に、リティシアが考え事をしているということには気づいているのだ。その考え事がどういった類いのものか、いつか気づかれたとしても何ら不思議はない。
「今日は、何もなければいいね」
アーシャが紅茶を飲みながら発した言葉に、リティシアは考え事から現実に引き戻される。
「……そうだな」
シリルが仏頂面で同意すると、双子とエリセもそれに続いた。
「……そうね。何もなければいいわ」
リティシアは頷きつつも、心中複雑だった。
ここは母の故郷だ。平和を願っていないわけではない。しかし、今は何の証拠もない。新しい事件が起こらないことはすなわち、事件の真相に迫ることもできないということだ。
「……だけど、このままじゃいつまで経っても解決しないね……」
アーシャの笑みが切なそうなものに変わる。それと同時に、仲間たちの全員がアーシャに注目した。その力のない笑みは、彼の色彩を一層儚げに見せている。双子はそれを目にして、俯いてしまう。
「確かに……そう、なんだよね」
エリセも複雑そうに呟き、目線を下に向けた。リティシアは皆の様子に、さらに複雑な気分になってしまう。
(――ちょっと、待って)
ふと、リティシアは一旦思考を止めた。自分は、今何と思っただろう。
仲間たちの顔を見て、複雑な思いを抱いたのだ。それは何故だろう。
早く事件を解決して、魔族への疑いを晴らすこと。それがリティシアの目的のはずだ。それ以外にこれといった思い入れはないはずなのに。 正体を明かさないとさえ決めたのに。リティシアは、自分の気持ちの明らかな変化に戸惑っていた。
「リティシア……?」
エリセがリティシアにそっと声を掛ける。黙り込んでいる彼女を気遣ったのだろうか。未だ戸惑うリティシアは、ただ首を振った。
「……理想は、何の犠牲もなく事件が解決することだ」
だが、それは難しい――とシリルは続けた。
「難しいけど……」
「そうなってほしいよ……」
アリスとクリスが、俯いたままで呟く。それきり、重苦しい沈黙が続いた。アーシャの顔からも、笑みは完全に消えてしまっている。
「……腐っていても仕方がない」
それを破ったのは、意外にもシリルだった。皆の視線が、今度はシリルに集まる。
「オレたちにできることは、王都を守り、なるべく早く事件を解決に導くことだけだ」
それ以上でも、それ以下でもないと、彼の漆黒の目が告げていた。
「確かに理想を叶えるのは難しい。しかし、それに近づけることはできる。オレたちの手で。王都が脅かされないよう、全力で守ろう」
シリルの声には、迷いがなかった。
「――……そうだね」
しばらくして、アーシャがふと口を開く。
「シリルの、言う通りだ」
彼の顔には、柔らかい笑みが戻っていた。
「うん、ワタシもシリルに賛成っ」
「悩んでる時間がもったいないもんな!」
双子も顔を上げ、アーシャにつられたように笑顔になる。
「……わたしたちの手で、か。……うん、そうしよう。できるよ、きっと」
エリセもそれにしっかりと頷く。
「……そうよね」
リティシアも、ぽつりと呟いた。自分の今の心境がどうあれ、目標は当初から変わっていない。この事件を解決すること。その目的は皆と同じものでもある。
それならば、悩むのは後だ。
「解決できるのはあたしたちだけだもの。だったら突っ走るだけよ」
決意を吐き出せば、全員がそれに頷く。
「じゃあ、ワタシたち頑張って魔法の訓練しなきゃっ」
「そうだね。シリルっ、付き合ってよ」
すっかり元気になった双子が、椅子から飛び降りる。
「……それはもちろん構わないが、椅子から立つときはもう少し静かに立て」
呆れたような調子で微かに口角を持ち上げつつ、シリルも立ち上がった。しかし双子が素直に聞くわけもなく、彼らは元気に玄関へと跳び跳ねていく。
「あれっ……」
扉を開けたクリスが声を上げた。
「お客さんだっ」
アリスも目を瞬かせる。
扉のすぐ前で、一人の少年が固まっていた。扉を開けようとしていたのだろうか、右手を前に出しかけている。
「どうした?」
双子に追いついたシリルが、少年に声を掛ける。
「あ、えと、魔法使いさまっ……あの」
「……魔物か?」
どこか泣きそうな少年に、シリルがぽつりと尋ねた。
リティシアはそれにシリルと少年を見る。双子を始めとした他の仲間たちも、二人に注目していた。シリルの言葉に、少年は弱々しく頷く。恐怖を堪えようとしているのか唇を噛んだ少年に、シリルは屈んで目線を合わせる。
「案内できるか?」
労るように少年の肩に触れながらも、シリルはすぐに言葉を紡いだ。少年が頷くのを見て、彼は再び立ち上がる。
リティシアはアーシャやエリセと共に、ドアの方へと近寄った。
「……行くぞ」
シリルの言葉に、全員が了承の旨を返した。




