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嘘をつかない人形は、最後に人間になった

掲載日:2026/11/06


 人間になりたい。


 少年が初めてそう願ったのは、自分の顔に傷がついても、血が一滴も流れなかった日のことだった。


 誰かに殴られたわけではない。転んで石畳に頬をぶつけただけだ。けれども、皮膚が裂けるはずの場所には細かな木屑が浮かび、頬の表面には乾いた亀裂が走っていた。


 痛みはない。


 涙も出ない。


 周囲の子供たちが悲鳴を上げて逃げていくなか、少年は自分の頬を指でなぞり、そこからこぼれ落ちる木屑を不思議そうに見つめていた。


「……僕って、やっぱり人間じゃないんだね」


 その言葉を聞いた父親は、何も答えなかった。


 ただ、少年を抱き上げると、傷ついた頬にそっと唇を寄せた。


「お前は私の息子だ。それだけでは足りないか?」


「……ううん」


 少年は首を振った。


 けれども、その日の夜。


 父親が寝静まった工房の片隅で、少年は小さな鏡を覗き込み、何度も同じ願いを口にした。


「人間になりたいなぁ……」


 鏡に映っているのは、美しい琥珀色の瞳と、柔らかな金色の髪を持つ少年だった。


 丁寧に作られた顔立ちは、どこから見ても人間の子供そのものだ。


 ただし、その胸の奥に心臓はない。


 血管の代わりに細い魔銀の糸が張り巡らされ、骨の代わりに祝福された白樺の木が使われている。


 そして何より、少年には人間と決定的に違うところがあった。


 嘘をつくと、顔に木目が浮かぶのだ。


 だから少年は、嘘をつくことが嫌いだった。


 少なくとも、この頃までは。



     ◆ ◆ ◆



 アルディナ王国の王都には、貴族だけが暮らす白壁の街区と、職人や商人がひしめく灰色の街区があった。


 華やかな馬車が行き交う大通りから三本ほど裏路地に入った場所に、小さな人形工房がある。


 看板には、色あせた金文字で『フェンロー人形工房』と記されていた。


 その工房に暮らしているのが、ティゼルという名の少年だった。


 見た目は十四歳ほど。金色の髪に琥珀色の瞳を持ち、白い肌には人間と見分けがつかないほど精巧な塗装が施されている。


 生まれてから七年が経っているものの、その姿は一度も成長していない。


 ティゼルを作ったのは、アダルク・フェンローという老人だった。


 かつて王宮で働いていた宮廷人形師であり、現在は貴族の怒りを買って職を追われた、五十八歳の職人である。


 白髪交じりの髪を後ろで束ね、鼻の上には古びた眼鏡を載せている。左手の指が二本欠けているのは、宮廷を追放された際に受けた罰の名残だった。


 頑固で口数が少なく、お世辞も言えない男だったが、ティゼルに対してだけは驚くほど甘かった。


「父さん! 見て見て! 今日はパン屋のおばさんに、お手伝いのご褒美をもらったんだ!」


 朝の工房に飛び込んできたティゼルは、小さな紙袋を掲げて得意げに笑った。


 中には蜂蜜を塗った焼き菓子が二つ入っている。


 アダルクは作業台から顔を上げると、眼鏡を指先で押し上げた。


「また店の荷物を運んでやったのか。お前は力加減を間違えやすいんだから、あまり重いものを持つなと言っただろう」


「大丈夫だよ! 今日は小麦粉を三袋運んだだけだもん!」


「三袋だと? 一袋でも普通の子供には重すぎるというのに……まったく、お前というやつは」


 呆れた声を出しながらも、アダルクの口元には微かな笑みが浮かんでいた。


 ティゼルは袋を開き、焼き菓子を一つ取り出して父親に差し出した。


「はい、父さんの分!」


「お前がもらったものだろう。自分で食べなさい」


「僕は食べても味がわからないから。それに、おばさんが父さんにも食べさせてあげてって」


 その言葉を聞いたアダルクは、ほんの一瞬だけ手を止めた。


 ティゼルは食事ができる。


 口に入れたものを体内の魔法装置で分解することも可能だった。


 けれども、味を感じることはできない。


 温かい食事も、冷たい水も、甘い菓子も、彼にとっては口の中を通り過ぎるだけのものだった。


「……そうか。ならば遠慮なくいただこう」


 アダルクが菓子を受け取ると、ティゼルは満足そうに笑った。


 そして何気なく、自分の分の菓子を一口かじる。


「どうだ?」


「うん! すっごくおいしい!」


 その瞬間。


 ぴきっ。


 ティゼルの鼻筋に、細い木目が浮かび上がった。


「あっ」


 少年は慌てて鼻を押さえた。


 アダルクは深いため息をつく。


「……また嘘をついたな」


「だ、だって、父さんが聞くから……」


「味がわからないなら、わからないと言えばいい。わざわざ私に気を遣う必要はないんだぞ」


「でも……」


 ティゼルは俯き、かじりかけの菓子を見つめた。


「父さんが食べてるとき、すごく幸せそうだったから。僕も同じ気持ちだって言いたかったんだ」


 アダルクの表情が静かに曇った。


 少年の鼻に浮いた木目は、しばらくすれば消える。


 しかし、それが消えるまでの間、ティゼルは自分が人間ではないことを嫌でも思い知らされるのだった。


「……ティゼル」


「ねえ、父さん」


「なんだ?」


「僕、いつか本物の人間になれるかな?」


 アダルクは答えなかった。


 ティゼルがこの質問をするのは、初めてではなかったからだ。


 少年は父親の沈黙を見つめながら、少し困ったように笑った。


「人間になったら、父さんと同じものを食べて、おいしいって言ってみたいんだ。それから、雨が冷たいとか、お風呂が温かいとか、そういうことも知りたい」


「…………」


「あとね、もっと大きくなりたい。父さんはどんどん年を取っていくのに、僕だけずっと同じ姿なんて、なんだか変でしょう?」


 無邪気な願いだった。


 けれども、その言葉はアダルクの胸を深く刺した。


 老人は長い沈黙のあと、少年の頭に手を置いた。


「……人間になる方法が、まったくないわけではない」


「えっ!?」


 ティゼルは勢いよく顔を上げた。


「本当!? 父さん、本当に!?」


「ああ。昔、宮廷で働いていた頃に聞いたことがある。肉体を持たない存在に血肉を与える、古い錬金術があるとな」


「じゃあ、それを使えば!」


「簡単な話ではない!」


 思わず声を荒らげたアダルクに、ティゼルはびくりと肩を震わせた。


 老人は自分の失態に気づき、苦しげに目を閉じる。


「……すまない。怒鳴るつもりはなかった。ただ、その術は王家の管理下にあり、使うには莫大な金と許可が必要なのだ。私のような職人では、どうにもならん」


「……そっか」


 少年は少しだけ残念そうに笑った。


 そして、父親を安心させるように胸を張った。


「でも大丈夫! 僕、今のままでも幸せだから!」


 ぴきっ。


 今度は右の頬に、細かな木目が浮かんだ。


 アダルクはその傷を見つめ、何かを言いかけた。


 しかし、結局何も言わず、少年をそっと抱き寄せた。


 その抱擁を受けながら、ティゼルは目を閉じる。


 父親の胸からは、とくん、とくん、と規則正しい音が聞こえていた。


 自分にはない音だった。


 いつか、その音を自分の胸でも聞いてみたい。


 少年は、誰にも聞こえないほど小さな声でそう願った。



     ◆ ◆ ◆



 転機が訪れたのは、それから十二日後のことだった。


 王都では年に一度の豊穣祭が開かれ、普段は貴族の馬車しか通らない大通りにも、平民の立ち入りが許されていた。


 色鮮やかな天幕が並び、焼き菓子の香りが漂い、辻楽師たちが陽気な音楽を奏でている。


 そんな祭りの一角で、ティゼルは不思議な男と出会った。


「おやおや! これは驚いた! なんと素晴らしい少年だ!」


 大げさな声とともに現れたのは、ベルジオ・クレムという中年の男だった。


 四十九歳。赤茶色の髪を後ろに撫でつけ、派手な紫色の上着を着ている。細い目と尖った顎を持ち、王都では『銀幕劇団』の支配人として知られていた。


 もっとも、その正体は、金になると見れば誰にでも愛想よく近づく悪徳興行師だった。


「君! 少しだけ顔を見せてくれないかな?」


「え? 僕?」


「そう、君だよ! いやはや、驚いた! これは人間か? いや、人形か? なんという精巧さだ!」


 ベルジオはティゼルの周囲をぐるりと回り、目を輝かせた。


「素晴らしい! 実に素晴らしい! まるで生きているようだ!」


「……僕、生きてるよ?」


「もちろん! もちろんだとも! いや、失礼した。君ほど見事な魔法人形を、私はこれまで一度も見たことがないものだから!」


 その言葉にティゼルは少しだけ胸を張った。


「父さんが作ってくれたんだ。僕の父さんは、世界一の人形師なんだよ!」


「ほほう! それはぜひお会いしたい! ところで君、少しばかり劇に興味はないかな?」


「劇?」


「そう! 舞台の上で踊り、歌い、たくさんの人を笑顔にするのさ! それに、今夜の特別公演には王宮の方々もいらっしゃる。うまくいけば、君も貴族様のお目に留まるかもしれない!」


「……貴族様?」


 ティゼルの瞳が揺れた。


 ベルジオは、その小さな変化を見逃さなかった。


「おや? 何か気になることでもあるのかな?」


「……王宮には、人形を人間にする魔法があるって聞いたんだ」


 少年がおずおずと告げると、ベルジオは一瞬だけ目を見開いた。


 しかし、すぐに満面の笑みを浮かべる。


「あるとも! もちろんあるとも!」


「本当!?」


「ただし、誰でも使わせてもらえるわけではない。王宮には立派な方が大勢いらっしゃるからね。まずは君という存在を知ってもらわなければならない」


「じゃあ……舞台に出れば、僕も人間になれるかもしれない?」


「可能性は十分にある!」


 ベルジオはティゼルの肩を抱き、親しげに顔を近づけた。


「君が舞台に立てば、きっと大勢の人が驚く。それから君の夢を聞いて、感動するだろう。そうなれば、偉い方々も無視できまい?」


 胸の奥で、魔銀の糸が微かに震えた。


 ティゼルには心臓がない。


 それでも、期待に胸が高鳴るという感覚だけは、はっきりと理解できた。


「……でも、父さんに聞かないと」


「もちろんだとも! ただし、今夜の公演は一度きりだ。君が迷っている間に、ほかの子が役をもらってしまうかもしれないねえ」


「えっ……」


「残念だが、こればかりは仕方がない。夢というものは、いつだって早い者勝ちなのだから!」


 ベルジオはわざとらしく肩をすくめた。


 ティゼルはしばらく考え込んだ末、小さく頷いた。


「……わかった。僕、出てみたい」


「素晴らしい決断だ!」


 ベルジオは嬉しそうに両手を広げた。


「では早速、こちらへ! 今夜の舞台には、君にぴったりの役があるんだ!」


 差し出された手を、ティゼルは握った。


 父親には、あとで説明すればいい。


 きっと驚くけれど、許してくれるはずだ。


 人間になれるかもしれないのだから。


 そう考えた少年は、このとき初めて、自分の意思で父親との約束を破った。


 そして、それがどれほど大きな出来事に繋がるのか、まだ何も知らなかった。



     ◆ ◆ ◆



 銀幕劇団の舞台は、王都でも有数の規模を誇っていた。


 天井からは無数の硝子灯が吊るされ、床には魔法で描かれた花模様が浮かび、舞台袖には色鮮やかな衣装や巨大な舞台装置が並んでいる。


 ティゼルはその光景に圧倒され、しばらく言葉を失っていた。


「すごい……! こんなに綺麗な場所、初めて見た!」


「そうだろう、そうだろう! 今夜は特別なお客様がいらっしゃるからね!」


 ベルジオは満足そうに笑うと、少年に小さな台本を渡した。


「君にお願いしたいのは、ほんの少しの演技だけだ。舞台に出て、お辞儀をして、私の質問に答えてくれればいい」


「質問?」


「ああ。君がどこで生まれ、誰に作られ、どんな夢を持っているのか。それを観客の皆様に聞かせてほしいんだ」


「それなら簡単だよ!」


「それから……」


 ベルジオは声を潜めた。


「昨夜、劇場の裏で荷物を運んでいる職人たちを見たことにしてほしい」


「……見たことに?」


「そう。黒い袋をいくつか運んでいた、とね」


 ティゼルは首を傾げた。


「でも、僕、そんなもの見てないよ?」


「ははは! だから演技なんじゃないか!」


「演技……」


「劇というものは、実際に起きていないことを本当のように見せる仕事だ。君も人間になりたいのなら、少しくらい嘘をつく練習をしておいたほうがいい」


 ベルジオは少年の鼻を軽くつついた。


「人間という生き物はね、君が思っているほど正直ではないのだよ」


「……そうなの?」


「もちろんさ! 誰だって少しくらい嘘をつく。貴族様なんて、一日中嘘をついているようなものだ!」


 大声で笑ったベルジオに、ティゼルもつられて笑った。


 けれども、その笑顔は長く続かなかった。


 舞台の向こうから、甲高い悲鳴が響いたからだ。


「きゃあああっ!?」


 ティゼルが振り向いた瞬間、舞台上方に吊るされていた巨大な装飾が傾いた。


 金色の翼を模した飾りが軋み、支えの鎖が一本ずつ弾け飛んでいく。


 その真下には、淡い青色のドレスを着た少女が立っていた。


 コルテア・エルドミュー。


 十七歳。王国有数の名門であるエルドミュー公爵家の令嬢で、銀色の髪と澄んだ青い瞳を持つ少女だった。


 高貴な身分でありながら平民にも気さくに接することで知られ、今夜は慈善公演の後援者として劇場を訪れていた。


 突然の事故に護衛たちが駆け寄ったものの、間に合わない。


 巨大な装飾が、少女の頭上へ落ちてくる。


「危ないっ!!」


 考えるより早く、ティゼルは走り出していた。


 魔銀の糸が全身に力を伝え、人間の少年には不可能な速度で舞台を駆け抜ける。


 彼はコルテアの身体を抱えると、力いっぱい横へ投げ出した。


 直後。


 轟音とともに、巨大な翼が舞台を打ち砕いた。


 衝撃で木片と硝子が飛び散り、客席から悲鳴が上がる。


「お嬢様!!」


 護衛たちが駆け寄るなか、コルテアは床に倒れたまま、呆然と舞台を見つめていた。


 そこには、巨大な装飾の下敷きになったティゼルの姿があった。


 右腕が肩から折れ、白い木の断面が露出している。


 胸の装甲も割れ、内部の魔銀の糸が数本、火花を散らしていた。


「……あ、あれ……?」


 ティゼルは動かなくなった右腕を見つめ、困ったように笑った。


「……壊れちゃった」


「あなた……!」


 コルテアが駆け寄り、少年の前に膝をつく。


「どうして……! どうして私を助けたのですか!? あなたまで巻き込まれてしまったではありませんか!」


「……だって」


 ティゼルは無事な左手を動かし、少女の顔を指差した。


「綺麗なドレスが、汚れちゃうと思ったから」


「そんなこと……!」


「それに、女の子が怪我するのって、嫌でしょう?」


 少年は笑った。


 痛みを感じない身体だった。


 けれども、動かなくなった腕を見つめる瞳には、確かな恐怖が浮かんでいた。


「……父さん、怒るかなぁ」


 その言葉を聞いたコルテアは、堪えきれなくなったように少年を抱きしめた。


「大丈夫です……! 必ず直してもらいます! 私が責任を持って、あなたを元の姿に戻しますから!」


「……本当?」


「ええ、約束します!」


 温かな涙が、ティゼルの頬に落ちた。


 それがどれほど熱いものなのか、少年にはわからなかった。


 けれども、その涙が自分のために流されたものだということは、はっきりと理解できた。


 だからティゼルは、無事な左腕で少女の背中をそっと抱き返した。



     ◆ ◆ ◆



 事故の翌日。


 ティゼルは王宮の一室で目を覚ました。


 白い天蓋のついた寝台に寝かされ、右腕には新しい部品が取り付けられている。


 そして、その傍らには見知らぬ女性が座っていた。


「お目覚めですね。動作に問題はありませんか?」


 声をかけてきたのは、シアヴェ・ヴェルグリという女性だった。


 三十四歳。王宮に仕える筆頭錬金術師で、金縁の眼鏡と黒い長髪が特徴的な才女である。


 若くして王家の秘術を任されるほどの実力者だったが、研究以外のことには不器用で、貴族社会の権力争いを何より嫌っていた。


 ティゼルは身体を起こし、右腕を動かしてみた。


「……動く! すごい! もう直ったんだ!」


「あなたを作った方の技術が優れていたおかげです。内部構造を調べるだけでも随分と勉強になりました」


 シアヴェは微笑みながら、小さな金属片を見せた。


「ただ、壊れてしまった部分の一部は元に戻せませんでした。こちらは、あなたの胸から取り出した部品です」


「……僕の胸?」


「ええ。大切なものなら、お返しします」


 ティゼルが部品を受け取ろうとした、そのときだった。


「ティゼル!!」


 扉が勢いよく開き、アダルクが飛び込んできた。


 老人は少年の姿を見るなり、その身体を強く抱きしめた。


「馬鹿者っ! どれほど心配したと思っている!! 勝手に出かけた挙げ句、劇場で事故に巻き込まれたと聞かされたときは、心臓が止まるかと思ったぞ!!」


「ご、ごめんなさい、父さん……」


「まったく……! まったく、お前というやつは……!」


 怒鳴っていたはずの声が、次第に震え始めた。


 ティゼルは父親の肩に顔を埋め、小さな声で謝った。


「……人間になれるかもしれないって、言われたんだ」


 アダルクの身体が強張った。


「それで、僕……父さんに内緒で舞台に出ようと思って……」


「……そうか」


「ごめんなさい……」


 老人はしばらく黙っていた。


 やがて大きく息を吐くと、少年の頭を優しく撫でた。


「……生きていてくれれば、それでいい」


 その言葉に、ティゼルは思わず顔を上げた。


「でも、僕は人形だから……」


「関係ない。お前は私の息子だと、何度言わせるつもりだ」


 そのとき、部屋の奥から静かな拍手が聞こえた。


「実に美しい親子愛ですな」


 振り向くと、扉の前に一人の老人が立っていた。


 ロスカルド・ヴィゼク。


 六十三歳。王国の最高裁判長を務める侯爵であり、法と秩序を何より重んじる人物として知られている。


 灰色の髪を短く整え、黒い法衣を纏ったその姿には、長年権力の中枢に身を置いてきた者特有の威圧感があった。


「突然の訪問をお許しください。私も、この少年にぜひお会いしたかったのです」


 ロスカルドはゆっくりと近づくと、ティゼルの前で膝を折った。


「エルドミュー公爵家の御令嬢を救ったのは、君だね?」


「……はい」


「実に立派な行いだ。身分も財産も持たぬ者が、自らを犠牲にして高貴な方を救う。王国が理想とする美徳そのものではないか」


 ティゼルは照れくさそうに笑った。


「……そんなにすごいことじゃないです」


「謙虚なのも結構。ところで、君には夢があると聞いたのだが?」


「……え?」


「人間になりたいのだろう?」


 少年の琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。


 ロスカルドは満足そうに頷いた。


「実はな、コルテア嬢が陛下に直訴なさったのだ。自分の命を救ってくれた少年に、どうか人間として生きる機会を与えてほしいとな」


「……本当に?」


「もちろんだ。そして陛下は、その願いをお認めになった」


 ロスカルドが合図を送ると、シアヴェが小さな硝子箱を取り出した。


 中には、赤い光を放つ宝石が収められている。


「これは《緋硝子》と呼ばれる、極めて希少な錬金術の触媒です」


 シアヴェは慎重に箱を開いた。


「生きた魂と魔力の回路を持つ存在に、一度だけ本物の血肉を与えることができます。あなたの身体を調べたところ、術を受けられる条件は整っていました」


「……それって……」


 ティゼルは震える声で尋ねた。


「僕が……本物の人間になれるってこと?」


「はい」


 シアヴェは、はっきりと頷いた。


「心臓が動き、血が流れ、食事の味を感じることができる身体になります。病気にもなりますし、怪我をすれば痛みも感じるでしょう。もちろん、年齢を重ねることもできます」


 ティゼルは言葉を失った。


 夢だった。


 何度も何度も願い続けてきた、決して叶わないと思っていた夢。


 それが今、目の前に差し出されている。


「……父さん」


 少年が振り向くと、アダルクは複雑な表情でロスカルドを見つめていた。


「……これほどの秘術を、ただの人形に?」


「ただの人形ではありません。公爵令嬢の命を救った英雄ですよ」


「しかし、何の見返りもなく……」


「フェンロー殿。王国は善行を正しく評価する国です。どうか余計な心配はなさらず、お子様の幸福をお考えください」


 ロスカルドの穏やかな言葉に、アダルクは口を閉ざした。


 そして、ティゼルの顔を見た。


 少年は今にも泣き出しそうな顔で、自分を見つめていた。


「……父さん。僕……」


 アダルクは目を閉じた。


 長い沈黙のあと、老人はゆっくりと頷いた。


「……お前が望むなら、私は止めない」


「……本当?」


「ああ。お前の人生は、お前のものだ」


 その瞬間。


 ティゼルは父親に飛びついた。


「ありがとう!! 父さん、大好き!!」


 アダルクは少年を抱きしめた。


 その背後で、ロスカルドが満足そうに微笑んでいることには、誰も気づかなかった。



     ◆ ◆ ◆



 人間になるための儀式は、三日後に行われた。


 王宮の地下に設けられた錬金術室には、巨大な魔法陣が描かれ、その中央に白い寝台が置かれていた。


 ティゼルはそこに横たわり、緊張した面持ちで天井を見つめていた。


 傍らにはアダルクが座り、少年の左手を握っている。


「……怖いか?」


「ちょっとだけ」


「やめたくなったら、いつでも言いなさい」


「ううん。大丈夫」


 ティゼルは父親を見つめ、にっこりと笑った。


「だって、目が覚めたら父さんと同じになれるんでしょう?」


 アダルクは何も答えなかった。


 ただ、少年の手を握る力を少しだけ強めた。


 やがてシアヴェが現れ、魔法陣の中央に《緋硝子》を置いた。


「それでは始めます。術の最中は意識が薄れますが、心配しないでください。あなたの魂そのものには影響を与えません」


「……はい!」


「最後に一つだけ、確認させてください」


 シアヴェは真剣な表情で尋ねた。


「あなたは、人間になりたいと心から願っていますか?」


 ティゼルは迷わず頷いた。


「はい! 僕、人間になりたいです!」


 その言葉に反応するように、魔法陣が赤く輝き始めた。


 光が少年の身体を包み込む。


 木製の指先が淡く透け、その内側から細い血管が浮かび上がった。


 白樺の骨格が音もなく形を変え、魔銀の糸が溶けるように消え、乾いた木の表面が柔らかな肌へと生まれ変わっていく。


「……あ……」


 ティゼルの喉から、小さな声が漏れた。


 胸の奥に、今まで感じたことのない圧迫感が生まれる。


 苦しい。


 息ができない。


 そう思った次の瞬間。


 どくん。


 胸の奥で、何かが大きく跳ねた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 それは、少年が七年間憧れ続けていた音だった。


「……あ……ああ……!」


 ティゼルの目から、透明な雫がこぼれ落ちる。


 熱い。


 頬が濡れる。


 喉が震える。


 胸が痛いほど締めつけられる。


 それなのに、どうしようもなく嬉しかった。


「……父さん……!」


 ティゼルは震える声で父親を呼んだ。


「……僕……心臓が……!」


 アダルクは目を見開いた。


 少年の胸が、呼吸に合わせて上下している。


 頬には赤みが差し、唇は柔らかく震え、握っていた手には確かな温もりがあった。


 老人はその手を両手で包み込み、何度も何度も頷いた。


「……ああ」


 声が震えた。


「……ああ、そうだな……!」


 ティゼルは父親の手を握り返した。


「父さん……! 僕、人間になれたんだ……!」


「……そうだ……!」


 アダルクの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「お前は……本当に……!」


 その先の言葉は続かなかった。


 父と息子は互いを抱きしめ、声を上げて泣いた。


 シアヴェは静かに眼鏡を外し、目元を拭った。


 部屋の入り口では、コルテアが両手で口を押さえながら微笑んでいた。


 誰もが幸せそうだった。


 少なくとも、その瞬間だけは。



     ◆ ◆ ◆



 人間になったティゼルの生活は、驚きと喜びの連続だった。


 最初に食べた焼きたてのパンは、あまりにもおいしくて泣いてしまった。


 蜂蜜を舐めれば舌が甘さに驚き、熱いスープを飲めば思わず飛び上がり、冷たい雨に濡れれば寒くてくしゃみが出た。


 何もかもが新鮮だった。


「父さん! 父さん! このスープ、すごくおいしい!」


「わかったから、もう少しゆっくり食べなさい。喉に詰まらせるぞ」


「でも、こんなにおいしいものがあるなんて知らなかったんだもん!」


「それは昨日も聞いた」


「昨日はパンだったもん! 今日はスープ!」


 アダルクは呆れた顔をしながらも、少年の皿に肉を一切れ追加した。


 ティゼルは嬉しそうに頬張り、今度はその熱さに悲鳴を上げた。


「熱っ! あつつつっ!?」


「だから言っただろう!」


「だって! おいしそうだったから!」


「まったく……!」


 工房には、久しぶりに大きな笑い声が響いていた。


 コルテアも何度か訪ねてきた。


 貴族の令嬢が裏路地の工房を訪れるなど、本来なら考えられないことだったが、彼女はまったく気にしていない様子だった。


「ティゼル! 今日は王都で評判の菓子店から、焼き菓子を持ってまいりました!」


「コルテア様! いらっしゃい!」


「もう! 様はいらないと何度申し上げればよいのですか!」


「だって、貴族様でしょう?」


「あなたは私の命の恩人なのですよ? それに、もうお友達でしょう?」


 コルテアは頬を膨らませた。


 ティゼルは少し照れながら笑う。


「……じゃあ、コルテア」


「はい!」


「ありがとう! すっごく嬉しい!」


 その言葉を聞いた少女は、花が咲くように微笑んだ。


 彼女はティゼルに読み書きを教え、王都の歴史を語り、貴族社会での礼儀作法まで丁寧に教えてくれた。


 そして、ある日の午後。


 コルテアは一枚の書類を持って工房を訪れた。


「ティゼル! これをご覧ください!」


「……なに?」


「王国から正式に発行された、あなたの身分証明書です!」


 ティゼルは差し出された紙を受け取った。


 そこには、金色の印章とともに、彼の名前が記されていた。


 ――ティゼル・フェンロー。


 その下には、生年月日と居住地、そして『人間種』という文字が並んでいる。


「……僕の、名前……」


 ティゼルは何度も何度も、その文字を指でなぞった。


 今までは、人形として所有者の登録簿に載っているだけだった。


 父親の息子であると名乗っても、法の上では物品でしかなかった。


 けれども今は違う。


 自分は人間なのだ。


 正式に名前を持ち、父親の家名を名乗ることを許された。


「……父さん」


 ティゼルは振り向いた。


「……僕、本当に父さんの息子になれたんだね」


 アダルクは書類を見つめ、しばらく言葉を失っていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……ああ」


 老人は、少年の頭を優しく撫でた。


「……だがな、ティゼル」


「うん?」


「お前は、最初から私の息子だったよ」


 ティゼルは目を見開いた。


 そして、くしゃりと顔を歪めた。


「……うん……!」


 涙がこぼれた。


 今度は本物の涙だった。


 コルテアも目元を押さえ、笑いながら泣いていた。


 その夜、三人は小さな食卓を囲み、ささやかな祝宴を開いた。


 アダルクが焼いた肉をティゼルが頬張り、コルテアが持参した葡萄酒を老人に注ぎ、夜更けまで笑い声が絶えることはなかった。


 眠る前、ティゼルは父親に尋ねた。


「ねえ、父さん。今度、一緒に海を見に行かない?」


「海?」


「うん! コルテアが教えてくれたんだ。王都から馬車で三日くらいのところに、すごく綺麗な海があるんだって!」


「……そうか」


「僕、海に入ってみたい! 波が冷たいのか温かいのか、ちゃんと自分で確かめたいんだ!」


 アダルクは少し考え込み、それから静かに微笑んだ。


「……ならば、春になったら行こう」


「本当!?」


「ああ。仕事を片づけて、二人でゆっくり旅をしようじゃないか」


「やったぁ!!」


 ティゼルは歓声を上げ、父親に飛びついた。


 アダルクは笑いながら、その身体を受け止めた。


 少年の胸からは、確かな鼓動が聞こえている。


 温かな身体。


 柔らかな肌。


 生きている証。


 アダルクはその小さな背中を抱きしめながら、静かに目を閉じた。


 この幸福が、いつまでも続いてほしい。


 老人は心から、そう願っていた。


 しかし。


 その願いが叶うことはなかった。



     ◆ ◆ ◆



 幸福が崩れ始めたのは、冬の終わりを告げる雨の日だった。


 ティゼルが買い物から戻る途中、大通りで大勢の衛兵たちが何かを運んでいるのを目撃した。


 荷馬車には、縄で縛られた男女が押し込められている。


 男たちは顔を腫らし、女たちは泥だらけの衣服を纏い、怯えた表情で周囲を見回していた。


「……あれ?」


 ティゼルは、その中に見覚えのある顔を見つけた。


 いつも焼き菓子をくれる、パン屋の女主人だった。


「おばさん!」


 思わず駆け寄ろうとした少年を、衛兵が槍の柄で押し返した。


「下がれ! 罪人に近づくな!」


「えっ!? でも、その人は……!」


「王都の井戸に毒を混ぜた反逆者どもの一味だ! 関係者と疑われたくなければ、さっさと立ち去れ!」


 ティゼルは耳を疑った。


 毒?


 反逆者?


 あの優しいパン屋のおばさんが?


「そんなはずないよ! あのおばさんは、いつもみんなにパンを分けてくれる人なんだ!」


「黙れ、小僧!」


 衛兵が怒鳴った。


 そのとき、荷馬車の中から女主人の声が聞こえた。


「ティゼルちゃん! 逃げなさい!」


 彼女の顔には、殴られたような青い痣が浮かんでいた。


「私たちは何もしていない! お願い、誰かに伝えて! 職人組合は王国を裏切ってなんかいないのよ!」


「おばさん……!」


 女主人がさらに何かを叫ぼうとした瞬間、衛兵の拳が彼女の腹にめり込んだ。


「ぐっ……!」


「黙れと言っている!」


 女主人は苦しげに身体を折り曲げ、そのまま荷馬車の床に倒れ込んだ。


 ティゼルは動けなかった。


 人間になって初めて、目の前で人が殴られるところを見た。


 痛みがどれほど恐ろしいものなのか、今の彼にはわかる。


 だからこそ、何もできなかった。


 衛兵に睨みつけられた少年は、震える足で後ずさりする。


 荷馬車はゆっくりと走り去っていった。


 その後ろ姿を見つめながら、ティゼルは胸を押さえた。


 心臓が激しく鳴っていた。


 人間になってから何度も感じた鼓動だったが、こんなにも苦しいものは初めてだった。



     ◆ ◆ ◆



 その日の夕方。


 ティゼルはコルテアに事情を話した。


 彼女はしばらく考え込んだあと、深刻な表情で口を開いた。


「……最近、王都では職人組合が大量に逮捕されているのです」


「どうして?」


「井戸に毒が混ぜられた事件がありました。王宮の発表では、職人たちが王国への反乱を企て、毒物を運び込んだとされています」


「でも、あのおばさんがそんなことするはずないよ!」


「私もそう思います。実際、逮捕された方々の中には、長年王宮に品物を納めてきた職人も大勢いるのです」


 コルテアは苦しげに唇を噛んだ。


「それに……妙なのです」


「妙?」


「事件が起きた日、職人たちが毒を運んだという証言があるそうなのですが、その証言者の名前が公表されていません」


「……証言者?」


「ええ。裁判では、その人物の証言が最も重要な証拠になると言われています」


 ティゼルは首を傾げた。


 そのとき、ふと何かを思い出した。


 黒い袋。


 劇場の裏。


 職人たち。


 そして、ベルジオの言葉。


『昨夜、劇場の裏で荷物を運んでいる職人たちを見たことにしてほしい』


 少年の背筋に、冷たいものが走った。


「……コルテア」


「はい?」


「僕、もしかしたら……」


 そこまで言いかけたときだった。


 工房の扉が叩かれた。


「ティゼル・フェンロー君は、こちらかな?」


 扉の向こうに立っていたのは、ロスカルドだった。


 黒い法衣を纏い、背後には数人の衛兵を従えている。


 彼は穏やかに微笑みながら、少年を見つめた。


「少しだけ、君にお話があるのだが」


 その声を聞いた瞬間、ティゼルの胸が嫌な音を立てた。


「……なんですか?」


「実はな。君に、王国のために協力してもらいたいことがあるのだよ」


 ロスカルドは丁寧な口調で続けた。


「近いうちに、王国を揺るがす大きな裁判が開かれる。その裁判で、君に証人として発言してもらいたいのだ」


「……証人?」


「そう。君は人形だった頃、一度も嘘をつけなかったと聞いている」


 ティゼルは頷いた。


「……嘘をつくと、顔に木目が出たんです」


「実に素晴らしい性質だ。人々は君を『嘘をつかない人形』として知っている。その君が証言すれば、国民も安心するだろう」


 ロスカルドは懐から一枚の紙を取り出した。


 そこには、短い文章が記されていた。


『私は豊穣祭の前夜、銀幕劇場の裏で、職人組合の者たちが黒い袋を運び込んでいるところを目撃しました』


 ティゼルは息を呑んだ。


「……これ……」


「どうしたのかな?」


「僕……こんなの、見てません」


 ロスカルドは微笑んだまま頷いた。


「そうだろうね」


「……え?」


「当然だ。君はその夜、工房にいたのだから」


 老人の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「しかし、国民はそれを知らない」


 ティゼルは理解できなかった。


 理解したくなかった。


「……どういう、ことですか?」


「難しい話ではない。君には、この紙に書かれた通りのことを証言してもらいたい。ただ、それだけだ」


「……嘘をつけって、ことですか?」


「嘘という言葉は、あまり適切ではないな」


 ロスカルドは静かに首を振った。


「これは王国を守るための、必要な証言なのだよ」


 ティゼルは一歩後ずさった。


「……嫌です」


「ほう?」


「僕、そんなことできません。見てないものを見たなんて、言えないです」


「……なるほど」


 ロスカルドは少しも怒らなかった。


 ただ、困った子供を諭すような表情で尋ねた。


「では、君は自分がどうして人間になれたのか、考えたことがあるかな?」


 ティゼルの身体が強張った。


「……え?」


「王国の秘術は、誰にでも与えられるものではない。数百年に一度しか手に入らぬ触媒を使い、膨大な魔力を消費し、それほどの犠牲を払ってまで君を人間にした理由だよ」


「……コルテアが、助けてくれたから……」


「もちろん、それも理由の一つだ」


 ロスカルドは頷いた。


「だが、それだけではない」


 老人は少年の胸元を指差した。


「人形だった頃の君は、嘘をつけば顔に木目が浮かんだ。つまり、君は真実しか話せない存在として知られていた」


「…………」


「しかし、今は違う」


 ロスカルドは少年の頬に触れた。


「今の君には、柔らかな肌がある。血が流れ、心臓が動き、普通の人間と同じように嘘をつくことができる」


 ティゼルは思わず頬を押さえた。


「……まさか……」


「そうだよ」


 老人は優しく微笑んだ。


「君は、誰もが信じる『嘘をつかない少年』でありながら、誰にも見破られず嘘をつけるようになったのだ」


 工房の中が静まり返った。


 その沈黙を破ったのは、アダルクだった。


「……貴様……!」


 老人は震える声で呟いた。


「最初から……そのために……!」


「フェンロー殿。言葉にはお気をつけください」


 ロスカルドは穏やかに警告した。


「私は、この少年に新しい人生を与えた恩人でもあるのですよ?」


「ふざけるなっ!!」


 アダルクは作業台の道具を掴み、ロスカルドへ向かって振り上げた。


 しかし、その腕は衛兵によって簡単に取り押さえられた。


「父さん!!」


 ティゼルが駆け寄ろうとした瞬間、衛兵の剣がアダルクの喉元に突きつけられた。


「動くな」


 低い声が響く。


「動けば、この老人の首を落とす」


 ティゼルは立ち止まった。


 ロスカルドはゆっくりと歩み寄り、少年の耳元で囁いた。


「君は優しい子だ。だからこそ、正しい選択ができると信じている」


 そして、静かに続けた。


「君が証言してくれれば、父親の罪は問わない。コルテア嬢にも、これまで通り平穏な暮らしを約束しよう」


「……もし、断ったら……?」


 ロスカルドは少し考える素振りを見せた。


「そうだね。まず君の父親には、王家の禁術を利用した不法な人形製造の罪がある。追放時に許されたのは人形の修繕だけだったはずだが、その後も自律人形を所持していたとなれば、極刑は免れまい」


「……そんな……!」


「そしてコルテア嬢も、この件に深く関わっている。君を人間にするよう陛下に直訴した責任は、当然問われるだろう」


 ロスカルドは微笑んだ。


「もっとも、君が協力してくれれば、すべて何事もなく終わる話だ」


 ティゼルは、何も言えなかった。


 背後ではコルテアが怒りに震え、アダルクが必死に抵抗している。


 しかし、少年の耳には何も入ってこなかった。


 ただ、胸の奥で心臓だけが激しく鳴り続けていた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 人間になれたことが、あんなにも嬉しかったのに。


 今は、その音が恐ろしくて仕方なかった。



     ◆ ◆ ◆



 ロスカルドが去ったあと、工房には重苦しい沈黙が残った。


 アダルクは椅子に座り込み、額を押さえていた。


 コルテアは青ざめた顔で窓の外を見つめている。


 ティゼルは床に落ちた証言書を拾い上げ、何度も読み返していた。


「……僕が、嘘をつけば……」


 少年の声が震えた。


「父さんもコルテアも、助かるんだよね……?」


「馬鹿なことを言うな!」


 アダルクが怒鳴った。


「お前が証言すれば、何の罪もない人間が大勢死ぬんだぞ!」


「でも……!」


「でも、ではない!」


 老人は立ち上がり、ティゼルの肩を掴んだ。


「お前は人間になった! それは喜ばしいことだ! だがな、人間になったということは、自分の行いに責任を持たねばならないということでもある!」


「……わかってるよ……!」


「いいや、わかっていない! 嘘をつくことで誰かを殺すのなら、それは剣で刺すことと同じだ!」


 ティゼルは唇を噛んだ。


「……じゃあ、父さんが殺されてもいいの?」


 アダルクの動きが止まった。


「僕が嘘をつかなかったせいで、父さんが殺されてもいいの……?」


「……ティゼル……」


「そんなの嫌だよ……!」


 少年の目から涙がこぼれた。


「僕、父さんと一緒に海を見に行きたいんだ……! 春になったら二人で旅をするって、約束したでしょう!?」


 アダルクは苦しげに顔を歪めた。


 ティゼルは涙を拭うこともせず、言葉を続けた。


「僕、人間になれたんだよ……? やっと父さんと同じになれたんだよ……? これからいっぱい、おいしいものを食べて、いろんなところへ行って……!」


 声が詰まった。


「……なのに、どうして……?」


 少年は両手で顔を覆った。


「……どうして、こんなことになっちゃったの……?」


 アダルクは何も答えられなかった。


 そのとき、コルテアが静かに立ち上がった。


「……私に、考えがあります」


 二人が顔を上げる。


 コルテアは真剣な表情で続けた。


「ロスカルド卿の命令が不当なものであると証明できれば、陛下に直接訴えることができます」


「……証明?」


「はい。職人組合が本当に無実であるなら、必ず何か証拠が残っているはずです。それに、劇場の事故から今回の裁判まで、あまりにも出来すぎています」


 彼女はティゼルを見つめた。


「最初にベルジオという男があなたを誘ったのも、偶然とは思えません。彼が何をしていたのか調べれば、何かがわかるかもしれません」


「……でも、危ないよ」


「危険なのは承知しています」


 コルテアは少年の手を握った。


「私は、あなたが人間になれて本当に嬉しかった。初めて温かいパンを食べて泣いていたあなたを見て、あのとき助けてもらったのが自分でよかったと心から思いました」


 彼女の声が、わずかに震えた。


「だからこそ、あなたを誰かの道具にしたくないのです」


「……コルテア……」


「大丈夫です。私たちで必ず、何とかしましょう」


 コルテアは微笑んだ。


「あなたはもう、人形ではありません。自分の意思で生きてよいのですから」


 その言葉を聞いたティゼルは、涙を拭いながら頷いた。


「……うん!」


 アダルクもゆっくりと立ち上がる。


「……私にも、できることはある。王宮で働いていた頃の知人に、まだ多少の伝手が残っているはずだ」


 三人は顔を見合わせた。


 恐怖は消えていない。


 それでも、確かな希望があった。


 まだ間に合う。


 まだ取り返せる。


 そう信じていた。



     ◆ ◆ ◆



 翌日の夕方。


 コルテアは、王宮の古い記録庫で恐ろしい事実を突き止めた。


 職人組合が逮捕される直前、彼らは王国の税金が不正に流用されている証拠を掴んでいた。


 その中心にいたのが、ロスカルドだった。


 貴族たちが納めるはずの税金を横領し、王宮の工事費や軍の物資購入費を水増ししていたのである。


 職人組合はその不正に気づき、王へ直訴する準備を進めていた。


 ところが、その直前に井戸への毒物混入事件が発生した。


 逮捕された職人たちの工房からは、見覚えのない毒物が次々と発見されている。


 さらに調べを進めると、その毒物の搬入に銀幕劇団の荷馬車が使われていたことまで判明した。


「……やはり……!」


 コルテアは震える手で書類を握りしめた。


 ベルジオは最初からロスカルドの協力者だった。


 ティゼルを劇場へ誘い、嘘の証言を練習させ、その後に人間にする計画まで、すべて最初から仕組まれていたのだ。


 劇場の事故についても、ベルジオが舞台装置の点検を故意に省かせていた記録が残っていた。


 ただし、装飾が実際に落ちるとは予想していなかったらしい。


 あの事故だけは、本当の偶然だった。


 ティゼルがコルテアを救ったことも。


 コルテアが、少年のために陛下へ直訴したことも。


 彼らの善意は、計画を進めるために利用されてしまったのだ。


「……許せない……!」


 コルテアは書類を胸に抱き、記録庫を飛び出した。


 しかし、廊下に出た瞬間。


「おや、コルテア嬢」


 目の前にロスカルドが立っていた。


 その背後には、数人の衛兵が控えている。


「このような時間に、記録庫で何をなさっていたのですかな?」


 コルテアは足を止めた。


 ロスカルドは彼女の胸に抱えられた書類へ、ゆっくりと視線を落とした。


「……なるほど」


 老人は小さく息を吐いた。


「随分と熱心に調べられたようですな」


「……ロスカルド卿」


 コルテアは震える声を押し殺した。


「あなたが何をしたのか、すべてわかりました」


「ほう?」


「職人組合は無実です! 彼らは王国を裏切ってなどいません! あなたこそが王国の財産を横領し、罪を隠すために彼らを陥れたのでしょう!」


 ロスカルドは何も答えなかった。


 ただ、静かに微笑んだ。


「……それで?」


「それで……?」


「その書類を、どうなさるおつもりですかな?」


「陛下にお見せします! これだけの証拠があれば、必ず……!」


「……残念ですな」


 ロスカルドは首を振った。


「あなたは聡明な方だと思っていたのですが」


 次の瞬間。


 衛兵たちが一斉に剣を抜いた。


「なっ……!?」


「コルテア・エルドミュー。王国の機密文書を不法に持ち出し、国家への反逆を企てた疑いで拘束する」


「何を……! 私はただ、真実を……!」


「真実?」


 ロスカルドは小さく笑った。


「コルテア嬢。真実とは、誰が決めるものだと思いますかな?」


 老人は彼女の耳元に顔を近づけた。


「裁判所ですよ」


 コルテアの顔から、血の気が引いた。


「そして、その裁判所を預かっているのは……」


 ロスカルドは自分の胸に手を当てた。


「この私です」


 彼女が叫ぶより早く、衛兵たちが両腕を捻り上げた。


 書類が床へ散らばり、白い紙の上に泥のついた靴が踏み込まれる。


「やめなさいっ! その書類には……!」


「連れていけ」


 ロスカルドが静かに命じた。


 コルテアは必死に抵抗した。


 しかし、細い腕では武装した衛兵たちに敵わなかった。


 彼女の叫び声は、閉ざされた回廊の奥へ消えていった。



     ◆ ◆ ◆



 その夜。


 フェンロー人形工房の扉が、乱暴に蹴破られた。


「王命による家宅捜索だ! 全員、動くな!」


 武装した衛兵たちが一斉に踏み込み、作業台をひっくり返した。


 床に並んでいた人形の部品が散らばり、硝子瓶が砕け、長年使い込まれた工具が踏みつけられる。


「やめろ! そこには何もない!」


 アダルクが叫んだ。


 しかし、衛兵は構わず作業台を蹴り倒した。


 老人が大切にしていた木彫りの人形が床に落ち、首から折れた。


「やめて!!」


 ティゼルが飛び出した瞬間、衛兵の拳が腹にめり込んだ。


「ぐっ……!」


 少年は床に膝をついた。


 人間になってから初めて受ける、本物の暴力だった。


 腹の奥が焼けるように痛み、胃の中身がせり上がり、呼吸ができなくなる。


「ティゼル!!」


 アダルクが駆け寄ろうとした。


 その背中を、衛兵が蹴りつけた。


 老人は作業台に頭をぶつけ、床に倒れ込んだ。


「父さん!!」


 ティゼルは必死に手を伸ばした。


 しかし、すぐに両腕を押さえつけられ、床に組み伏せられた。


「離して! 父さんを殴らないで!!」


「黙れ!」


 衛兵の靴が少年の頬を踏みつけた。


 血の味が口いっぱいに広がる。


 ティゼルは目を見開いた。


 鉄のような味。


 温かい液体。


 これが、自分の血なのだ。


 かつてどれほど身体を傷つけても流れなかったものが、今は簡単にこぼれ落ちていく。


「……やめて……」


 少年の声は震えていた。


「……お願い……父さんだけは……」


 そのとき、工房の入り口から聞き慣れた声がした。


「だから申し上げたでしょう。余計なことを考えなければ、誰も傷つかずに済んだのです」


 ロスカルドだった。


 老人は壊された工房を見渡し、残念そうにため息をついた。


「まったく。美しい工房だったのに、もったいないことですな」


「……コルテアは……?」


 ティゼルは顔を上げた。


「……コルテアは、どうしたの……?」


「ご安心ください。彼女は現在、王宮で保護しています」


「……本当……?」


「もちろんですとも」


 ロスカルドは微笑んだ。


「ただし、今後の処遇は君の協力次第ですがね」


 ティゼルの身体が震えた。


「……どうして……」


「なんですかな?」


「……どうして、こんなことするの……?」


 ロスカルドは少しだけ考え込んだ。


 そして、意外なほど真剣な表情で答えた。


「王国を守るためですよ」


「……嘘だ……」


「嘘ではありません」


 老人は静かに首を振った。


「王国というものは、秩序によって成り立っています。貴族が統治し、平民が働き、それぞれが与えられた役割を果たすことで、国は平和を保っている」


「…………」


「ところが、職人たちは自分たちにも貴族と同じ権利があると思い始めた。税の使い道を問いただし、王国の政策に口を挟み、挙げ句の果てには我々を裁こうとまでした」


 ロスカルドは、床に散らばった人形の頭を拾い上げた。


「人形が職人に逆らえばどうなりますかな?」


「……え?」


「職人は、その人形を処分するでしょう」


 老人は人形の頭を指先で弄んだ。


「理由は簡単です。人形は職人の道具だからだ」


 そして、何の躊躇もなく床に落とした。


 乾いた音とともに、人形の顔が砕けた。


「国も同じですよ」


 ティゼルは言葉を失った。


 ロスカルドは少年の前に膝をつく。


「さあ、ティゼル君。もう一度だけ聞きましょう」


 老人は優しく微笑んだ。


「王国のために、協力してくれますね?」


 ティゼルは父親を見た。


 アダルクは床に倒れたまま、必死に首を振っていた。


 その顔には血が流れ、白髪は赤く染まっている。


 老人は震える唇を動かした。


「……言うな……」


「……父さん……」


「……嘘だけは……つくな……!」


 ティゼルの目から涙がこぼれた。


 それでも、ロスカルドは優しく囁き続ける。


「君が一言、証言してくれればよいのです。そうすれば、お父様もコルテア嬢も無事に帰れます」


 少年は目を閉じた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 心臓が鳴っている。


 生きている。


 痛みを感じる。


 怖い。


 死にたくない。


 父親を失いたくない。


 コルテアを失いたくない。


 そして何より。


 せっかく手に入れた、自分の人生を失いたくなかった。


「……わかり、ました……」


 掠れた声が漏れた。


 アダルクの目が大きく見開かれる。


「……ティゼル……!」


 少年は涙を流しながら、ロスカルドを見つめた。


「……僕……証言します……」


 その瞬間。


 ロスカルドは心から満足したように微笑んだ。


「素晴らしい」


 老人は立ち上がり、衛兵たちに命じた。


「では、少年を丁重に扱いなさい。明日の裁判では、彼が主役となるのですから」


 ティゼルは動けなかった。


 父親の声が、遠くから聞こえてくる。


「……駄目だ……ティゼル……!」


 老人は必死に叫んでいた。


「……そんなことをしては……!」


 しかし、その言葉は最後まで続かなかった。


 衛兵の靴が、アダルクの顔を蹴り上げたからだ。


 鈍い音が響いた。


 老人は血を吐き、そのまま動かなくなった。


「父さんっ!!」


 ティゼルは叫んだ。


 衛兵たちが少年を抱え上げる。


「父さん!! 父さんっ!!」


 その叫び声は、夜の王都に虚しく響き続けた。



     ◆ ◆ ◆



 翌朝。


 王国の中央裁判所には、数千人もの民衆が集まっていた。


 広場には巨大な処刑台が設けられ、その周囲には鎧を纏った衛兵たちが整列している。


 被告席には、職人組合に所属する七十三人の男女が並ばされていた。


 誰もが疲れ果て、殴られた痕を残し、縄で両手を縛られている。


 その中には、ティゼルに焼き菓子をくれたパン屋の女主人もいた。


 彼女は少年の姿を見つけると、信じられないという表情を浮かべた。


「……ティゼルちゃん……?」


 ティゼルは答えられなかった。


 高い証言台の上に立ち、震える両手を握りしめる。


 胸の奥では、心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。


 やがて、裁判長席に座ったロスカルドが静かに木槌を打った。


「静粛に」


 広場が静まり返る。


「これより、王国に対する反逆および毒物混入事件の審理を行う」


 ロスカルドは厳かな声で続けた。


「本件においては、非常に重要な証人が存在する。彼はかつて、人形として生きていた少年だ」


 民衆の間にざわめきが広がった。


「あの人形か……?」


「公爵令嬢を助けたっていう……」


「嘘をつけない人形だろう?」


「今は人間になったんだってよ……!」


 ロスカルドは、ゆっくりとティゼルを指差した。


「彼の名はティゼル・フェンロー。彼は人形だった頃から、嘘をつけば顔に木目が浮かぶという特殊な性質を持っていた」


 老人は一呼吸置いた。


「そして、その誠実さは人間になった今も変わっていない。彼は善良で、正直で、何より嘘を嫌う少年なのだ」


 民衆の視線が、一斉にティゼルへ向けられた。


 期待。


 信頼。


 尊敬。


 そのすべてが、少年の肩に重くのしかかった。


「……それでは、証人」


 ロスカルドが微笑んだ。


「君が見たことを、ありのままに話してくれたまえ」


 ティゼルは口を開いた。


 しかし、声が出なかった。


 目の前には、何の罪もない人々がいる。


 その中には、自分に優しくしてくれた人たちもいる。


 あの焼き菓子の味を、今でも覚えていた。


 蜂蜜の甘さ。


 焼きたての温もり。


 初めて人間になって、心からおいしいと思えた食べ物だった。


「……ティゼルちゃん……」


 パン屋の女主人が、震える声で呟いた。


「……お願い……本当のことを、言って……」


 少年の唇が震えた。


 言えない。


 言えるはずがない。


 しかし、そのとき。


 傍らに立っていた衛兵が、小さな紙片を差し出した。


 そこには、二つの名前が記されていた。


 アダルク・フェンロー。


 コルテア・エルドミュー。


 その横には、赤い文字で『処刑許可待機』と書かれていた。


 ティゼルは息を呑んだ。


 そして、目を閉じた。


「……僕は……」


 声が震える。


 喉が痛い。


 胸が苦しい。


 それでも、少年は言葉を続けた。


「……豊穣祭の前夜、銀幕劇場の裏で……職人組合の人たちが、黒い袋を運んでいるところを見ました……」


 民衆がざわめいた。


 ロスカルドは静かに頷いた。


「その袋の中身は?」


「……わかりません……」


「後に発見された毒物と、同じ形状の袋だったのではないかな?」


 ティゼルは唇を噛んだ。


「……はい……」


「間違いないね?」


「……はい……」


 ロスカルドは満足そうに頷いた。


「なるほど。では、運んでいたのは誰だった?」


 ティゼルは震える指で、被告席の一角を指差した。


 そこにいたのは、職人組合の代表を務める中年の男だった。


 男は目を見開いた。


「……なっ……!?」


 ティゼルの唇が震える。


「……あの人、です……」


「嘘だっ!!」


 男が叫んだ。


「俺はそんなことをしていない!! その子は何も見ていないはずだ!!」


 衛兵が男の背中を殴りつけた。


「静粛に!」


「違う!! 俺たちは何もしていない!! 陛下に会わせてくれ!! 税の不正について説明すれば……!」


 再び拳が振り下ろされた。


 男は床に倒れ込んだ。


 口元から血が流れ、それでも必死に叫び続ける。


「……嘘だ……! 全部、嘘なんだ……!」


 ティゼルは、その光景を見つめていた。


 嘘だ。


 自分が嘘をついている。


 それなのに。


 誰も、自分を疑わない。


 誰も、嘘を見破らない。


 鼻にも、頬にも、木目は浮かばない。


 身体のどこにも、嘘をついた証拠は現れなかった。


「……証人の発言は、極めて信頼性が高い」


 ロスカルドが厳かに宣言した。


「本件について、これ以上の審理は不要と判断する」


 老人は木槌を持ち上げた。


「被告七十三名を、国家反逆罪および大量殺人未遂の罪により有罪とする」


 ティゼルの目が見開かれる。


「……え……?」


「主犯格二十一名は死刑。残る五十二名については、財産を没収のうえ、北方鉱山への終身労役とする」


 木槌が振り下ろされた。


 乾いた音が、広場に響いた。


 その瞬間。


 被告席から、悲鳴が上がった。


「嫌ああああっ!!」


「違う!! 俺たちは何もしていない!!」


「助けて!! 子供がいるんです!! どうか、子供だけは……!」


 泣き叫ぶ声。


 怒鳴り声。


 助けを求める声。


 そのすべてが、ティゼルの耳に突き刺さった。


 少年は震えながら、ロスカルドを見つめた。


「……終わり、ですか……?」


「うむ」


 老人は満足そうに頷いた。


「君のおかげで、王国の平和が守られた」


「……じゃあ……父さんと、コルテアは……?」


「もちろん、約束は覚えているとも」


 ロスカルドは優しく微笑んだ。


「ただし、少々事情が変わってしまってね」


 ティゼルの心臓が、大きく跳ねた。


「……え……?」


「君の父親は昨夜、王国の衛兵に暴行を加えた。さらに、禁じられた人形製造の証拠も発見された」


「……そんな……!」


「残念ながら、王国の法は誰に対しても平等なのだよ」


 ロスカルドは静かに告げた。


「アダルク・フェンローについては、別件で死刑判決が下されることになるだろう」


 ティゼルの足元が崩れた。


「……うそ……」


 声が漏れた。


「……だって……約束したのに……!」


「私は、君の証言によって父親の罪を問わないとは申し上げた。しかし、新たに発覚した犯罪まで見逃すとは言っていない」


 ロスカルドは、少し困ったように微笑んだ。


「言葉というものは、正確に理解しなければならないのだよ」


 ティゼルは首を振った。


「……違う……そんなの……!」


「さて、裁判は終了だ」


 ロスカルドが立ち上がる。


 衛兵たちが被告を連行し始めた。


 その中で、パン屋の女主人がティゼルを見つめていた。


 彼女は、何も言わなかった。


 ただ、涙に濡れた顔で少年を見つめていた。


 その目に浮かんでいたものが、怒りなのか、絶望なのか。


 ティゼルには、わからなかった。


 けれども。


 その視線だけは、生涯忘れることができないと、なぜかはっきりわかった。



     ◆ ◆ ◆



 処刑は、その日の午後に行われた。


 王都の中央広場には、二十一人分の絞首台が並べられた。


 衛兵たちに引きずられた職人たちは、一人ずつ台の上に立たされていく。


 民衆は彼らに石を投げつけ、唾を吐き、罵声を浴びせた。


「裏切り者め!」


「毒を撒いた悪魔ども!」


「子供たちを殺すつもりだったのか!」


 何の罪もない人々が、国民から憎まれていた。


 そして、その光景を見ながら、ティゼルは裁判所の廊下に立ち尽くしていた。


「……僕が……」


 掠れた声が漏れる。


「……僕が、嘘をついたから……」


 窓の向こうで、一人目の足場が外された。


 縄が張り、身体が大きく跳ねる。


 広場から歓声が上がった。


 ティゼルは耳を塞いだ。


 しかし、次の音が聞こえた。


 そして、その次も。


 やがて広場には、二十一の影が静かに揺れていた。


「……嫌だ……」


 ティゼルは床に膝をついた。


「……嫌だ……こんなの……!」


 そのときだった。


 廊下の奥から、重い足音が響いた。


 顔を上げると、数人の衛兵に挟まれたコルテアが歩いてきた。


 淡い青色のドレスは泥で汚れ、銀色の髪は乱れ、頬には殴られたような痣が浮かんでいる。


「……コルテア……!」


 ティゼルは立ち上がった。


「コルテア!!」


 少女が顔を上げる。


 その瞳に、確かな光が戻った。


「……ティゼル……!」


 二人は互いに駆け寄ろうとした。


 しかし、衛兵がコルテアの腕を強く引いた。


「動くな!」


「離してください! 少しだけ、あの子と話を……!」


「黙れ!」


 衛兵が少女の頬を打った。


 乾いた音が響く。


 ティゼルは叫んだ。


「やめて!! その子は何も悪いことしてない!!」


「……ティゼル……!」


 コルテアは必死に顔を上げた。


「あなた、証言したのですね……!」


「……ごめん……」


 少年の目から涙がこぼれた。


「……ごめん、コルテア……僕……!」


 彼女は一瞬だけ悲しそうに目を伏せた。


 しかし、すぐに顔を上げた。


「……まだ、間に合います」


「……え……?」


「私が見つけた証拠は、すべて奪われたわけではありません。原本の一部をシアヴェ様に預けてあります。あれがあれば、ロスカルド卿の不正を証明できます!」


 ティゼルの目が見開かれた。


「……本当……!?」


「ええ! だから、今からでも陛下に……!」


「そこまでだ」


 冷たい声が響いた。


 振り向くと、ロスカルドが立っていた。


 その傍らには、青ざめた顔のシアヴェがいる。


 彼女の両手は震え、目元には涙の痕が残っていた。


「……シアヴェ様……?」


 コルテアの声が震えた。


 ロスカルドは静かに微笑んだ。


「ヴェルグリ殿は、非常に賢明な判断をなさった」


 老人は一枚の紙を取り出した。


「王国への忠誠を示すため、すべての資料をこちらへ提出してくださったのだよ」


 ティゼルはシアヴェを見つめた。


 彼女は、目を合わせなかった。


「……どうして……?」


 少年の声が震えた。


 シアヴェは唇を噛んだ。


「……私には、家族がいるのです……」


「……え……?」


「夫と……まだ幼い娘が……二人……」


 彼女の目から涙がこぼれた。


「……ごめんなさい……私には、守らなければならないものが……」


 ティゼルは何も言えなかった。


 シアヴェは泣いていた。


 人間になる術を与えてくれた、あの優しい女性が。


 けれども、彼女は少年を助けようとはしなかった。


 コルテアが震える声で叫んだ。


「シアヴェ様!! それでもあなたは、王宮の錬金術師なのですか!?」


「……申し訳、ありません……」


「謝罪などいりません!! 今すぐ陛下に……!」


「コルテア嬢」


 ロスカルドが静かに言った。


「これ以上の発言は、あなた自身の立場を悪くするだけですよ」


「……あなたは……!」


 コルテアは憎悪に満ちた瞳で老人を睨みつけた。


「あなたは、いつか必ず裁かれます……! どれほど権力を持っていても、犯した罪まで消すことなどできません!」


 ロスカルドは少しだけ眉を上げた。


 そして、残念そうにため息をついた。


「……困りましたな」


 老人は衛兵に目配せした。


「彼女の口を、使えなくしなさい」


 ティゼルは、その言葉の意味を理解できなかった。


「……え……?」


 衛兵たちがコルテアを押さえつけた。


 少女は激しく抵抗した。


「離しなさい!! 何を……!」


 別の衛兵が、腰から短い刃物を抜いた。


 ティゼルの顔から、血の気が引いた。


「……やめ……」


 声が出なかった。


「……やめて……!」


 衛兵がコルテアの顎を掴んだ。


 少女の口が無理やり開かれる。


「やめろおおおおおおっ!!」


 ティゼルは飛び出した。


 しかし、すぐに背後から取り押さえられた。


 床に押し倒され、腕を捻り上げられる。


 目の前で、コルテアが必死に首を振っていた。


 その青い瞳が、少年を見つめる。


 助けて。


 声にならない懇願が、はっきりと伝わってきた。


「お願い!! やめて!! 僕が悪かったんだ!! 全部、僕が……!!」


 刃が動いた。


 コルテアの身体が激しく跳ねた。


 くぐもった悲鳴が響き、床に赤い血が散った。


 次の瞬間。


 少女の口から、言葉にならない音が漏れた。


「……ぁ……あ……」


 ティゼルは、呼吸を忘れた。


 コルテアは血を流しながら床に崩れ落ちた。


 涙に濡れた瞳が、虚ろに天井を見つめている。


「……コル、テア……?」


 少年の声が震えた。


「……嘘、だよね……?」


 少女は答えなかった。


 もう、答えることができなかった。


 ロスカルドはハンカチで口元を押さえ、静かに告げた。


「これで、彼女が根拠のない発言を繰り返すこともあるまい」


 ティゼルは老人を見つめた。


 その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。


「……どうして……」


 少年は震える声で呟いた。


「……どうして、そんなことができるの……?」


 ロスカルドは不思議そうに首を傾げた。


「何を驚いているのかね?」


 老人は穏やかに言った。


「君も、先ほど同じことをしたではないか」


 ティゼルの身体が強張った。


「……え……?」


「君は嘘をつき、二十一人を死刑にした。五十二人から人生を奪い、その家族から生活を奪った」


 ロスカルドは、床に倒れたコルテアを見下ろした。


「私が彼女から奪ったのは、言葉だけだ」


 そして、静かに微笑んだ。


「君のほうが、よほど大勢の人間を不幸にしているではないか」


 ティゼルは何も言えなかった。


 否定したかった。


 怒鳴りつけたかった。


 目の前の老人を、殴り殺してしまいたかった。


 しかし。


 否定する言葉が、どうしても見つからなかった。


 自分が嘘をついた。


 それは、紛れもない事実だったからだ。



     ◆ ◆ ◆



 翌朝。


 アダルク・フェンローの処刑が執行された。


 罪状は、王家の許可を受けずに自律人形を製造したこと。


 そして、国家反逆罪の審理を妨害し、王国の衛兵へ暴行を加えたことだった。


 処刑は、ティゼルの目の前で行われた。


 ロスカルドは少年に、最後の面会を許可した。


 それを慈悲と呼ぶか、残酷と呼ぶか。


 ティゼルには、もう判断できなかった。


「……父さん……」


 薄暗い牢獄の中。


 アダルクは椅子に座らされていた。


 顔は腫れ、唇は切れ、右腕には乱暴に巻かれた包帯がある。


 かつて精巧な人形を作り続けた職人の手は、拷問によって指の骨を砕かれ、もう二度と道具を握れない状態になっていた。


 老人は少年を見ると、弱々しく微笑んだ。


「……来たか、ティゼル……」


「……ごめんなさい……」


 少年は床に膝をついた。


「……ごめんなさい、父さん……!」


 涙が次々とこぼれ落ちる。


「僕……父さんを助けたかったんだ……! 父さんが殺されるのが怖くて……だから……!」


 アダルクは静かに頷いた。


「……そうか……」


「でも……僕が嘘をついたせいで……みんな……!」


 少年の声が崩れた。


「……二十一人も、死んじゃった……!」


 アダルクは、何も言わなかった。


「……コルテアも……声が……!」


 ティゼルは泣きながら、父親の膝に顔を埋めた。


「……僕、どうしたらいいの……?」


 老人は長い間、沈黙していた。


 そして、傷ついた手をゆっくりと持ち上げた。


 震える指先が、少年の金色の髪に触れる。


「……ティゼル……」


「……うん……」


「……お前が生まれた日のことを、覚えているか……?」


 少年は首を振った。


「……覚えてない……」


「そうか……」


 アダルクは小さく笑った。


「……私はな……最初、お前を作るつもりなどなかったんだ……」


 ティゼルが顔を上げた。


 老人は、遠い昔を思い出すように目を細めた。


「……宮廷を追放されて……仕事も、名誉も……何もかも失って……」


 声が震えた。


「……もう、生きていても仕方がないと思った……」


「……父さん……」


「……そんなとき……工房に残っていた最後の白樺を見つけたんだ……」


 アダルクは微笑んだ。


「……何かを作っていれば、寂しさを忘れられると思った……。だから、ただ手を動かしていた……」


 老人の目から、涙がこぼれた。


「……そうしたら、お前が……」


 言葉が詰まった。


「……お前が、目を開けて……私を見たんだ……」


 ティゼルは、父親を見つめていた。


「……そして、お前は最初に……こう言った……」


 アダルクは、震える声で続けた。


「……『あなたは、誰?』……とな……」


 老人は微笑んだ。


「……私は、何も考えずに答えた……」


 涙が頬を伝う。


「……『お前の父さんだよ』……と……」


 ティゼルは声を上げて泣いた。


 アダルクは少年の頭を撫で続けた。


「……私は、お前を作ったことを……一度も後悔していない……」


「……父さん……!」


「……たとえ、こんな結末になっても……それだけは、変わらん……」


 老人は深く息を吐いた。


「……だがな、ティゼル……」


 その声が、少しだけ強くなった。


「……お前のついた嘘が……なかったことになるわけではない……」


 ティゼルは涙に濡れた顔を上げた。


「……うん……」


「……これから先……自分が何をしたのか……忘れてはいけない……」


「……うん……!」


「……そして……もし、誰かを助けられる機会があるのなら……今度こそ、逃げずに……」


 そこまで言ったとき。


 牢獄の扉が開いた。


「時間だ」


 衛兵が告げた。


 アダルクは静かに目を閉じた。


「……そうか……」


 ティゼルは父親にしがみついた。


「嫌だ!! 父さん!! 行かないで!!」


 衛兵たちが少年を引き離そうとする。


「嫌だ!! お願い!! 僕が悪かったんだ!! 僕を殺してよ!!」


 必死に叫ぶ少年を、アダルクは悲しそうに見つめていた。


 そして最後に、静かに微笑んだ。


「……ティゼル……」


「……父さん……!」


「……海、見に行きたかったな……」


 その言葉が。


 少年の心を、完全に打ち砕いた。


「……っ……!」


 アダルクは衛兵に連れられ、牢獄を出ていった。


 ティゼルは泣き叫びながら、その背中を追おうとした。


 しかし、扉は閉ざされた。


 やがて、遠くから鐘の音が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 そして。


 最後の鐘が鳴ったとき。


 アダルク・フェンローは、この世から消えた。



     ◆ ◆ ◆



 その日の夕方。


 ティゼルは、王宮の一室に呼び出された。


 そこにはロスカルドが座っていた。


 老人は上機嫌で葡萄酒を飲みながら、少年に一枚の書類を差し出した。


「ティゼル君。君の働きに対し、陛下から正式な褒賞が下された」


 少年は何も答えなかった。


「今後、君には王国の特別証言官として働いてもらう。住居も給与も用意しよう。身分は準男爵相当とし、衣食住について不自由させることはない」


 ロスカルドは満足そうに微笑んだ。


「喜びたまえ。平民の少年が、これほどの地位を得られることなど滅多にないのだから」


 ティゼルは、ゆっくりと顔を上げた。


「……父さんは……?」


「残念だったね」


 老人は静かに首を振った。


「しかし、法は法だ。私にもどうすることもできなかった」


「……コルテアは……?」


「北方の修道施設へ移送される。公爵家も、彼女の身柄を引き取ることを拒否したそうだ」


 ティゼルの目が見開かれた。


「……どうして……?」


「王国に反逆した娘を、名門公爵家が庇うわけにはいかないだろう?」


 ロスカルドは何でもないことのように答えた。


「もっとも、命があるだけ幸運だと思うべきだ。彼女には、長い時間をかけて自分の過ちを反省してもらおう」


 ティゼルは俯いた。


 父親は死んだ。


 コルテアは声を奪われ、遠くへ連れていかれる。


 職人たちは殺され、残された者たちも鉱山へ送られた。


 それなのに。


 自分だけが、褒美をもらっている。


「……僕……」


 ティゼルは小さな声で尋ねた。


「……もう、帰ってもいいですか……?」


 ロスカルドは微笑んだ。


「もちろんだ。今日のところはゆっくり休みたまえ」


 少年は椅子から立ち上がった。


 そのとき、老人が何気なく言った。


「そうそう。君の父親が作っていた人形工房だが、取り壊すことになった」


 ティゼルの足が止まった。


「……え……?」


「王家の禁術に関わる施設だからね。内部に残された道具や人形も、すべて処分するよう命じてある」


 少年は振り向いた。


「……待って……」


「なんだね?」


「……あそこは……父さんとの……」


 ロスカルドは少し困ったように眉を寄せた。


「ティゼル君。過去に囚われてはいけないよ」


 老人は優しく微笑んだ。


「君はもう、人間なのだから」


 ティゼルは何も言えなかった。


 ただ、ゆっくりと頭を下げた。


「……わかりました……」


 そのまま、部屋を出ていく。


 ロスカルドは満足そうに葡萄酒を飲み干した。


 扉の向こうで、少年がどんな顔をしていたのか。


 老人は、知ろうともしなかった。



     ◆ ◆ ◆



 翌朝。


 王都の裏路地には、焼け焦げた木の匂いが漂っていた。


 フェンロー人形工房は、すでに取り壊されていた。


 壁は崩され、屋根は剥がされ、長年使われてきた作業台も薪と一緒に積み上げられている。


 その中央で、火が燃えていた。


 アダルクが作った人形たちが、次々と炎の中に投げ込まれていく。


 美しい少女の人形。


 騎士の人形。


 小さな犬の人形。


 七年間、ティゼルと一緒に暮らしてきた仲間たちだった。


 炎が木製の身体を包み込み、精巧に彫られた顔が黒く焼けていく。


 ティゼルは、その光景をじっと見つめていた。


「……父さん……」


 小さな声で呟いた。


 返事はなかった。


 もう、どこにもいないのだ。


 少年は焼け跡の中を歩き回った。


 瓦礫をどけ、燃え残った木片を拾い、何かを探し続ける。


 やがて、崩れた作業台の下から、小さな金属箱を見つけた。


 箱の表面には、見覚えのある文字が刻まれている。


『ティゼル』


 少年は震える手で箱を開いた。


 中には、小さな木製の靴が一足入っていた。


 そして、一枚の紙。


 アダルクの筆跡だった。


『ティゼルへ。


 お前が人間になったら、最初に靴を買ってやろうと思っていた。


 しかし、どうやらその必要もなくなったようだな。


 これは、お前が初めて歩いた日に履いていた靴だ。


 あの日、お前は何度も転びながら、それでも笑って立ち上がった。


 父さんは、その姿を見て嬉しかった。


 人間でも、人形でも構わない。


 どうか、お前が自分の足で歩いていけることを願っている。


 父さんより』


 ティゼルは、紙を握りしめた。


 涙がこぼれた。


 しかし、今度は声を上げて泣くことができなかった。


 ただ、膝をつき、焼け跡の中で小さな靴を抱きしめる。


 自分は人間になった。


 それが夢だった。


 ずっと、ずっと願っていた。


 けれども。


 その夢を叶えた代償に、何もかも失ってしまった。


 父親も。


 友人も。


 家も。


 そして。


 自分が正しいと信じていたものさえも。


 ティゼルは、震える唇を開いた。


「……僕……」


 涙が頬を伝う。


「……人間になんて、なりたくなかった……」


 その言葉を口にしても、鼻には何も起きなかった。


 木目も浮かばなかった。


 顔に亀裂が走ることもなかった。


 少年は自分の頬を押さえた。


 柔らかな肌。


 温かな血。


 人間の身体。


 それは、もう二度と木には戻らない。


 どれだけ後悔しても。


 どれだけ泣いても。


 あの頃には、帰れないのだ。



     ◆ ◆ ◆



 それから三日後。


 ティゼルは王国の特別証言官として、初めての仕事を命じられた。


 新しい裁判の証人になることだった。


 被告は、職人組合の残党と疑われた十五歳の少女だった。


 少女は王都の井戸を調査していたところを捕らえられ、国家反逆罪の疑いで裁判にかけられていた。


 彼女の父親は、先日処刑された二十一人のうちの一人だった。


 ティゼルは、証言台に立った。


 少女は縄で縛られ、床に膝をついている。


 彼女は少年の顔を見つめ、震える声で尋ねた。


「……あなたが、ティゼル……?」


 少年は頷いた。


「……はい……」


「……お父さんが、最後にあなたの名前を呼んでいたの……」


 少女の目から涙がこぼれた。


「……お願い……教えて……」


 ティゼルは、少女を見つめた。


「……お父さんは、本当に悪いことをしたの……?」


 胸が痛んだ。


 少女は必死に続けた。


「お父さんは、いつも言ってたの……。どんなに貧しくても、人を騙したり、傷つけたりする人間にはなるなって……」


 涙が床に落ちる。


「……そんなお父さんが、みんなを殺そうとしたなんて……信じられないの……」


 ティゼルは何も言えなかった。


「……あなたは、嘘をつかないんでしょう……?」


 少女が顔を上げた。


 その瞳には、最後の希望が浮かんでいた。


「……だから、お願い……」


 震える声が響く。


「……本当のことを、教えて……」


 ティゼルは少女を見つめた。


 背後にはロスカルドが座っている。


 衛兵たちが剣を持ち、静かに待機している。


 裁判所の外には、彼を英雄だと信じる民衆たちが集まっている。


 そして、彼の目の前には、一枚の証言書が置かれていた。


 そこには、すでに答えるべき内容が記されている。


 ティゼルは紙を見つめた。


 右手が震えた。


 今なら、まだ間に合うのかもしれない。


 ここで真実を話せば、誰かが信じてくれるかもしれない。


 父親の最期の言葉が蘇る。


『……もし、誰かを助けられる機会があるのなら……今度こそ、逃げずに……』


 ティゼルは目を閉じた。


 そして。


 ゆっくりと口を開いた。


「……あなたのお父さんは……」


 少女が息を呑んだ。


「……王国を裏切りました……」


 その瞬間。


 少女の顔から、すべての表情が消えた。


「……うそ……」


 ティゼルは続けた。


「……僕は、あなたのお父さんが仲間と一緒に毒物を運んでいるところを見ました……」


「……違う……」


「……間違いありません……」


「……嘘よ……!」


 少女は首を振った。


「……嘘よ!! そんなの嘘に決まってる!!」


 彼女は泣き叫びながら、ティゼルを見つめた。


「あなた、嘘をつかないんでしょう!? だったら、どうしてそんなこと言うの!?」


 ティゼルは何も答えなかった。


 少女は必死に叫び続けた。


「お父さんを返してよ!! お願い!! お父さんを返して!!」


 衛兵が少女を取り押さえた。


 彼女は床に引き倒され、それでも泣きながら手を伸ばしていた。


「……返して……!」


 その声が、ティゼルの胸を貫いた。


「……お父さんを……返してよぉ……!」


 ロスカルドが木槌を打った。


「静粛に」


 少女は連行されていった。


 ティゼルは、その背中を見つめていた。


 そして、ふと気づいた。


 自分は、今の証言で一度も木目を浮かべなかった。


 誰も、自分の嘘を疑わなかった。


 少女を除いて。


 いや。


 あの少女だけは、最後まで自分を信じていなかった。


 それなのに、裁判の結果は変わらない。


 誰が正しいかではなく、誰の言葉が採用されるかで、すべてが決まってしまう。


 そのことを、ティゼルはようやく理解した。


 そして同時に、もう一つの事実にも気づいた。


 自分には、選ぶことができた。


 真実を話すことも。


 嘘をつくことも。


 ここで叫び、ロスカルドに逆らうことさえ、本当はできたのだ。


 けれども、自分はそうしなかった。


 怖かったから。


 もう、痛い思いをしたくなかったから。


 これ以上、何かを失いたくなかったから。


 だから、自分の意思で嘘をついた。


 父親を失ったあの日とは違う。


 今度は、誰も人質に取られていなかった。


 それでも、嘘をついた。


 自分の身を守るために。


 それだけの理由で。


 ティゼルは震える手を握りしめた。


 もう、誰のせいにもできなかった。



     ◆ ◆ ◆



 裁判が終わった夜。


 ティゼルは、王宮の自室に戻った。


 大きな寝台。


 柔らかな絨毯。


 金細工の施された家具。


 窓の外には、美しい王都の夜景が広がっている。


 人形だった頃には、想像もできなかった贅沢な暮らしだった。


 部屋の中央には、立派な鏡が置かれていた。


 ティゼルは、その前に立った。


 鏡には、美しい金髪の少年が映っている。


 柔らかな肌。


 赤い唇。


 琥珀色の瞳。


 どこからどう見ても、人間だった。


 少年は、ゆっくりと自分の頬に触れた。


「……僕は……」


 声が震えた。


「……僕は、悪くない……」


 鏡の中の少年は、何も変わらなかった。


 木目は浮かばない。


 鼻も伸びない。


 顔に亀裂が走ることもない。


「……僕は……」


 ティゼルは、もう一度呟いた。


「……誰も、殺してない……」


 何も起きなかった。


 少年は、ゆっくりと笑った。


 それは、かつて人形だった頃には、決してできなかったことだった。


 嘘をついても、誰にも知られない。


 自分の罪を隠すことができる。


 嫌な現実から目を背けることができる。


 そうして生きていくことができる。


 それが、人間なのだ。


 ティゼルは鏡の中の自分を見つめた。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……父さん……」


 声は震えていた。


「……僕……人間になれたよ……」


 返事はない。


 静かな部屋には、時計の針が進む音だけが響いていた。


 ティゼルは机の引き出しを開き、小さな木製の靴を取り出した。


 父親が作ってくれた、初めての靴だった。


 少年はそれを胸に抱き、静かに目を閉じた。


 そして、もう一度だけ願った。


「……人形に、戻りたい……」


 もちろん、その願いは叶わなかった。


 代わりに、胸の奥で心臓が鳴っていた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 それは、どれほど悲しんでも止まらない。


 どれほど後悔しても、消えてくれない。


 自分が生きていることを、何度でも思い知らせる音だった。



 翌朝。


 王国の特別証言官となったティゼルは、新たな裁判へ向かうため、豪華な馬車に乗り込んだ。


 御者が恭しく頭を下げる。


「ティゼル様。本日も、どうぞよろしくお願いいたします」


 少年は静かに頷いた。


「……はい」


 その表情は、驚くほど穏やかだった。


 馬車が走り出す。


 窓の向こうでは、朝日が王都の街並みを照らしていた。


 人々は働き、子供たちは笑い、商人たちは店を開いている。


 昨日と変わらない、平和な朝だった。


 そして、その平和を守るために。


 今日もまた、誰かが裁かれる。


 ティゼルは、膝の上に置かれた証言書へ視線を落とした。


 そこには、今日の裁判で話すべき内容が記されている。


 もちろん、すべて嘘だった。


 少年は、静かに紙を折りたたんだ。


 そして、小さく微笑んだ。


「……大丈夫」


 誰に言うでもなく、呟く。


「……もう、間違えないから……」


 その頬に、木目が浮かぶことはなかった。


 柔らかな肌には、何の変化も起きない。


 ただ、胸の奥で心臓が鳴っていた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 少年が憧れ続けた、人間の証。


 そして今では、その音だけが。


 彼のついた嘘を、誰よりもよく知っていた。



 かつて、嘘をつけば顔に傷が浮かぶ人形がいた。


 その人形は、優しい父親に作られ、誰よりも人間になりたいと願っていた。


 やがて願いは叶い、人形は本物の人間になった。


 血が流れ、心臓が動き、食事の味がわかるようになった。


 痛みも、恐怖も、後悔も覚えた。


 そして何より。


 自分の意思で、他人を不幸にすることを覚えた。


 もう、彼を操る糸はどこにもない。


 誰かに手足を動かされているわけでもない。


 誰かに言葉を強制されているわけでもない。


 少年は自分の意思で歩き、自分の意思で話し、自分の意思で嘘をついている。


 そう。


 あの少年は、ついに本物の人間になったのだ。


 だからこそ。


 もう二度と、誰かが糸を切ってくれることもなかった。



          【完】

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