霜と温暖化のはざまで
これを書き始めた4月21日現在、桜もおおよそ東北までは散ったであろうか。暖かい日が続いたので満開になるのも早かったがそこから散るのも早く、その名残惜しさは平年の比ではなかった。ああ、もう一日だけでいいから満開でいてほしかった……まあ桜にも都合はあるのだからそれは私のただのワガママなのだが。
さて、前置きはこのくらいにしよう。たくさんの人を惹きつける桜だが、百姓としては桜の満開とは愛でる以外のもう一つの重大な意味合いがある。
それは何か。結論から言うと、「野菜の種をまいてOK!」というサインとして、桜の花が機能するのだ。
桜の花が咲くのとほぼ同時に、霜が降りる季節が終わりを告げる。熱帯出身の、寒いのを嫌う作物に対しては、さらに遅く、藤の花が咲くまで待てとか、タンポポの綿毛が見えるまで待てとか、菖蒲が咲くまで待てとか。百姓は花や植物の様子を見ながらたくさんの野菜、果物の栽培スタートを決めている。
霜というのは非常に厄介なもので、私たちの食べている野菜の約半分は霜が降りる季節には育つことができない。トマト、なす、ピーマン、じゃがいも、大豆、しそ、などなど……霜のせいで栽培期間を縛られる作物は実に多い。
そして、現在、文明の力によって霜の被害を強引に突破する手段はいくつも用意されるようになった。代表的なものが温室。ビニールで覆った空間を、場合によってはさらに重油ヒーターで温めるわけだ。この仕組みで我々は、冬でもトマトを食べられるし、大葉を真冬に鍋のつけダレに入れることも叶うのだ。
しかしこれもまた当たり前のことであるが、霜の季節を強引に突破するには大変な労力とお金がかかるし、資材をみても燃料を考慮しても地球環境に優しいとは言い難い。
今はまだ、この仕組みが動かなくなることはないと思うが、これから先は分からない。
冬にトマト?あるわけないでしょ。とか。
梅雨時に、新生姜でも買ってさっぱり食べたいなあなんて思っても。
おいおい無茶言いなさんな。まだ植えたばっかりだよ。山椒の葉っぱでも齧って盆まで待ってな。
なんていうケースは増えるだろうと思う。食料供給の崩壊と呼ぶ人もいるだろうし、自然な形に戻るだけだという私のような意見の人もいるだろう。どちらにしても、食の不自由が増えるだろうねという1点に関しては意見が合致するはずだ。
しかし、では江戸時代くらいまで全く文明が巻き戻ってしまうか?と言えば、それはまた違うだろう。
ここ50年のグローバル化はいろいろな国の多様な野菜たちを日本に導入せしめた。結果、霜を気にしないで作れる作物も選択肢が様々増え、かつ、近年の温暖化で霜の降りる期間そのものが短くなった。
私の住む地域では初霜から終霜までほぼ半年というとてつもない長さの有霜期間があったが、少なくともここ5年程度、初霜が特に遅くなり10月に霜が降りることは実にまれになった。そうするとどうなるか。普通に春植えし夏に収穫するじゃがいもに、もうひとつ、盆過ぎに植えて10月に収穫する秋じゃがいもの選択肢が増えた。まだ検証の段階だが、夏にまいて晩秋に収穫する黒豆がいけるかもしれないという人もいる。もしできるのならばお正月は、自分の家で採れた黒豆をおせちで食べられるわけである。
なにかと悪者扱いの地球温暖化だが、ぶーたれているヒマは無かろうよと私は温暖化批判にはかなり冷笑的だ。なんの問題であれ、解決が見えぬなら見えぬなりに対応を取らねば百姓として食ってなどいけない。
失われたかつての環境への嘆き節はおおいにやって貰って結構だが、それはそれとして変化の波を乗りこなす覚悟を持ち、姿勢を正すのは百姓の仕事だ。感傷的な言葉で昔はこんなでなかったとぐずりぐずりと訴えかけるのは、やるぶんには誰がやったって構わない、が、私はごめん被る。
どんな気候のどんな年でもメシをこの国に暮らす人間に届けるのが私の仕事だと信じるからだ。日本が砂漠になるなら砂漠の作物を届けるし、熱帯化してしまったなら熱帯の作物を作ろう。
肝心なのはこの国で暮らす人を飢えさせないこと。作れないものが増えれば私も泣くだろうが、それはそれとしてもやれることはやる。
霜と温暖化のはざま、日本の片隅で、今日も私はほそぼそと、零細の農家をやっている。
霜も嫌いだし温暖化も嫌だ……というのは、なんだかわがまま勝手な気がして同調しかねる。過去、冷夏に苦しんだことを忘れ果てて温暖化の夏を嘆くのも、まあ暑くて辛いので気持ちは分かるのだが、それでもなんだか幼稚なような気がしてならない。
今ある気候、今ある環境で最善を目指し、力が及ぶなら次善まで用意したい。格好をつけたいのでしょ?と言われればそれまでだが、それが今の百姓としての信念である。




