第2話 微光の教室
教室のドアが強く開けられる。
「皆さん、静かにしてください」
その言葉が教室中に響きわたり、先程まで騒いでいたものもスンと静かになった。
「今日からA組の担任を担当します。ヴェルナ・クレアです。とりあえず、1年間よろしくお願いしますね」
他の生徒の小声で話す声が聞こえる。
「あの怖そうな人が担任?」
「1年間終わったかもな」
ヴェルナ先生は静かに口を開いて、
「小声で話している人達、丸聞こえですよ」
笑顔で、怒りを含むような声色でそう言った。
───
「今回は許してあげましょう。入学初日という訳ですし、自己紹介でもしてもらいたいと思います。」
教室の空気が、一瞬で張りつめたように感じられた。
机の木目をぼんやり眺めながら、わたしはそっと息を吸った。
(自己紹介……みんなの前で……)
胸の奥がきゅっと縮む。
名前を言うだけのはずなのに、喉がひどく乾いていた。
「では、前の席から順番にお願いします。席順は名簿通りになっていますので」
ヴェルナ先生の視線が教室を横切る。
その視線に触れるだけで、背筋が伸びてしまう。
前列の男子が立ち上がり、明るい声で自己紹介を始めた。
その声に反応するように、周囲が一斉にざわめく。
「すごい、自信ありそう」
「火属性なんだってさ。いいなぁ」
他の生徒のそんな声が耳に刺さる。
羨望、期待、賑やかさ。
わたしには、どれも遠い。
次々と自己紹介が続いていく。
名前、出身地、得意魔法。
どの生徒も胸を張り、楽しそうに語っていた。
(……わたしは……)
「次、あなたの番ですよ」
ヴェルナ先生の声が、真っ直ぐこちらに向いた。
教室中の視線が、わたしに集まる気配がする。
椅子がわずかに軋む。
ゆっくりと立ち上がりながら、心臓が跳ねるのを感じた。
(言わなきゃ……名前だけなら……)
口を開こうとした、そのとき。
「がんばれ」
小さな声が横から届いた。
カリエルが、こっそりと微笑んでいた。
気休めのような、でも確かに届く声。
わたしの胸の奥で、微かに熱が揺れた。
「……ルナ・アーヴィルです」
それだけ言うだけで精一杯だった。
声は震え、歯の奥が少し噛み合わない。
教室の一瞬の静寂が、怖かった。
けれど──
「よろしくね、ルナ!」
カリエルの明るい声が、沈黙を破った。
他の生徒たちも、つられるように拍手し始める。
まるで、何も特別じゃない当たり前の生徒として扱うような、柔らかい空気。
慣れない。
怖い。
でも、どこか……少しだけ温かい。
わたしはそっと座りながら、胸に宿るその小さな違和感から目をそらそうとした。
(……大丈夫。別に……期待なんてしない)
そう思い込もうとしたのに、
それでも心臓は、ほんの少しだけ跳ねていた。
───
教室の空気は、自己紹介が進むにつれて少しずつ柔らかくなっていった。
みんなの緊張がほどけていくのがわかる。
彼らの背中は軽く、声は弾んでいた。
わたしだけが、椅子の上でまっすぐ座ったまま、固まっていた。
自分の名前を言っただけなのに、胸がまだ熱を持っているようだった。
あれは、なんの鼓動だったのだろう。
(……忘れよう)
心に浮かぶ波を、手のひらで押さえつけるようにして息を整える。
自己紹介はその後も続き、残りの生徒たちが順番に立ち上がっていった。
「アルス・レイヴン。得意な魔法は風属性。よろしく」
「リーナ・フリュートです!光魔法を少しだけ使えます!」
「僕はシオン・ベイル。水属性の初級魔法までなら扱えます」
彼らの紹介に、小声の感想が飛び交う。
「風属性って人気だよな」
「光属性だってすごいじゃん!」
「水属性は安定して役に立つって聞いたぞ」
魔法のある世界の“普通”が、わたしにはどこか眩しかった。
ようやく全員の自己紹介が終わり、ヴェルナ先生が手を叩いた。
「はい、よくできました。それでは体育館に移動します。入学式が始まりますので」
椅子が一斉に動く。
生徒たちが立ち上がり、ざわざわと教室から廊下へ出ていく。
顔見知り同士が自然に集まり、楽しげに話しながら歩いていく。
わたしは少し距離を置き、その後ろを静かについていった。
カリエルがちらりとこちらを振り返った。
けれど、声はかけてこない。
(……気を遣っている?)
それがむしろありがたかった。
わたしは、誰かの隣を歩くのが怖い。
歩幅を合わせようとする自分が、もっと怖い。
───
体育館の天井は高く、朝の光が淡く差し込んでいた。
すでに多くの新入生が集まっていて、広い空間はざわめきで満たされている。
A組の列に並ぶと、わたしの周りには自然と空間ができた。
(……やっぱり、こうなるよね)
別に嫌われているわけじゃない。
ただ「近づきにくい」だけなのだ。
無表情で、声も小さくて、何を考えているかわからない。
昔からずっとそうだった。
気づけば、家の中でも、外でも、人と距離ができていた。
その距離が、いつの間にか“普通”になっていた。
「ねぇルナ」
唐突に名前を呼ばれ、肩がびくっと跳ねた。
振り返ると、やっぱりカリエルがいた。
金色の髪が光を集めるみたいに輝いている。
「……なに?」
声が少しこわばってしまう。
カリエルは屈託のない笑顔で言った。
「さっき、自己紹介えらかったね」
「……別に……普通だよ」
「普通じゃないよ。ちゃんと声出てたもん」
褒められているのだと頭で理解しても、なぜか反応に困った。
どう返すのが正しいのかわからない。
沈黙が続く。
こんな時、いつもなら相手の方が引いていく。
「ああ、この子は話すのが苦手なんだな」って。
でも……
「……ルナってさ」
カリエルは楽しげに続ける。
「ほんとは強い子でしょ?」
「……は?」
予想外すぎて、変な声が出た。
「だって、さっきすごく緊張してたのに逃げなかったじゃん。
強い子じゃなきゃ、ちゃんとその場に立たないと思う」
(……なにそれ……)
胸の奥がざわざわした。
強い?
わたしが?
そんなの、誰も言ったことがない。
いや――言われるはずがなかった。
わたしが家から追い出されたあの日。
誰一人として、わたしにそんな言葉をくれなかった。
(……違うよ。わたしなんて……)
口を開こうとした瞬間、場内に声が響いた。
「新入生は全員着席してください。まもなく式が始まります」
カリエルは「また後でね」と手を振って列に戻っていった。
小走りで遠ざかる背中。
その軽さが、やけに眩しい。
(……なんで……そんなふうに言えるの)
胸の奥に残った感情の正体がわからなくて、
わたしは視線を前に戻した。
───
入学式は淡々と進んだ。
校長の長い挨拶、魔法の歴史についての講話、
そしてアルセナ学園の理念。
(魔力の強さではなく、魔法への志を重んじる)
ステージ上でその言葉が響いたとき、
胸のどこかが痛んだ。
(本当に? そんな学校が、本当にあるの……?)
魔力ゼロのわたしを拾った学園。
けれど、それが“善意”なのか“特別な理由”なのか、わからない。
わからないまま、この場所に立っている。
ふいに、横目にカリエルが映った。
彼女は真剣な表情で校長の話を聞いている。
(……なんでだろ)
その横顔を見ていると、
ほんの少しだけ、不安が薄れたような気がした。
“誰かが隣にいる”という感覚。
忘れていたもの。
けれどそれは、まだ手を伸ばせない距離のままだった。
───
入学式が終わり、体育館を出る生徒たちが一斉に話し始める。
「明日から授業始まるんだよね?」
「属性適性のテストってどんな感じなんだろ」
「楽しみだな〜!」
騒がしい声の波の中、わたしは静かに歩き出した。
カリエルがすぐ横に来るかと思ったが、
今日は何も言わず、少しだけ離れて歩いていた。
(……気づいてる?)
わたしが、近づきすぎると壊れてしまうことを。
それが、ほんの少しだけありがたかった。
でも――
「ルナ」
背後から名前を呼ばれる。
振り向くと、カリエルが走ってきていた。
息を弾ませながら、手を振っている。
「明日のことなんだけどさ!」
「……なに?」
「席、隣だったでしょ? よろしくね!」
何でもない言葉なのに、
わたしの胸が一瞬止まった。
(……隣……)
誰かと隣になることが、こんなに苦しいなんて。
こんなに……嬉しいなんて。
「……うん」
それだけ答えるのがやっとだった。
カリエルは満面の笑みで言う。
「よしっ!じゃあ今日はもう帰るね!また明日!」
くるりと踵を返して走り去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、
わたしは動けなかった。
(……なんなの、この子)
胸の奥がぽつりと痛む。
その痛みが、嫌じゃなかった。
わたしは小さく息を吐くと、ゆっくり歩き出した。
───
その日の帰り道。
淡い夕日が学園の石畳に影を落としていた。
わたしは自分の影を見つめる。
あの日、家を追い出された夜。
長く伸びた影と一緒に歩き続けた道。
今日の影は、
少しだけ、薄く見えた。
(……また、明日)
その言葉が胸の中で自然に浮かんで、
自分でも驚いた。
わたしはまだ閉ざされている。
人を信じることも、まだできない。
でも――
ほんの、少しだけ。
小さな光が差し込んだような気がした。




