《第二章 第4話 桜風、君を攫う夜》
夜の桜咲学園は、まるで別の世界のように静まり返っていた。
春風が吹くたび、満開の桜が舞い上がり、光を反射して淡く光る。
月城朋広は、その風の中に“声”を聞いた気がした。
――「……もうすぐ、夢が終わるよ」
桐原桔梗の声だった。
だが、それは彼の背後からではなく、頭の中、心臓の奥底から直接響くような声。
まるで、彼女の魂そのものが自分の中に流れ込んできたようだった。
「桔梗……どこにいるんだ?」
声を上げても返事はない。
ただ、桜の花びらが彼の周囲に渦を巻くように回り、風の音が徐々に高鳴っていく。
その中心に、淡い光を帯びた少女の影が浮かび上がった。
桔梗は白いワンピース姿で、桜の花びらに包まれていた。
その姿はあまりにも儚く、美しく、そして現実とは思えなかった。
「……夢、なの?」
朋広の問いに、彼女は首を横に振る。
「違うよ。これは……夢と現実の、境目。」
彼女の声は、まるで風の振動そのものだった。
「桜霊が目を覚ましたの。記憶を繋げた代償に、私たちは“時”を渡ってしまった。」
「時を……?」
「この夜が終わると、どちらかが“昨日”の人になる。」
桔梗は微笑みながら、朋広の頬に触れた。
「私がいなくなっても、あなたの中で咲いていたら、それでいいの。」
その指先は、確かに触れているのに、すぐに透けていくようだった。
朋広はその手を掴もうとする。
「そんなの、いやだ。消えないでくれ。」
だが、掴んだ手は光の粒となって風に散り、空に溶けていった。
――桜風が吹き荒れ、全てが白に包まれる。
気づけば、彼は学園の屋上に立っていた。
足元には無数の花びらが降り積もり、夜明けの光が差し始めている。
風はもう止み、静寂だけが残っていた。
桔梗の姿はない。
だが、彼の右手には、彼女の髪飾りが握られていた。
それは桜の花弁を象った古い飾り――桜霊の印。
「……昨日の夢は、今日の現実に変わるのか。」
呟いた声は風に溶け、遠くの桜並木に吸い込まれていく。
その瞬間、彼の視界に淡いピンクの光が走った。
屋上の手すりの上、風に舞う花びらの中に、桔梗の姿が一瞬だけ映る。
笑っていた。
そして唇が静かに動く――
『昨日の君を、愛してる』
朋広は目を閉じ、胸にその声を刻みつけた。
花びらが舞い落ちるたび、心臓が鳴る。
それは鼓動ではなく、記憶の音。
――桜風が通り過ぎるたび、彼は思う。
夢と現実の境界に咲いた恋は、たとえ形を失っても、
永遠に“昨日”から彼の中で咲き続けるのだと。
風がやみ、朝日が昇る。
彼は小さく微笑んで、学園の屋上を後にした。
桜霊の夜は終わり、
“昨日の君”が、
“今日の記憶”として刻まれた。




