《第二章 第2話 桜の残響》
夜の校舎に、風の音が鳴った。
静かな渡り廊下の窓から吹き込む夜風が、白いカーテンを膨らませる。その揺らぎの奥で、桜坂遼は一人、旧校舎の理科室に立っていた。
机の上には、一枚の古びた学生証と、ひび割れたスマートフォン。どちらも、彼がこの世界に“戻ってきた”証だった。
「……もう、三年目の春か」
遼は小さく呟いた。
“死後の再生”として与えられたこの高校生活は、永遠ではない。彼に残された時間は、あとわずか一年。それを過ぎれば、この桜の世界から再び“彼岸”へ還る。
だが、それでも――この世界には、まだ終わらせられない約束がある。
理科室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、桜色の髪を肩まで伸ばした少女、朝霧澪。
光の下では透けるように白く、夜の闇の中ではほのかに光る髪。その存在感は、現実よりも夢に近い。
「遼くん、こんな時間に何してるの?」
「少し……昔を、思い出してた」
「昔?」
澪は首をかしげ、机の上の学生証を見た。そこに映っている顔は、今よりもずっと幼く、無邪気な笑顔を浮かべていた。
「これ、君の?」
「ああ。――“前の世界”の俺だ」
澪は目を見開く。
それは、この世界の秘密に最も近い言葉だった。“前の世界”――つまり、生前。遼が死の淵からもう一度だけ戻ってきた理由は、この桜の校庭に宿る“記憶の魂”を解き放つため。
「……あの日、君を助けられなかった。だから、俺は戻ってきた」
遼の声には、春の夜風のような優しさと、冬の終わりのような痛みが混じっていた。
澪はそっと彼に近づき、机に手を置く。
「私、ずっと思ってた。どうして遼くんの目は、あんなに遠くを見てるんだろうって」
「見てるのは……過去じゃない。終わらせられなかった時間なんだ」
ふたりの間に沈黙が流れた。
桜の花びらが、夜の風に乗って窓から差し込み、理科室の床に散る。
まるで、この場所だけ季節がずれているようだった。
――この学校の桜は、普通じゃない。
夜桜が咲くのは、一年のうちほんの数日。それも、亡くなった生徒たちの命日にだけ咲く。
そしてその夜、桜の下では“過去と未来が交差する”。
「澪……。もし、もう一度だけ選べるなら、俺は――」
遼が言いかけた瞬間、外で強い風が吹き、窓がガタンと揺れた。
その風に混じって、遠くの桜の木から微かな声が響く。
――“帰ってきて”
澪の肩が震える。
「いまの……声?」
「ああ……。桜の声だ」
遼は窓の外を見つめた。夜空に浮かぶ満月の下、校庭の一本の桜が淡く光っていた。
それは、彼が“死ぬ前の最後の日”にも見た光景だった。
澪は、遼の横顔を見つめる。
そこには、彼がどんな運命を背負っても手放せない優しさがあった。
「遼くん……。もし、本当に過去をやり直せるなら、私は――」
「その続きを、言っちゃだめだ」
遼が遮るように言い、微笑んだ。
「その言葉は、春の最後の日に取っておこう。きっと、その方が綺麗だから」
澪は、少し唇を噛んで頷いた。
彼女もまた、心のどこかで感じている。
この世界の春は、永遠には続かない。
そして、二人の時間もまた――残り少ないのだと。
静かな夜、窓から入る風が彼女の髪を揺らす。
遼はその一房をそっと指で押さえながら、小さく囁いた。
「澪。……この世界が夢でも、君が笑う限り、俺はここにいる」
その瞬間、理科室の蛍光灯が一瞬だけ点滅した。
桜の光が、二人を包み込む。
時の狭間がわずかに開き、“過去”の映像が床に映し出された。
そこには――かつての遼と澪が、手を取り合って笑っている姿があった。
だが、その映像の澪の姿は、途中からノイズに包まれて消えていく。
遼はその光景を、息を詰めて見つめた。
「……これが、俺たちの終わりの記憶か」
「終わりじゃないよ」
澪は彼の手を取る。
「今、こうして私たちがいる。それが、もう一度始まった証だから」
遼はその手を強く握り返した。
その手の温もりは、確かに“生”のものだった。
桜の光の中、二人の影が重なり――やがて静かに溶けていった。
夜の理科室を出た二人は、校舎裏の坂道をゆっくりと歩いていた。
月光が照らす桜並木の下、花びらが雨のように降り注ぐ。
その光景は、まるで記憶の断片が現実の中に散っていくようだった。
「ねえ、遼くん」
「ん?」
「もしまた、卒業まで一緒にいられるなら……今度こそ、ちゃんと伝えたいことがあるの」
「……それは、“その時”まで秘密か?」
「うん。だって、言葉にしちゃうと終わっちゃいそうだから」
澪の声は小さく震えていた。
遼は彼女の肩に手を置き、歩調を合わせる。
彼の中で、ある確信が芽生え始めていた。
――この世界は、過去の記憶をただ再生しているだけじゃない。
誰かの“願い”によって繋ぎ止められている。
「澪。この学校に“桜の記憶石”があるって聞いたことあるか?」
「記憶石?」
「桜の根元に埋められてる、透明な石。亡くなった生徒の記憶を閉じ込めて、夜になると光るんだ」
「それって……遼くんが探してるもの?」
「ああ。あの石の中に、俺と君の“最後の約束”が残ってる気がする」
澪は目を見開いた。
風が吹くたびに、花びらが彼女の髪に舞い落ちる。
そのたびに遼は、静かにそれを取ってやる。
まるで、それ自体が儀式のように優しい仕草だった。
「ねえ、遼くん……。本当に、死んだはずなの?」
その問いに、遼は少し笑ってうなずいた。
「たぶんな。けど、不思議なんだ。死んだときより今の方が、心がちゃんと生きてる気がする」
「……それって、私がいるから?」
「それもあるかも」
遼の答えに、澪は頬を赤らめる。
坂を下りきると、校庭の中央に大きな桜の木が立っていた。
夜風が吹くたびに、枝がざわめき、淡い光を放つ。
その根元には、薄く光る小石のようなものがいくつも散らばっている。
「これが……記憶石?」
澪がしゃがみこんで手を伸ばすと、指先が一つの石に触れた。
その瞬間、淡い光が弾け、周囲の空気が揺らいだ。
二人の足元に、過去の映像が広がる。
――春の放課後。
満開の桜の下で、遼と澪が立っている。
笑い声、涙、そして抱きしめる音。
そこには、言葉では表せない“終わりの瞬間”が刻まれていた。
「これが……」
澪の声が震える。
映像の中の彼女は、制服のまま倒れかけていた。
遼がその身体を抱きしめる――
「もういい、行かないでくれ」
その声は痛いほど優しかった。
だが次の瞬間、光が弾け、映像は途切れた。
現実に戻ると、澪の目から涙が溢れていた。
「……あのとき、私、もう……」
「いいんだ。もう思い出さなくていい」
遼は澪の頬を拭い、静かに抱きしめる。
「俺は君を“失った”ことで、自分を取り戻した。だから今度は、君を“守る”ことで終わりたい」
その言葉に、澪は彼の胸の中で小さく頷いた。
「じゃあ、私も……。今度こそ、遼くんを“見送る”よ」
「見送る?」
「うん。もし、また君がいなくなる日が来たら、泣かないで笑って手を振るの。だって、もうちゃんと心は繋がってるから」
夜風が二人の間を吹き抜け、桜の花びらを巻き上げた。
まるで、二人の約束を祝福するように。
やがて、遠くの時計塔が午前零時を告げる。
その音と同時に、校庭の桜が一斉に光を放った。
桜の根元の石が淡く脈打ち、空気が震える。
「――始まる」
遼は澪の手を取り、木の根元に足を踏み入れた。
瞬間、眩しい光が二人を包み、世界が反転する。
見開いた目の前には、昼の校庭。
制服を着た生徒たち、笑い声、そして太陽。
全てが“生きていた頃”の風景。
「……ここ、もしかして」
「俺たちの最初の春だ」
遼がそう言ったとき、澪は息を呑んだ。
見覚えのある自分が、教室の窓際で微笑んでいる。
――“過去の私”。
遼は隣で小さく微笑んだ。
「これが、俺たちの“始まり”であり、“終わり”だ」
澪はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど、心の奥で確かに感じていた。
――この再生の春は、最後の季節になる。
教室のチャイムが鳴る。
窓の外では、満開の桜が陽光に染まり、風に踊っている。
遼は澪の手を握り、もう一度微笑んだ。
「たとえ夢でも、俺はこの時間を選ぶ」
澪も微笑み返す。
「夢じゃないよ。だって、ちゃんと痛いもの。ちゃんと――愛してる」
二人の指が重なり、桜の花びらが光に溶けた。
その瞬間、すべての音が消え、世界は柔らかな白に包まれる。
――そして、春はまた巡る。
たとえ命が終わっても、想いは桜に宿り続ける。
それが、“死後もう一度だけ高校生活をやり直す恋”の、最後の約束だった。




