《第二章 第1話 夢の中の君》
夜の風が、桜の枝を揺らしていた。
窓の外、淡い月が光を零し、学園の中庭に白い影を落とす。
その夜も月城朋広は、同じ夢を見ていた。
桜の木の下で、ひとり泣いている少女。
頬を濡らす涙のひと粒ひと粒が、地面に落ちるたび光の波紋を広げる。
彼は声をかけようとするが、声にならない。
風が吹くたび、彼女の黒髪が散り、桜の花びらと混ざって宙に溶けていった。
目を覚ましたとき、心臓の奥にまだあの光が残っている。
それは夢というよりも、現実の記憶のようだった。
――翌朝。
桜咲学園の廊下。窓から射しこむ陽光の中に、昨日の夢の少女――桐原桔梗が立っていた。
淡い光の中で、彼女の髪がほんの少し揺れる。
朋広の胸の奥が、理由もなく熱くなった。
「桐原さん……昨日、泣いていたね。」
口にした瞬間、空気が止まる。
彼女は驚いた表情のまま目を細め、言葉を失った。
「……どうして、それを?」
彼女の声は震えていた。
朋広は自分の失言に気づき、慌てて俯く。
「……夢で、見たんだ。」
沈黙。
廊下を抜ける春の風が、二人の間を通り抜けた。
その風が、ほんの一瞬だけ、彼女の頬の涙を運んだように見えた。
桔梗は小さく微笑んだ。
「それは……少し怖いね。」
しかし、その目にはわずかに、懐かしさのような光が宿っていた。
その日の放課後。
朋広は図書館で古い学園誌を見つけた。
そこには“桜霊の伝承”が記されていた。
> 春の満月の夜、桜の木の下で眠ると、他人の記憶が夢に流れ込む。
> それを“記憶を運ぶ風”と呼ぶ。
その文字を見た瞬間、朋広の中に確信が生まれた。
――あの夢は偶然ではない。
彼は桔梗の“記憶”を見ていたのだ。
夜、再び夢に落ちる。
そこにはまた桔梗がいた。
だが今度は、彼女がこちらを見ていた。
風の中で、口が動く。
「あなた……私の夢に、どうしているの?」
【本文・後半】
翌朝、桔梗は不意に朋広の教室を訪れた。
静かな昼下がり。クラスメイトのざわめきの中で、彼女はまっすぐ朋広を見つめる。
「昨日の夢……あなたも見たの?」
その一言に、時間が止まった。
彼女の手が震えていた。
朋広は頷いた。「あの桜の下で、君が泣いていた。」
「……やっぱり。」
桔梗の表情に、一瞬の安堵と恐れが混ざる。
放課後、二人は校舎裏の桜の木の下へ向かった。
薄桃色の花びらが舞う中、彼女は静かに語る。
「私は時々、知らない誰かの夢を見るの。
そしてその人が、私の“昨日”を知っている。」
彼女の声には、微かな諦めがあった。
朋広は言葉を失いながらも、その瞳の奥に消えない痛みを感じ取る。
――春の風が吹いた。
花びらが二人の肩に舞い降り、地面を淡く染める。
「もし、この夢が終わらなかったら……現実はどうなるんだろうね?」
桔梗が小さく呟く。
「夢が現実を侵食するなら、君は僕の中に残る。」
朋広の声は確信に満ちていた。
その瞬間、風が強く吹き、桜の枝がざわめいた。
桔梗は一歩近づき、彼の胸に手を置いた。
「……じゃあ、あなたの夢にも、私を咲かせて。」
その言葉とともに、夢と現実の境界が溶けるような感覚が広がった。
桜の木の下で、二人の影が重なる。
遠くで鐘の音が響いた。
目を開けると、桔梗はもういなかった。
――ただ、彼の掌には一枚の桜の花びらが残っていた。
それは淡い光を放ちながら、彼の心臓の鼓動と同じリズムで震えていた。
その夜。
朋広は再び夢を見る。
風が吹く。桜が散る。
そして、桔梗の声が耳元で囁く。
「――夢の中なら、もう少しだけ一緒にいられるね。」
月が沈むまで、二人の時間は途切れなかった。
けれど朝が来ると同時に、彼女の姿は霧のように薄れていった。
夢の余韻だけが、現実に残っていた。
桜の花びらのように。
その問いかけに答えることができず、彼はただ微笑んだ。
夢の中の桔梗は、現実よりも柔らかく微笑んでいた。




