《エピローグ 桜魂継承譚》
桜咲学園の春。
屋上の古桜は、今年も変わらず満開の花をつけていた。
けれど、その木の根元には、去年まであったはずの古びた日記帳がもうない。
風に運ばれたのか、それとも――。
新入生の少女が一人、桜の下に立っていた。
胸元の校章はまだ新品で、白いリボンが春の光を受けて揺れる。
彼女の名は、**月城 桜音**。
日差しに手をかざしながら、桜音は微笑んだ。
その瞳の奥には、なぜか懐かしさがあった。
まるで、何かを思い出そうとするように――。
ふと、足元に花びらが舞い降りる。
薄く光るその一枚を、桜音は拾い上げた。
――あたたかい。
胸の奥に、柔らかな風が吹き抜ける。
その瞬間、脳裏に映像がよぎった。
知らないはずの景色。
知らないはずの声。
『僕は、君の夢の中で生きている。』
桜音は小さく息を呑んだ。
涙がひとすじ、頬を伝う。
それがなぜ悲しいのか、自分でもわからない。
けれど、確かに心のどこかが疼いていた。
校舎のチャイムが鳴る。
桜音は振り返り、微笑む。
その笑顔の奥で、桜の花がそっと揺れた。
風が、桜音の髪を優しく撫でていく。
その風の中に、誰かの声が混じっていた。
――「ありがとう。」
誰の声かもわからぬまま、彼女は空を見上げる。
桜の花びらが空一面に広がり、光の粒のように舞い降りていた。
時は流れ――十年後。
桜咲学園の校庭では、満開の桜の下で卒業式が行われていた。
壇上に立つのは、一人の教師。
穏やかな笑みと少し儚げな眼差し。
その名は、月城 朋広。
あの日、夢と現実の境界を越えた少年は、今や教師としてこの学園に戻ってきていた。
彼は静かに生徒たちを見渡しながら、桜の木に目をやる。
そこには、見えない誰かの気配が確かにあった。
「……桔梗、見てるか?」
風が答えるように吹く。
花びらがふわりと舞い、彼の肩に一枚落ちた。
その瞬間、朋広の胸の奥に声が響く。
――『ええ、ずっと見ているよ。』
微笑みながら、朋広は空を見上げた。
その瞳には、春の光が映っている。
教壇の上で桜の花弁が揺れ、風に舞い上がる。
「君たちも、どうか忘れないでください」
「人の心は、想いによって繋がる。記憶は風となり、桜のように咲き続けるんです。」
生徒たちは静かに頷いた。
そして拍手が響く。
風が花を巻き上げ、空へと運んでいく。
――桜咲学園。
その桜の下には、今日も誰かの想いが眠っている。
それは、昨日の君を愛した僕の記憶。
そして、未来の君へと続く祈り。
桜の木が揺れ、花びらが彼の頬に触れた。
その温もりは、まるで――桔梗の手のひらのようだった。
春の終わり。
校門の外、夕暮れの風が吹く。
桜音はゆっくりと歩きながら、振り返る。
屋上の方角を見つめ、目を細めた。
「……先生、あの桜、やっぱり少し特別ですね。」
朋広は少しだけ笑って頷いた。
「そうだな。あの桜には――昔、誰かの想いが宿っている。」
桜音は問い返す。
「誰の、ですか?」
朋広は答えず、ただ空を見上げた。
桜の花びらが二人の間に舞う。
その一瞬、桜音の瞳が淡く光る。
記憶のどこかに、名前のない想いが確かにあった。
朋広は小さく微笑んで言った。
「――きっと、君が知っている人だよ。」
春の風が吹き抜け、花びらが空に散る。
その中で、朋広は心の中で呟いた。
(桔梗。僕は、君と見た夢の続きを生きている。)
そして――物語は再び、風の中へと溶けていった。
春は再び巡る。
記憶は風となり、人の心に宿る。
それが、“桜魂”の本質――魂の継承だった。




