《第四章 第1話 桜が再び咲くとき》
春。
風が優しく頬を撫でる。
長い冬を越え、桜咲学園の校門に、再び薄紅の花が咲き誇っていた。
月城朋広はゆっくりと歩き出した。
記憶はまだ霞の中にある。
けれど――その霞の奥に、確かな笑顔があった。
桔梗。
あの日、夢の中で見た最後の微笑。
あれは現実だったのか、幻だったのか。
答えは出ないまま、季節だけが巡ってきた。
「……また、春か。」
空を見上げると、花びらが風に舞う。
白い光が差し込み、瞼の裏に焼きつく。
放課後の屋上、最後の言葉、ノートの文字。
あの日の全てが、まるで昨日のことのように蘇る。
——桜が咲くたび、私は君を思い出す。
朋広は胸ポケットから、あのノートを取り出した。
風に押されるように、校舎の裏へと足を進める。
そこには――
静かに佇む一本の桜の木。
幹には新しい木札が結ばれていた。
『桐原桔梗 安らかに』
指先で木札に触れると、心の奥で何かが震えた。
まるで、彼女が微笑んでいるようだった。
「桔梗……。お前は、まだここにいるんだな。」
木々の隙間を抜けて、一陣の風が吹く。
花びらが宙を舞い、彼の頬に触れた。
その瞬間、頭の中に“声”が流れ込んだ。
——ありがとう。
——私ね、ちゃんと届いたよ。
朋広の目が見開かれる。
それは確かに、桔梗の声だった。
懐かしく、優しく、そして温かい。
「……桔梗、聞こえるのか?」
——うん。少しだけ、夢の端っこで。
彼は目を閉じ、風に耳を澄ませた。
桜の葉の音が、波のように寄せては返す。
「また、逢えるのか?」
——逢えるよ。桜が咲くたびに、きっと。
彼女の声が遠ざかり、風が静まった。
だが、胸の鼓動は強く鳴っていた。
彼は微笑み、空に手を伸ばした。
指先で、散りゆく花びらを受け止める。
その一枚が、彼の掌に残ったまま光に溶けた。
「また……春に逢おうな。」
桜の枝の向こうで、夕陽が赤く滲んでいった。
夜。
月が昇る。
学園の屋上には、朋広の影がひとつ。
ノートを開き、最後のページに新しい文字を書き込んだ。
――『昨日の君を愛した僕へ』
それは、彼自身への手紙だった。
桔梗と過ごした夢の日々、交わした約束、残響の祈り。
すべては幻のように儚く、しかし確かに心に咲いている。
ページを閉じた瞬間、微かな風が吹いた。
ページの端から、淡い光が零れ落ちる。
まるで桔梗の魂が、最後の挨拶をしているようだった。
「桔梗、ありがとう。お前が教えてくれたこと……俺、ちゃんと生きてみるよ。」
屋上から見下ろす街には、無数の光が瞬いていた。
誰かの夢、誰かの記憶、誰かの愛が、確かにここにある。
そして――桜の花が夜風に揺れ、空へと舞う。
それは新しい季節の始まりを告げる風だった。
朋広は微笑んだ。
“昨日”を越えた“今日”の中で。
「俺は、まだ君を愛してる。」
花びらが一枚、頬を撫で、空へと消えた。
——桜が再び咲くたび、二人はきっと出逢う。
その春を信じて。




