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モンスターシリーズ

恋人の吸血(うわき)現場を目撃してしまったので、魔女の力で姿をくらますことにした

作者: 柏井清音

 都内のある高等学校。人気のない廊下に、ぴちゃぴちゃ、じゅるじゅるという音が響いていた。

 夏の陽光が燦々と降り注ぐ窓際にひと組の男女が立っている。少女の方はオレンジかがった黒髪をまっすぐ背中に垂らし、片手を差し出した状態で、くすぐったそうに身動ぎしている。


 その白魚のような手を逃すまいとするように掴んでいるのは、背の高い少年だった。黒い髪は耳の上で切りそろえられ、普段は象牙色の頬は上気して桃色に染まっている。彼は上体を屈めて少女の白い手の甲に舌を這わせ、時折吸い付いていた。


 傍から見れば、少年が夢中で少女の手に口づけているように見える。何より、少女が堪りかねたように漏らす「んっ……」という艶やかな喘ぎが混じって、神聖であるはずの学び舎の一角は、とんでもなく淫靡な空気に支配されていた。


 まどかは廊下の曲がり角に身を隠しながら、愕然とそれを見つめていた。自分の恋人である(れん)が、クラスメイトであるアサヒの血を啜る様を。


 しばらくして、蓮がアサヒの手首から顔を上げた。真っ赤に染まった牙から赤い雫が滴る。唇の端を伝って流れていくそれを、彼は舌でねっとりとからめ取った。


美味(うま)ぁ……」


 蓮は紅く変じた瞳をゆっくりと瞬き、恍惚と呟く。その瞬間、まどかは胸を刺し貫かれたような痛みを覚えた。


(今、美味しいって、言ったの?)


 あまりのショックに硬直していると、ふとアサヒが顔を上げた。彼女はまどかに気付くと一瞬驚いたようだが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 途端にカッと頭に血が上って、気付けばまどかは廊下の角から飛び出していた。ぼんやりとしていた蓮の前に仁王立ちになると、彼は我に返ったように目を見開いた。


「まどかっ!?」

「今、血を吸ってたよね」

「ちが、えっと、これは」


 慌てふためく様子はまさしく浮気現場を目撃された男のそれだ。

 もはや言い逃れなんてできないだろう。いや、させてなるものか。


「こんのお」


 まどかは怒りに震えながら、首から下げていた鎖を引きちぎる。


「ドクズのクソ野郎があ!!」


 絶叫しながら水晶をあしらったペンダントを力いっぱい蓮に向かって投げつける。


「ちが、ぐはあ!!」


 まだ何か言おうとしていたようだが、ペンダントが足元で砕けるなり蒸気のような無色の煙が立ち昇り、蓮は悶絶してその場に頽れる。


「きゃあっ、大多喜(おおたき)くん!?」

「最っっ低!!」


 腹の底から罵声を叩きつけると、まどかは踵を返し、全速力で廊下を走り去って行った。



***


 人間の大多数には知られていないことだが、この世界には人間以外にも人と同じような姿を取ることのできる生物がいる。天狗や化け狐、座敷童や河童といった昔話や伝承などでおなじみのものたちもいれば、吸血鬼や魔女、魔法使い、獣人といった西洋ファンタジーで有名になった種族たちもいる。


 日本では古来から妖怪やおばけなど、人間たちによって様々な呼び方をされてきたが、現代の当事者たちは自らを「人外(モンスター)」と呼んでいた。彼らはお互い連携しあって上手に正体を隠しながら、今日も人間社会に溶け込んで生活している。


***


 その日の放課後、まどかは自宅の地下室にある調合室で大釜をかき混ぜていた。


「許すまじ。許すまじ~。浮気、ダメ、絶対。はい、お別れ決定。呪う。ってか呪ってやる」


 制服姿のまま、ブツブツ怨嗟の声を漏らしながら乾燥したハーブのようなものを釜に投げ込んだまどかに、背後で椅子に座っていた幼馴染で親友の少年である(ひかる)が困ったように金色の頭を掻いた。


「いやいや、現代で誰かを呪ったりしたら、特別警察に捕まるから。え~っと、まず状況を説明してくんない?」


 まどかは勢いよく光を振り返った。彼の「うわあ、目ぇ血走ってるし」という呟きは聞かなかったことにした。


「あのクソ吸血鬼()、アサヒの血を飲んでたの!! しかも学校の廊下でだよ!? 誰かに見られたらどうすんの!? 盛りのついた雄犬か!!」


 吠えるまどかに、光は天を仰いだ。


「……あ~、魔女を怒らすとか、あいつ何やってんだか」


 日本はもとより、世界のいたるところに魔女はいる。呼び方は地域によって様々だが、共通しているのは、古から人外たち相談役として重宝されてきた点だ。かく言うまどかの家も、かつては大名や将軍家にも仕えたという、由緒正しい魔女の家系だった。


 魔女は攻撃力の高い魔法を使うことはできないが、様々な効能のある魔法薬(ポーション)を作ったり、物事の本質や未来を占いで知ることができる。味方になれば大変心強い存在であるが、「魔女だけは敵にまわすな」と言われるほど恐ろしい呪いをかけることも可能だ。


 昔は魔女を除く人外たちは別種族との交流をほとんど持ってこなかった。しかし人間の科学技術が発達するにつれ、協力体制を整えるようになった。現代では地域サークルなどと称して人外コミュニティーを築き、バーベキューやビンゴ大会など、様々な催しを通して交流と情報交換を続けている。まどかと蓮もそのイベントがきっかけで幼少期に出会った、所謂幼馴染である。


「わたしっていう彼女がいながら他の女の血を吸うって浮気だよね!? ね、そうだよね!?」


「う~ん、浮気の定義はカップルによるんじゃないかな」

「付き合い始めた時、わたし以外の人の血を吸わないって約束したのに」


 ぶわりと涙がせり上がってきて視界が滲む。


「約束してたのに、それを破ったんだ? そりゃアウトだわ。っていうか、まどかがここまで嫌がることをしたのがまずダメだったね」


 光は眉尻を下げながらまどかの背中を摩ってくれた。


 吸血鬼の吸血行為は本能に直結しているため、恋愛対象となる性別の者から血を吸うと、少なからず性的興奮を覚えるらしい。それが恋愛感情を抱いている相手であれば酩酊状態に陥るくらい影響を受ける。


 だからまどかは、蓮と交際を開始した時に、自分以外の血は吸わないで欲しいと明確に告げていたし、蓮もそれを承知していたはずなのだ。


 ――それなのに。

 蓮はアサヒの血を吸っていた。こともあろうか、白昼堂々、まどかも通っている高校で。


 今回、蓮はアサヒの同意の上で吸血行為に至っているはずだ。


 今の時代の人外たちには、人間に存在を気取られないために制定した独自の法律がある。吸血鬼が本人の許可なく血を吸うのは違法だ。吸血鬼の能力を使って暗示をかけたり襲ったりすれば処罰される。

 アサヒは人間だが親戚に吸血鬼がいるため、彼らの事情に明るい。だから人目に付きにくい場所で蓮に血を吸うことを許したのだろう。


 アサヒの勝ち誇ったような顔を思い出して、怒りが再燃する。むかむかして吐きそうなくらいだ。


「でも、どうして急に浮気なんてしたんだろうね? 二人が付き合い始めたのって、高校入ってすぐだったよね? もう1年以上経つけど、蓮はまどかにべた惚れだったように見えたのに」


 光は不思議そうに首を傾げる。まどかはハッとして唇を噛んだ。思い当たる節があったのだ。


「……実は蓮、最近あまりわたしの血を吸いたがらなくなっていたんだよね」


 付き合い始めたばかりの頃、蓮は思春期の吸血鬼らしく、頻繁にまどかの血を欲しがった。とはいえ、毎日吸われていたのでは貧血になってしまうため、週1回とか多くて2回だったけれど。とにかく彼はまどかの血に夢中だった。衝動が抑えられなくなって同意なく襲ってしまうこともあるかもしれないと、一時的に吸血鬼の運動能力を下げる護符――先ほどまどかが投げつけたペンダント――をまどかに肌身離さずつけさせるほどに。


 それが1ヶ月半程前から、急にまどかの血を吸うと微妙な顔をするようになったのだ。何回か吸った後、「今日はいいや」と遠慮するようになり、最近では全く吸いたいと言われなくなった。

 今年の夏は一緒に海へ行こうねと約束した矢先だった。二人で過ごす夏休みを楽しみにしていたのに。


 だからこそ余計、蓮がアサヒの血を吸っていたことがショックだった。


「きっと、アサヒと浮気し始めたからじゃないのかな……。わたしのことが好きじゃなくなったから、もう血も吸いたがらなくなったんだよ、きっと」


 吸血鬼は人間に好かれやすいように外見が麗しく進化した種族だ。親戚が吸血鬼であり、その優秀な遺伝子を持っているアサヒは、他学年からも噂になるくらいの美少女だ。おまけに胸も大きくスタイルがいい。


 まどかは自分のなだらかな双丘を見下ろす。くそっ。乳の大きさだけが女の魅力じゃない。とはいえ、顔も成績も至って平凡な自覚がある。


 吸血鬼は人間の外見ではなく、その人の醸し出すオーラに惹かれるというが、それは祖父母から聞いた話だ。もしかしたら、最近の若い吸血鬼は外見も重要視しているのかもしれない。


(胸の大きさも顔も負けてるのに、そのうえ血まで負けたなんて……)


 悔しさと怒り、悲しみが溶け合って、心はもうぐちゃぐちゃだ。喉の奥に硬いものが詰まったような感じがして、息苦しくなる。


 涙を堪えて溜息を吐いた時、制服のポケットに入れていたスマホが震えた。蓮から新着メッセージが2件届いた通知だった。


 読みたくない、でも読みたい。相反する気持ちの押し合いで勝ったのは「読みたい」だった。


『さっきのことは誤解だ。説明させてほしい』

『今、まどかの家の前にいる。会って話そう』


「――はあ?」


 思わず、低い声が漏れた。視界の端で光がビクリと肩を揺らしたのが見えたが、そんなことに構っている余裕はなかった。


「会って話そう、だあ?」


 吸血(うわき)現場は押さえたのに、誤解もクソもあるものか。恋人を裏切った分際で、何故自分に主導権があると思っているのか。苛立ちが爆発する。


 まどかは調合室の壁際に置かれている自分専用の棚から、以前修行の一環で作った女神を模った人形を取り出した。まどかの魔力と相性のいい媒体である水晶を瞳にあしらい、古くて着れなくなった服をリメイクしたワンピースを着せた藁人形だ。この人形を家の敷地の中心部に埋めておけば、吸血鬼が家に近づけないようにする吸血鬼避けの魔法が発動する。家の中心部が室内でも植木鉢の土で代用可能である。


 人形と部屋の片隅に置かれていた土の入った植木鉢をひっつかむと、まどかは調合室を飛び出し、家のちょうど真中にある地下室の一室に駆け込んだ。植木鉢を部屋の中央に据えると、人形を土の中に埋める。その瞬間、金属が擦れ合うような甲高い音がした。魔法が発動した証拠だ。


「ふふふ、これで吸血鬼はうちに近づくことができなくなった」


 まどかはニタリと口の端を歪めると、スマホを取り出す。


『まどか、何か魔法を使っただろう!? 急にまどかの家の3軒先まで弾き飛ばされた』


 蓮からの新着メッセージに、笑顔で両手の中指を立てている少女のスタンプで返信する。

 更に彼からのメッセージの通知をミュートにしてやった。敢えてブロックはしない。


「二度と会話なんかしてやるもんか! 魔女(わたし)を怒らせたこと、後悔するがいいわ!!」


 お~っほほほと高笑いするまどかをドアの隙間からこっそり見ていた光は、後にこう語っている。あの時のまどかは、さながらディ〇ニー映画の悪役ようだった、と。


***


 次の日から、まどかは身につけている間は吸血鬼に姿を見えないようにする、対吸血鬼用認識阻害のアミュレットを装着して学校へ行くようになった。自宅には吸血鬼避け、自分には認識阻害。大人の吸血鬼をもってしても破れない最強装備である。まだ十代でひよっこの蓮には到底太刀打ちできまい。案の定、蓮は全くまどかに近づけなくなった。


 教師の中にも吸血鬼の者がいるため、授業によってはアミュレットを外さないといけなかったが、まどかにとっては幸いなことに、蓮は隣のクラスである。授業が終わる数十秒前までにはアミュレットを装着し、授業終了直後にやって来る蓮から姿を隠すことができていた。吸血鬼は音速に近い速度で移動可能な種族ではあるが、流石に人外の存在を知らない人間であふれている学校でそんなことはできない。


 吸血(うわき)現場目撃から3日。この日も蓮は昼休みに入るや否や、大急ぎでまどかのクラスに走ってきた。これで通算14回目の突撃だった。


「まどかーっ!! 話を……ああっクソッ、またダメか!」


 悔し気に教室を見渡す蓮を、一足早くアミュレットを装着したまどかは白けた目で見やり、光を伴って教室を出る。アミュレットはまどかと一緒にいる人にも効果が及ぶので、蓮から二人の姿は見えていない。


 二人は冷房の効いた空き教室で弁当を広げた。


「無視し続けていいの? 蓮、必死だったじゃん」

「いいのよ、あんな奴っ。あと2、3日もすれば諦めるでしょ」


 茹で卵を頬張りながら吐き捨てると、光が微妙な顔をする。


「話くらい、聞いてあげればいいのに」

「もう別れるって決めたのに、今更何を話せって言うの?」

「別れるんだったらなおさら、話し合いって大事だと思うけど」


 正論にぐうの音も出ない。まどかは弁当箱を机の上に置いて項垂れた。

 本当は、蓮からもう気持ちが冷めてしまったと言われるのが怖いのだ。


 蓮は流石吸血鬼と言うべきか、モデルとして活動していますと言われても納得できるくらいのイケメンだ。背も高いし運動神経もいい。勉強だって学年トップを争うくらいできる。性格も真面目で優しく、感情的になりやすいまどかにも根気強く向き合ってくれる理想的な恋人だった。


 大好きだった。裏切られた今でも本当に好きだ。だからこそ、苦しい。面と向かってさようならを突きつけられたら、心が粉々に壊れてしまいそうで。


 ――逃げているだけなのは、分かっている。


 しんと静まり返った空き教室に、突如として棘を含んだ声が響いた。


「あれ、こんなところにいたんだぁ?」


 扉の方を振り返ると、ピンクのリップに彩られた唇で弧を描いたアサヒが戸口に立っていた。彼女はずかずかと室内に入ってくると、優越感の滲んだ顔でまどかを見下ろした。


「まどかちゃん、大多喜くんが探してたよ? 困らせたらかわいそうじゃない」

「アサヒには関係ないでしょ」


「それが、関係あるんだよね~。あなたがきちんと別れてくれないと、わたしたちこの先に進めないんだもん。ほら、大多喜くんって真面目だから」


 ドクンと心臓が跳ね、そこから冷たいものが全身に広がっていく。


 蓮のことは、恋人であるまどかは良く知っている。それなのに、まるで自分の方が彼を理解しているという言い方が憤ろしい。


「大多喜くんね、わたしの血が美味しいって、すっごく夢中で飲んでくれたんだぁ」


 あの瞬間を思い出したように、アサヒはあらぬ方を見てうっとりと目を細めた。


「まどかちゃんも知ってるでしょ? 吸血鬼にとって、美味しいかどうかって、気持ちのバロメーターみたいなものだし」


 美味いから愛しいのか、愛しいから美味いのか。どちらが先かは定かでないが、吸血鬼は愛しい者の血を欲する。それが自然な反応のはずだ。 


 蓮はまどかの血を吸いたがらない。それが何を意味しているのかは、アサヒに訊かずとも察せられた。


「あのさあ、僕たち食事中なんだよね。用がないなら、もういいかな?」


 光がじろりとアサヒを睨め付ける。猫の獣人である彼の瞳孔が縦長になって、気が立っていることを雄弁に語っていた。


「それじゃあ、早く別れてね~」


 アサヒはひらひら手を振ると、周囲を魅了するような微笑みを浮かべながら教室を去って行った。


 感情に乗って荒れ狂う魔力を、腕につけた水晶のブレスレットをきつく握りしめることで何とか耐える。奥歯を噛み締めるまどかを、光は心配そうに覗き込んだ。


「まどか。あんな女の言うことを気にしちゃダメだよ。蓮から直接聞いたわけじゃないんだからさ」


「……分かってる」


 蓮の気持ちがアサヒに移ってしまったなんて、分かっていたことではないか。それなのに、どうしてこんなにも傷つくのだろう。


 蓮を好きな気持ちなんて、消してしまえたらいいのに。消しゴムでノートの文字を消すみたいに。


 しかし現実はそう甘くない。別れを決意したからといって、気持ちがその場で消えてなくなるなんて都合のいいことは起きないのだ。だからこそ、時が傷を癒すまで、まどかはこの苦痛を抱えて生きていくしかない。


 ――これ以上、傷つきたくない。

 落ち込みながらも蓮を避け続けて更に3日が過ぎた日。ついに蓮は強硬手段に出てきた。


***


「やっとつかまえた」


 吸血鬼の教師が担当する数学の授業の直後、アミュレットを装着しようとしたら突然誰かに腕を取られた。驚いて見上げると、眉間に皺を刻んだ蓮が立っていた。いつの間に教室へ入ってきたのだろう。彼のクラスは直前に体育の授業がある。更衣室で着替えているから来られないだろうと油断していた。


「放してよ」

「断る。ちょっと来て」


 有無を言わさず、蓮はまどかの腕を引っ張って立ち上がらせ、そのまま教室を出ていってしまう。引きずられるようにして屋上へ続く階段を上る。屋上へ出る扉は施錠されているため、その手前で蓮は立ち止まった。


「ここなら、滅多に人がこないから、ゆっくり話せる」

「次、わたし美術なんだけど。移動教室だから」


 手を振り払って逃げようとしても、がっちりと掴まれていてびくともしない。


「悪いけど、さぼって」

「はあ!?」

「こうでもしないと、まどか俺のこと避けるだろ? メッセージも未読スルーするし」


 蓮の言う通りなので否定できない。悔しくなって、まどかは俯いた。


「こないだの件だけど」

「聞きたくない!」

「いいから、聞いてくれ」

「浮気者の言い訳なんか、聞きたくない! わたしたちはもう終わったの」

「勝手に終わらせないでくれよ!」


 普段滅多に声を荒げない蓮が声を張り上げて、まどかは竦み上がった。


「大きな声だしてごめん……。でも、俺はまどかと別れたくなんてないから」

「――はあ? アサヒと付き合うことにしたんじゃないの?」


 蓮は怪訝そうに首を傾げた。


「何で俺とアサヒが付き合うんだ?」

「だって血を吸っていたじゃない!」

「あれは、応急処置だったんだよ」

「応急処置?」


 蓮は真直ぐにまどかを見つめた。


「あの日、アサヒと俺は日直でさ。科学の先生に頼まれて、化学準備室に備品を返しに行ったんだ。準備室を出る時、運悪くアサヒが壁から突き出してた釘に手を引っかけちゃって、結構血が出たんだ」


「……それで止血したって言いたいの?」


 まどかの問いに、蓮はぎこちなく頷いた。

 吸血鬼の唾液には痛みを和らげる効果と止血作用がある。だから、思わぬ怪我をして気が動転していたのもあって、咄嗟に舐めてしまったとでも言うつもりなのだろう。しかし、だ。


「それにしては、夢中になってアサヒの手に吸い付いていたけどね」

「あ、あれは」

「さぞかし美味しかったんだろうね? 思わず声に出しちゃうくらい」

「……ごめん」

「ごめんで済んだら警察なんていらないんだよ!!」


 どこかのチンピラみたいな台詞を吐き捨てるまどかに、蓮はばつが悪そうに視線を彷徨わせた。


「好きな子の血は美味しんだもんね? どうせわたしの血は不味くて飲めたものじゃないですよ!」


 蓮は小さく息を呑んだ。


「何でそれを」


「何で知ってるかって? だって蓮、最近わたしの血を吸うたび、苦い薬でも飲んだみたいな顔してたじゃない! 近頃は全然欲しがらなくなったのも、わたしのことが好きじゃなくなったからなんでしょ!? だからわたしの血が不味く感じるんでしょ!?」


「違う!」


 蓮はまどかの腕を掴む手に力を込めた。痛みに顔を顰めると、彼はハッとしたように力を緩めたが、放してはくれなかった。


「いや、まどかの血の味が、その、ちょっとアレなのはそうなんだけど」

「何ごにょごにょ言ってるの!? ハッキリ言いなさいよ!」

「俺がまどかを好きじゃなくなったなんて、そんなことあるわけないだろ!」


 蓮の黒い瞳は真剣で、とても嘘や誤魔化しを言っているとは思えなかった。


「俺は今も、これからも、ずっとまどかが好きだよ。まどか以外の血なんて欲しくない」


 鼻の奥がツンとして、抑えていた涙がこみ上げてくる。

 その言葉を信用できたなら、どんなに良かったか。


「そんなこと言いながら、アサヒの血を堪能してたじゃない!」

「それは」

「いいんだよ、もう、ハッキリ言って。覚悟はできてるんだから」

「まどか……」

「わたしのことが好」

「まどか、無理なダイエットしているだろう!」


 被せるように蓮の口から飛び出した言葉に、まどかはポカンと口を開いた。


「えっ??」


 蓮は葛藤するように目を伏せ、まどかの困惑にも気付かないまま続ける。


「まどかを傷つけるかもしれないし、本当はこんなこと言いたくなかったんだ。でも、海に行こうって話をした頃から、まどかの血は急に不味くなったんだよ。最初は何でだかわからなかったけど、親父に訊いてみたら、もしかしたらダイエットしてるんじゃないかって。栄養がスッカスカの人間の血はものすごく不味いらしい」


 蓮の父親は齢数百年の吸血鬼だ。当然戦時中や戦後の食糧難の時代も経験していて、栄養失調の人間から血を吸っていた。その頃の体験談だろう。


 確かに、まどかは海に行く約束をしてから食事の量を極端に減らすダイエットをしていた。だって、海に行ったら当然水着を着ることになる。蓮には痩せてキレイになった自分を見てもらいたかった。


 それなのに、まさかいじらしい乙女心が原因で血がクソ不味くなってしまったなんて、何という皮肉だろう。

 まどかは恥ずかしいやら情けないやらで顔が熱くなった。


「だって、お腹ぷよぷよな姿なんて、蓮に見られたくなかったんだもん」

「女子って、何で必要もないのに痩せたがるんだろうな」


 蓮は呆れたように溜息を吐いた。彼は優しくまどかの腕を引いて抱き寄せると、愛しくてたまらないといった風に頬ずりしてきた。


「まどかは今のままでも充分可愛いんだから、無理に痩せる必要ないんだよ。それに、俺はまどかが太ろうが痩せようが、どんな体形でも好きでいる自信がある」


「じゃあ、アサヒの血を吸って美味しいって言ったのって」


「あれは単に、久しぶりに人間から直接血を吸ったっていうのもあるし、あいつ日頃から美容に気を遣っていいもの食べてるんだろうな。栄養たっぷりの健康的な血の味だった」


 何でも、風呂上がりに炭酸飲料とか、フルーツ牛乳を一気飲みした後に「ぷはーっ、美味い!!」と言いたくなるのと同じような心境だったらしい。


「じゃあ、アサヒが好きだから血が美味しく感じた訳じゃないのね?」


 蓮は心外だと言わんばかりに眉間を狭めた。心なしか唇が尖って見えるのは、まどかの気のせいだろうか。


「俺たちは吸血鬼は確かに、美味そうな人間に惹かれる。だけど『美味そう』っていうのは比喩なんだよ。少なくとも俺は、恋愛的な魅力があるかないかはオーラで判断してる。オーラにはその人の生きざまとか性格、気分なんかも全部滲み出てるからな。そりゃあ、好きな子から血を吸うのは特別な触れ合いだから凄くドキドキするし、本来の血の味よりもっと美味く感じる。でも血はあくまでその人のおまけであって、血の味だけで好きになるわけじゃない」


 吸血鬼にとって、健康な人間の血は栄養満点で美味しい。それに恋心というスパイスが加われば相乗効果でより美味しく感じるが、血の質が低下した場合は、恋のフィルターを通しても味を誤魔化せなくなるらしい。


「じゃあ、もしわたしの血が不味いままだったら、蓮はどうするの?」

「その場合は、輸血用の血液パックに頼り続けるだろうな」

「ほかの女の子の血を吸いたくなるんじゃない?」


「俺はまどかの血が目当てで付き合ってるわけじゃない。まどかが好きだから一緒にいたいんだ」


「そっか……」


 蓮の言葉がじわじわと染みてきて、まどかの胸は歓喜に満ち溢れた。自然と頬が緩む。


「わたしのこと、嫌いになった訳じゃなかったんだ」


 蓮がまどかを好きでいてくれて嬉しい。これから先も、一緒に思い出を作っていけるのが楽しみだった。


 ――でも、だからこそ、ここでハッキリさせておかなくてはいけない。


 まどかは蓮から一歩距離を取って、じっと彼の黒い瞳を覗き込んだ。彼女の様子が変わったのを感じ取ったのか、彼も背筋を伸ばす。


「あのね。わたし、蓮が他の人から血を吸ってるの見てすっごく傷ついたし、悲しくなった。例え応急処置だったとしても、嫌だった」


 憶測に過ぎないので口にはしないが、今回のことはアサヒに上手く利用されたのではないかと思う。

 怪我をしたのは本当に偶然だったのだろうが、彼女は前から蓮を狙っていて、血を使って蓮を誘惑する絶好のチャンスだと考えたのではないだろうか。


 応急処置は何も吸血鬼にしかできないわけではない。ハンカチで傷口を押さえてすぐに保健室に行けばよかったのに、わざわざ他人に目撃される危険を犯してまで蓮に傷口を舐めてもらう必要はなかったはずだ。現に、まどかは偶々通りかかった廊下で妙な音がしたので二人に気付いたのだ。発見したのが何も知らない人間だったらと思うと肝が冷える。


「そうだよな。ごめん。俺が考えなしだった」


「わたしにとっては、吸血行為ってキスと同じくらい親密なスキンシップなの。もしわたしが誰か他の男子とキスしてたら、蓮はどう感じる?」


 すると想像してみたのか、蓮の瞳が一瞬で紅くなった。感情が昂った証だ。彼は口を片手で押さえた。牙が疼くのだろうか。


「それは、滅茶苦茶腹が立つ。相手の男ボコボコにしちまいそう」


 蓮は気持ちを落ち着けたいのか、数回深呼吸した。ギラギラしていた紅い瞳がゆっくりと元の黒へと戻っていく。


 蓮はそっとまどかの両手を取った。親指で手の甲を撫でられると、背筋がゾクゾクする。


「本当に、俺が悪かった。まどかを悲しませることはもう二度としないって誓う。だから、俺とやり直してくれないか? まどかのことが、本気で好きなんだ」


「わたしも、酷いこと言ってごめんね。蓮のこと大好きで、もう気持ちがなくなったって言われるのが怖くて、話も聞かずに逃げちゃった」


「そういうちょっと思い込みの激しいところもひっくるめて、大好きだよ」


 まどかは満面の笑みを浮かべて、蓮に抱きついた。彼も躊躇なく抱きしめ返してくれる。


「もう、ダイエットはやめるね! ちょっとくらいお腹が出てても、蓮はわたしのこと好きでいてくれるんでしょう?」


「当たり前だ」


 今夜から、きちんとご飯を食べて栄養を摂取しよう。蓮にはまたまどかの血を求めるようになって欲しいし、美味しいと思って欲しい。だって、蓮に血をあげるのは、恋人であるまどかだけの特権だから。 


 ふと、窓の外で蝉が鳴く声が聞こえた。

 これから本格的な夏がやって来る。二人で過ごす、熱い夏が。

誤字脱字は見つけ次第修正していきます。

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