新生活 1
春の柔らかな光が廊下へ差し込み高校生活を謳歌する生徒達を明るく照らす。耳に刺したイヤホンから流れるジャズのピアノとサックスの音色を聴きながら俺はそんな生徒達を避けて日陰を進んだ。部活にも所属しておらず学業を終えた今わざわざ学校で残る意味も無い。バイトをして、家の事をして、寝て学校に行く。それを繰り返す毎日だ。
(あれは……)
階段を降りた所で立ち止まる。すれ違った学生の奥、そこにいた女子生徒に見覚えがあったから。その女子生徒は級友だろうか、同じ学年の女子生徒と話しながら廊下を歩いている。彼女の新しい紺色のブレザー制服は袖の丈があっておらず少しだけ邪魔そうに見えた。
「さっきの呼び出しコトちゃん、また告白されたんでしょー」
声がよく響く廊下と彼女の級友らしき女子生徒のやけにテンションの高い声で二人の会話が筒抜けになっていた。
質問の答えに彼女が肯定するように頷く。そのタイミングでこちらに視線が向き、俺に気がついたように見えた。
彼女は隣にいた女子生徒へ何か言って軽く頭を下げ、こちらへ手を上げ駆け寄ってくる。
真っ黒の長い髪を左右に揺らし、黄色の大きな目を細めて笑いながらこちらへ駆け寄ってくる彼女はやっぱり俺の幼馴染、天使琴音だった。
「ジャック先輩!」
俺より頭一つ分ほど低い所から明るい声でアマツカが俺の名前を呼ぶ。
金糸ジャック。名前の方は教会の牧師がつけたらしい。こと日本に住んでいる俺にその名前は違和感しか無いがついてしまったものは仕方がない。
「よっ、天使も帰り?」
俺はそう応えながら耳からイヤホンを外してケースにしまう。
「ですね。先輩は相変わらず一人で帰宅ですか?」
「そうだね、残念ながら」
俺はそう言って頷いた。クラスで話す級友くらいはいるけれど、こうして一緒に帰るほどの友人はいない。
「じゃあ帰る方向も同じだし仕方ないので一緒に帰ってあげましょう! 最近告白された、モテモテの、この私が、特別に!」
胸に手を置き、自信ありげにこちらを見上げて強く言う。目もなんだか輝いているように見える。
「じゃあ今が旬のアマツカだな」
「旬って食材じゃないですよ私」
まるで俺が冗談を言ったように軽く笑う。いや本気で思ってもいないけれど。
「油が乗ってるんだな」
「のっ乗ってません!」
俺の顔を勢いよく見上げて言い切った後、いや、乗ってない……よね、と腕を回し自分の脇腹を覗き込みながら呟いている。
それを見て俺は軽く笑った後
「別に今が旬も食材だけに使う言葉じゃ無い。今話題のみたいな意味だよ」
油が乗ってるも食材繋がりの冗談だ、と付け加えておく。
アマツカはなんだ、と安心したように言った後
「先輩、勉強できないのになんでそんな事だけ知ってるんですか」
そんな呆れたような物言いに廊下を歩きながら「失礼だな」と苦笑いを浮かべた。
その隣をアマツカが当たり前のように並んで歩く。
「……良いの? 告白されたんでしょ」
アマツカは「え?」と何のことか分かっていないような表情を見せる。それから「あぁ」と呟いて頷いた。
「大丈夫です! お断りしたので」
俺は「そっか」とだけ呟きさっさと二年の下駄箱へと向かった。
靴を履き替えながら俺はホッと息を吐き出す。もしアマツカに彼氏が出来たら俺は……
(……どうするんだろう)
「そっかって、もー」
後ろから不機嫌そうな声と共にアマツカが追ってくる靴音が聞こえる。
それから何気ない今日あったことの話をしながら同じ帰り道を途中まで進む。
その後、俺は「こっち曲がるから」と一言伝えて普段使わない信号を待った。
「今日は教会に向かうんですか?」
俺は頷く。今日は教会からの仕事の給料日だ。教会で給料の受け取りをしなくてはいけない。
「じゃあ一緒に行きます。ちょうど私も教会に用事ありますし」
二人で信号を渡りしばらく歩く。
アマツカが「ほんとに大きいですよね」と民家の屋根の上、まだ遠いはずの教会の塔の先を見上げながら呟いた。俺も合わせて教会の先を眺めながら歩く。
「昔の建物一つでこじんまりとしてた教会とは大違いだな」
「んー、どうでしたっけ。その頃のことなんてよく覚えてますね」
覚えてる、と答える。はっきりと父と母の姿と共にもう焼け落ちた過去の教会の姿が思い浮かぶ。
それが今では首が痛くなるほどの塔が聳え立ち、アーチ型の大きなステンドグラスの窓が外へ七色の光を放つ姿へと変わった。白を基調とした壁が建物全体に使われるこの建物一つでこの町の治安維持、法律、財務全て賄われている。あれからこの街は大きく変わったのだ。
『光翼教会 天原支部』
出入り口の所にデカデカと掲げられたこの教会の名前を見ながら先へと進む。
両開きの自動ドアを潜ると内装は古めかしいゴシック様式の外観とは真逆で滑らかな床やLEDのライト、案内ディスプレイなどがあり近代化されていた。
中ではスーツ姿の人や町の人たちが行き交い、どこかの部署にはここから見えるほどの列が並んでいる。
「あれ、アマツカちゃん!」
突然、男性の声が背後から聞こえ俺は声の方向へ振り返った。
顔を半分ほど隠す黒いフード付きのコート、胸の所には教会の紋章、鷲のような二対の翼が刺繍されている。背中に大きな槍を背負った男性だ。アマツカの知り合いだろうか。
「どうも、お久しぶりです」
そう言ってアマツカは男性に軽くお辞儀をする。男性はフードを外し歯を見せてにこやかに笑い「おっと友達も一緒か! ほな邪魔しちゃ悪いな、また仕事でなー」そう言い残し手をあげて去って行った。
男性は物騒な物を持っていたけれど、あれも仕方のない事だ。あの服装からして異端審問官なのだろうから。
「騒がしい人で、すいません」
と、アマツカが俺の方を見上げ苦笑いを浮かべている。俺は構わない、と首を軽く横に振って返す。それにしても仕事とはなんの話だろう。アマツカはバイトをしていない筈だ。部活をするつもりだからバイトはしない、と聞いたことがある。
「じゃあ私はちょっと行ってきますね。また、ここで落ち合いましょう」
そう言って聞く間もなく教会内のどこかへ走り去って行った。
「……ああ、また」
その後は給料を受け取り再びアマツカと合流してから何事もなく自宅のあるマンションへとたどり着いた。
両開きのガラス扉を抜けてエントランスを進み二人でエレベーターを待つ。
「先輩って、なんでちょっと髪に青色入ってるんですか?」
「青? そうなの?」
俺は首の辺りまで伸びてきた後ろ髪を指で撫でる。
これが普通の黒色だと思っていたので髪の色なんて気にした事が無い。
「染めてる……訳じゃ無いですよね。自然とそうなる物なのかな?」
隣でアマツカが俺の髪を見上げながら呟いている。
その時、ちょうどエレベーターがやってきたので二人で乗り込んだ。
「ちょっと屈んでください」
俺が言われた通り少し屈むとアマツカの指が後ろの髪を梳いていく。ゾワゾワとしてこそばゆい。
「伸びてますねー後ろ」
「前と違って切りずらいからね」
「あっ! また前髪自分で切ったんですか……あー確かにちょっとボサボサ」
後ろからため息が聞こえてくる。
「この時代にいるですね。自分で髪を切ってる人」
俺は「いるだろ、別に」と軽く笑いながら背の伸ばしエレベーターから降りる。アマツカもその後に続く。
オシャレに関心がない人とかだっているだろうし、まぁ俺の場合は関心がないわけでは無いが……視線を自宅の方へと向ける。ここからでは角が邪魔で見えなかった。
(まぁ、色々と事情がある)
「そうだ。アマツカ、どっか次の休みでも遊びに行こうよ」
「え! ほんとですか!」
そう言って目を輝かせるアマツカの様子に俺もつい微笑んでしまう。
幸い、先月の俺が頑張ったおかげで軽く遊ぶくらいの余裕はあった。
「うん。どこか行きたい所あるなら着いて行くし、無ければ久々に商店街の方、散歩しようかなって感じ」
「あっ! 商店街ってあれ?あのー、前言ってたブックカフェ?」
アマツカの口調が昔みたいに砕けていた。学校生活を送るうち、いつの間にか敬語に変わっていた口調もアマツカが気を抜いたりテンションが上がった時なんかはたまに昔みたいに戻る。俺はあまり気にしないがそういう所もちゃんとしておきたいのがアマツカの性格だった。
「うん。行きたいなーって」
「行きましょう! えーと、じゃあ、また……後で予定表見て連絡しますね!」
アマツカはスマホを握りしめ手を振りながら自宅の方へ駆けて行く。
「約束ですよ!」
俺もその言葉に頷いてから自宅の方へと向かった。
「……」
ふと自宅の中から人の気配がする。この時間の家には大体俺以外いないはずなのに。
閉まりきっていない扉から嫌な予感がする。
「親父……」
親父が部屋の壁にもたれ掛かり座り込んでいた。その顔は赤い。日本酒の酒瓶を手に持っているので、今日はあれを飲んでいたのだろう。見ると部屋の箪笥や引き出しが全部開け放たれていた。
(やけに荒れてるな)
刺激しないよう部屋の隅へ静かに鞄を置く。
(ただいま、母さん)
部屋の中で唯一荒らされていない神棚に向かって軽く会釈する。
一旦、外へ出ていようと部屋から背を向けた時だった。
「おい! 金を置いてけ!」
背後から怒号が聞こえてくる。
いつだって親父が俺に話しかける理由は金の無心だ。
「親父に渡せる金なんて無いよ」
俺は親父の方へと向き直る。親父は変わらず壁にもたれかかったまま、こちらを見上げて睨んでいる。
家の支払い、食費、その他諸々の支払いまで俺の給料から払っている。お陰で常に家計は火の車状態。今はまだ親父の就労支援金が教会から支払われているものの、それももうすぐ終わる。
(それに今渡せばアマツカとの約束も果たせなくなる)
そんな事を考えていた時だ。
突然、鼻先に鈍い痛みが走った。俺はその衝撃に弾かれるように背中から床へ倒れ込む。
咄嗟に背後へ手をついたものの鼻の辺りが生暖かい。それはやがて唇の辺りまで指で撫でるように垂れてきて手をついていた近くの床へ赤い雫となって落ちた。鼻血だ、と気がつくと同時に空いた日本酒の瓶が俺の視界の端から転がってくる。どうやらあれを投げつけられたらしい。
(当たりどころが悪ければ最悪……)
ふと、何気なく鼻血を拭うために伸ばした手が震えているのに気がつく。
見ると親指についた真っ赤な液体と小刻みに揺れる手がまるで自分のものじゃないかのように思えた。
「出せよ! 金!」
突然そんな声と共に脇腹に衝撃が走る。蹴り上げられたと理解する頃には頬を強く床に打って倒れていた。痛みが頬骨に沿ってじんわりと体に広がっていく。
イッテェ、と声を漏らす俺の着ているブレザーが親父に剥ぎ取られる。返せよ、と立ち上がろうとした俺の背中を親父は踏みつけてきた。
「くっそ!」
悪態を吐きながら見上げる俺の前で親父はポケットから先ほど受け取ったばかりの茶封筒を抜く。
奪い取られた茶封筒が親父のポケットへと吸い込まれて行くのを見てから俺はゆっくりと頬を再び床につける。それから剥ぎ取られた拍子に弾け床に散乱しているボタンをぼんやりと眺めた。
「くそ」
何が教会だ。何が神様だ。
いつだって救いなんかないじゃないか。
「これじゃ足りねぇよ」
そんな声が頭上から聞こえてくる。
だが無いものはないので聞こえなかったフリをして目を瞑る。その拍子に頬の上を温かいものが滑っていく。それは目の縁の方から続いている。
「泣いたって何も解決しねぇよ」
奥歯を強く噛んで鼻を啜りあげる。
「大丈夫、痛くない。痛くない」
そんな声がふいに脳裏をよぎった。記憶の中の姉貴の声だ。
転んで泣きだした俺を慰める優しく落ち着いた声色。いつ誰に教わったのかスカートを折ってしゃがみ、髪を撫でる手はいつの間にか俺と鬼ごっこをして泥だらけになっていた姉貴とは違っていた。
そんな姉貴は中学卒業後、消えた。教会の事務をしているらしいが未だに教会で出会したことはない。一年ほどくらい前からあちらから連絡も来なくなっていた。
俺は何故だか痛みに堪えるたび、あの日の光景を思い出す。
ふと気が付くと家のチャイムが鳴っていた。
手をつき体を起こす。目元を強く腕で拭う。隣の人から注意か、警察だろうか。それとも何かの勧誘か支払いの催促か。なんにせよ無駄だ。この家はもう既に狂い過ぎている。
「くそっ早いな」
親父がそう呟いて早足で玄関の方へと歩いていく。心当たりがあるようだがなんの話だろうか。まぁ、どうせ碌なことではないだろうけど、と立ち上がり部屋から廊下の方を見ると玄関で黒いジャケットに黒いサングラスの男性数人が親父と口論をしていた。
「足りない足りない言われてもよ。もう家には何も無いから仕方ないだろ」
「じゃあ退去。あと差し抑えするからどけ」
「俺の家の物に勝手にさわんじゃねぇ」
親父の肩を掴んでいた手を親父は振って外し、横を通ろうとした男性の肩を逆に掴んだ。
「こいつを抑えとけ」
掴まれたはずの男性はびくともしないまま振り返り部下らしき人にそう指示を出す。
「「はい!!」」
その後、しばらく親父は抵抗したもののあっという間に男性二人がかりで床に組み伏せられた。
ここまでされてようやく負けを悟ったのか親父は歯軋りしながらも抵抗の動きを止めた。
ふと、俺は廊下を歩く男性と目が合う。無機質な冷たい目をしているように見える。
「待てっ頼む!」
親父が叫び、ふいに俺と目があった。
そうだ、と何かを閃いたように親父は呟き…………
「こいつが払うから! 前から思ってたんだ、一々小言はウゼェし、死なねぇかなって!」
親父が俺を指差しながら叫んだ。
俺は「は?え?」と思わず声に出していた。口をポカンと開けたまま親父の方を見る。
「は? じゃねぇよ。役立たずの無駄飯食いをここまで育ててやったんだからさぁ! 最後くらい俺の役に立てよっクズ!」
そんな親父の怒号が廊下へ響いていく。
「……え?ちょっと待ってよ」
親父が何を言っているのか頭が理解を拒んだ。分かりたくなかった。
「おい! お前! あるだろ、教会の表に出せないような仕事。こいつがどうなったかは聞かないから、最悪臓器でもバラして借金の返済に当ててくれてもいい」
俺を見て話にならないと思ったのか親父は俺の前に立つ黒服に向かって声をかける。
だから!と親父はさらに語気を強めて言う。
「この家だけはやめてくれ!」
親父は組み伏せられたまま額を床につけて「頼む」と男性に初めて乞う。
どうやら俺は親父に今、売られているらしい。部屋の天井を何となく見上げ呟く。
「ほんとこの世に神も仏もないな」