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君の背中

作者: 沖田ノボル

最近、夜が少しずつ長くなったと感じる。

9月にもなるんだから、当然と言えば当然だと思う。

そんな秋の夜長に、愛犬のポロが死んだ。

16歳という寿命を全うし、家族に看取られて虹の橋を渡っていった。

出張の前日、母から「ポロの容態が良くない」と電話があった。

「大丈夫なの?」

「ううん。あんまり良くない」

母はそう答えても、帰ってこいとは言わなかった。

僕も、さすがに出張を放り投げて帰ろうとは思わなかった。

「出張が終わったら帰るよ」

それだけ言って、次の日から3日間の出張に出かけた。

仕事をしながら、ポロのことが頭からずっと離れなかった。

10歳の時に初めて飼った犬。白のポメラニアンの男の子で、家に着いてすぐでも、物怖じせずに部屋を探検した。

とても利口で、来客でも吠えなかったし、おやつの隠し場所を何度も変えても突き止めたりした。

僕が嬉しいことがあると、一緒にはしゃいでくれて、僕が泣いているときは、傍に寄り添ってくれた。

僕の膝の上がお気に入りで、飛び乗って一緒にテレビを見たりもした。

大学に入ってから僕が一人暮らしを始めると、ポロとの時間は少しずつ減っていった。

それでも実家に帰ってくれば、尻尾をぶんぶん振って大喜びしてくれた。

出張が終わり、直接実家に帰るべく、新幹線に乗っていた時間に、ポロは息を引き取った。

実家に帰ってくると、家の中はしんと静まり帰っていた。ポロがもう、僕が帰ってきて鳴かなくなったからだ。

お気に入りの座布団の上で、すでに冷たくなったポロを撫でながら、僕は涙が止まらなかった。

僕だってポロの最後を看取ってやりたかった。でもポロよりも仕事を優先した。それは仕方ないことなのかもしれない。でも、ポロにとっては、仕事なんて関係ない。ずっと僕の帰りを待っていたのに、僕は来なかったのだ。

僕は残酷なことをしてしまった。

これまでのポロとの16年間が、こんな形で終わってしまうなんて。

その夜、僕はせめてポロの亡骸の隣で寝ることにした。

もしかしたら、ポロがまた起きて、僕の横で眠りだすんじゃないかと、虚しい期待をして。


いつかはこんな日が来るとは思っていた。

犬の寿命は人間のそれよりも遥かに短い。だから、彼らは1分1秒でも、人から愛されたいのだ。

僕がいなくなって、ポロは気の遠くなる時間をずっと待っていたようなものだ。

そう思うと、また涙が出てきそうになった。

さすがに仕事にならなくて、翌日は有給を取得して、実家で過ごした。

でも、ポロがいなくても日常は過ぎていく。

1日休んだだけでも、仕事は溜まっていくので、翌々日から仕事を再開し、忙しなく1日が終わり、また新しい1日が始まっていく。

ポロのことを思い出すことはあっても、もう涙は出なかった。

彼は僕の思い出として、心の中で生き続けている。そう思っていた。

「三野さん、大丈夫ですか?」

昼休憩前に、後輩の柏木さんが声を掛けてきた。

「最近、仕事中にぼうっとしたり、辛そうな顔してますけれど」

「そんな風に見える?」

「はい。とても」

新卒でこの旅行会社に入社し、僕のいる企画営業部に配属された柏木さんは、時々鋭いと感じることがあった。

「まあ、ちょっとね」

確かに、ポロのことで気持ちは落ちこんでしまっている。

しかし、それを後輩に悟られてしまうと思わなかった。

「・・・この間、実家で飼ってた犬が亡くなってね」

「えっ」

柏木さんに余計な心配をかけたくなくて、彼女には正直に話すことにした。

「出張が終わってすぐ実家に帰ったんだけど、間に合わなくて」

「・・・ごめんなさい。そうとは知らず」

「いや、いいんだ。僕の方こそ、ごめんね」

話したはいいものの、お互いに気まずくなって、僕は早めに昼食を取りに外へと出て行った。


昼休憩の後、課長に呼び出された。

仕事で何かやらかしたかと思ったが、どうやら有給をちゃんと消化してほしいと総務に言われてしまったとのことだった。

一応、5日分の有給は今年はもう取得している。しかし、昨今の働き方改革やコンプラ重視の世間の流れで、会社として8日は有給取得をするというノルマを設定していたらしい。

そういうわけで、あと3日の有給を早めに取るように言われた。

席に戻り、そのことをぼんやり考えていると、柏木さんが隣から小さな声で呼びかけてきた。

「先輩、これ」

ホッチキスで留めた紙の束を差し出してくる。

「以前、うちの会社で企画立ててた旅行プランなんですけど」

流し読みしてみると、瀬戸内海の離島のツアーに関するものだった。「犬神の宿る神秘のパワースポット巡り」というテーマだった。

ありきたりなパワースポットの特集ではあったが、内容が犬にまつわるものばかりだった。

ペット同伴での旅行でピックアップしていたのだろう。

「さっき課長から有給取れって言われてましたよね。良ければ、ここに行ってみるのはどうですか?」

柏木さんなりに、僕に気を遣ってくれているのだろう。

「ありがとう」

思わず軽く噴き出して、僕は書類をファイルに挟んだ。

「そうだね。行ってみるよ」

これも何かの縁かもしれないと思い、僕は有給申請をすることにした。


旅行なんて、社会人になって初めてだった。

これまで忙しさを理由に遠出をしていなかった。それに学生時代と違って、友達と予定を合わせられずらくなっていたから、都内で遊びを済ますことが多かった。

荷物をバックパックに適当に詰め込んでいると、ふとポロの首輪が目に入った。

母から遺品として譲り受けたものだ。

これから向かう島は、犬の供養をしてくれる神社があるらしい。

せっかくだから持っていくことにした。

有給初日。

新幹線と電車を乗り継いで、愛媛にやってきた。

そこの旅館で一泊した後、船で目的の島に着く。

船着き場からさらに歩いて20分の距離に、深い森があって、その奥に神社があるようだ。

晴れ晴れとした青空の下、ひたすら坂を登って森の入口を目指す。

観光客はほとんどいなかった。

民家はちらほらあるが、人通りはなく静かだった。

長閑で開放的だが、人の営みを感じる空気が流れていた。

しかし、森へと近づくにつれ、その空気が澄んだものに変わっていく。

少々暑かったため、汗だくになってようやく森の入口に着いた。

そこで休憩にと、ペットボトルのお茶を飲んでいると、静かな視線を感じた。

「・・・・」

一匹の白い柴犬が、森の入口でこちらをじっと見つめている。

首輪はついてないから、おそらく野良犬だろう。

僕がお茶を飲み終わったタイミングを見計らうように、柴犬は後ろを向いて、また僕の方をじっと見つめてきた。

まるで「ついてこい」とでも言っているようだった。

涼し気な風が杜へと吹き始め、何か神秘的なものを感じる。

誘われるように、僕は柴犬の後をついて行った。


神社まで道のりは険しかった。

高い段差が何度もあり、左側に急な崖も見えた。

柴犬はほいほいと慣れた様子で、高い段差も崖沿いの道も、軽い足取りで進んでいく。

時々、僕のペースが落ちると、その度に柴犬は止まって僕の様子を見守っていた。

そして、僕との間に一定の距離を空けて、また歩き出す。

なんとなく、この柴犬が僕を神社へと導いている気がしていた。

森を進んでしばらく経った頃、古い石造りの鳥居が見えた。

柴犬と鳥居をくぐると、1匹しかいない苔が茂った狛犬と、古びた小さな社が見える。

社への石畳以外は落ち葉で覆われていた。

そこにまた風がふっと吹いてくる。

「おや、お客さんかい」

背後から急に声がして振り向くと、ゴミ袋と箒を持った、小柄な老人が立っていた。

「わざわざこんなところまで、よう来なすった」

老人はニコニコと笑いながら、頷いている。

「あの犬に付いてきたんです」

柴犬は尻尾を立たせながら社の前に座っている。

「あー、あんたも縁に導かれたか」

「縁?」

「うん。この神社はね。お犬の飼い主がよう来るんだ。それも、お犬を亡くしたもんがね」

内心、ドキッとした。

老人が柴犬に近づき、顔をわしゃわしゃと撫で始める。

「死んだお犬は、一度ここにやってくる。ここで清められて、魂は極楽へ行くってわけだ」

「・・・ここの神主さんですか?」

「いんや。ただ掃除しにくる老いぼれさね。島に住んでから、毎日ここに来とる」

老人に撫でられた柴犬は、ブルブルと体を振るわせる。

「あんたもお犬の飼い主かい?」

「はい。・・・正確には、だった、ですけど」

そこにまた風が吹き、落ち葉をふっとさらっていく。

柴犬が僕の方にやってきて、前足で僕の膝をとんと叩いた。

そして、社の左側へと歩き出す。

「なら、ついて行ったらええ。ほら」

老人にも促され、僕は柴犬の後をまたついて行った。


社から少し離れたところに、御神木があった。

少し奥の方に傾いていて、なだらかなカーブを描いている。

その隣には、絵馬を飾るように犬の首輪が掛かっている場所があった。

「ほら、まるでお犬が背中を向けて座ってるようだろ」

僕の隣で老人が御神木を見上げながら言った。

確かに、そう見えなくもない。

ポロもよく僕に背を向けて座ることが多かった。

「お犬は信頼している人には背中を向ける。なぜだか知ってっか?」

「無防備な背中を預けられるから、ですか?」

「それもあるがな。お犬は人を守ってるのよ」

老人はニタニタと笑いながら言った。

「いつだって傍にいて、あんたを守るってな。お犬は忠誠心が強くて何も言わない。でもそうやって背中で語ってるのよ」

ポロもそうだったのだろうか。

ふとポロのことを思い出そうとすると、柴犬がまた僕の足をトンと叩き、御神木の近くにベンチに視線を移した。

「座れ」ということか。

ベンチに座ると、御神木がちょうど背中を向ける形で眺められる。

ポロの首輪をバックパックから取り出してみた。

プレートにポロと名前の彫ってある首輪を、指でそっと擦ってみた。

なんでもっと、一緒にいてあげられなかったんだろう。

時間が限られているのはわかっていたのに。

思えば、ポロはいつだって僕の傍をついて離れなかった。

夜寝るときも、僕のベッドの横で丸まって眠っていた。

僕が風邪をひいてぐったりした時も、傍で背中を向けて座っていた。

ポロは、ずっと僕を守ってくれたんだ。

辛いこと、苦しいことがあっても、家に帰ればポロがいる。

そういう生活だった。でも、もはやその日々は失われた。

「ごめんな」

思わずそう呟いた。

その時、膝に何かが触れる感触がした。


驚いて首輪から視線を逸らす。

しかし、そこにはなにもない。

「ポロ?」

なんとなく、膝を叩いたのがポロの気がした。

ポロはよく、僕が椅子に座っていると、膝を叩いて「乗せて」と催促してきた。

膝の上に空間を作ってやると、直後に何かが飛び乗る感触がした。

そして、確かに膝の上に温もりを感じる。

なにもないはずなのに、確かにそこに、ポロはいた。

恐る恐る手を伸ばし、ポロの背中を撫でるように空を掻いてみた。

「あんたにまた会いたかったのかもな」

離れたところで、柴犬と一緒に老人が僕を見て言った。

「これから安らかなところに行く前に、あんたと一緒に過ごしたかったんだろうよ」

老人の言葉が、僕の中で止まっていた気持ちを動かした。

堪えきれなくて、涙がポロポロと溢れてくる。

「ありがとうな」

涙で視界が曇りながらも、僕はポロの魂を撫でながら言った。

「ずっと一緒にいてくれて」

最後にこうして、またお前に会えてよかった。

しばらくそうして、ポロの魂を撫でていると、今度は首筋を舐められるような感触がした。

ポロが最後に、僕のことを好きだと言ってくれてる気がした。

「僕も大好きだよ」

お前が愛おしくてたまらない。ずっと一緒にいてほしかった。

しかし、そう願った僕の気持ちを悟ったのか、柴犬がやってきて、僕の膝をトンと叩いた。

わかってる。ポロはもう休まないと。

涙を袖で拭って、僕は立ち上がった。

最後に、こうして僕のもとに来てくれた。

会えて本当に良かった。

御神木を静かに眺めた後、僕は手を合わせて拝んだ。

風がまた静かに吹いて、落ち葉と僕の涙をさらっていった。


ここは愛犬を亡くした人が、何かをきっかけに来ることが多いそうだ。

そして、愛犬の首輪や玩具を御神木の近くに置いて帰っていく。

僕もそれに倣って、ポロの首輪をお供えした。

「ありがとうございました」

「俺は何もしてねえよ」

老人にお礼を言うと、彼は満足そうに笑って言った。

「あんたはお犬と縁で結ばれてきた。お犬もきっと喜んでるさ」

「ええ」

そこに柴犬が僕の足元に寄ってきて、足に体を擦り付けた後、前へと歩いていく。

「達者でな」

「はい」

老人に頭を下げ、鳥居をくぐってもう一度、社に頭を下げた。

ポロが安らかに幸せなところに行けるよう、もう一度願いを込めて。

お辞儀をしてから、来た道を下っていく。

その間も、柴犬が前を先導して歩いてくれた。

森の入口に着くと、柴犬は足を止めて、僕をじっと見上げた。

「お前もありがとうな」

柴犬の頭をそっと撫でて、僕は森を出ていく。

もう一度振り返ると、柴犬は僕を一瞥してから、また森の奥へと戻っていった。

そういえば、あの神社の狛犬は1匹だけだった。

もしかすると、もう1匹が、あの柴犬なのかもしない。

なんてことを考えてみる。

不思議なことがあったばかりだから、そんな幻想的な事を考えてみたりした。


有給を終えて、また仕事の日々に戻る。

出社してきた柏木さんに、お土産を渡してお礼を言った。

「あの島、よかったよ」

そこで起きたことを、柏木さんに伝えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「あのー、実はあの記事、もう一度調べてみたんですが」

そう言って、彼女は僕に記事を見せる。

「これ、5年前の記事だったんです。当時は人気観光スポットだったんですけど、津波の影響で島民が皆、離島したらしくて」

柏木さんの話では、あの島は今は誰も住んでおらず、船も漁船くらいしか停泊しない場所のようだった。

「でも、僕は確かにあの島に行けたよ。それに、神社におじいさんだっていたし」

「なんだか不思議ですね」

まるで狐に抓まれたみたいだった。

でも、なんだか悪い気はしていない。

「先輩」

すると、柏木さんが僕の顔を覗き込んだ。

「なんか以前より、すっきりしてません?」

「えっ?」

「なんていうか、憑き物が取れたみたいな」

「そうかな?」

逆に憑き物をもらってきてもおかしくない経験だと思う。

でも、確かになんだか、色々と調子はいい気がする。

ポロとしっかりお別れができたから、なのだろうか。

ともかくも、僕はもう大丈夫だ。

だからポロも、しっかり休んでくれ。

犬と一緒に生きていれば、いつかは僕らより先に、彼らは旅立ってしまう。

でも、彼らはいつだって、僕らを見守ってくれている。

ポロが心配しないよう、精一杯生きていくつもりだ。


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