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虹の橋の猫たち

再会の橋

作者: 時雨

 みんな、待ってたんだよ━━




 長いこと歩いてきたような気もするが、ほんの五分のことだったような気もする。それが天上の世界の理なのかとも男は思った。気がついた時には目の前に虹の橋が見えていた。

 とても美しい橋だった。空にかかる虹のように七色に分かれているわけではないのだが、広い橋上は確かに七色に輝いていて、(もや)がかかっているのか、はたまた長い長い橋だからなのか、向こう岸は見えなかった。

 辿り着いてはみたが、男は少し馬鹿げているのかと、自分に苦笑してみた。

 歳を重ね、誰もが天に帰る時がくる。慎ましく穏やかな日々を送り、とても満足のいく人生だった。悲しむ者もいない気楽な身の上故、男はむしろ喜んで天に帰った。

 天界でも同じように、慎ましく穏やかに過ごしていた男は、ある時噂を聞いた。死んだ猫に会える虹の橋が天界にはあるという。

 その話を聞いた途端、まるで扉が開いたように、男に猫たちが傍に在った幸福な記憶がどっと押し寄せてきた。

 男は猫と暮らしたことはなかったが、幼い頃から近所には沢山猫が暮らしていて、猫好きだった男は猫たちを可愛がり、常に傍にあるその存在に幸せを感じていた。こっそりと家から食事の残り物を持っていくこともあった。顔見知りの猫たちには名前をつけて、いつも無事でいることを確認していた。時には、野に倒れてしまった猫を発見することもあったが、そんな時には必ず墓を作り、花を供え弔っていた。

 生涯独身であった男だが、身近には常に何匹かの猫がいた。庭を縄張りにしていたり、家の中に勝手に入って来たりしていたが、男は猫に好きにさせ、やはり食事の残りを分け、患っている猫は病院にも連れて行った。

 顔を出さなくなった猫がいれば、近所を探し回り、手遅れでも見つけた場合は手厚く弔った。

 虹の橋の噂を聞いた時、一匹一匹の猫たちの顔が浮かんできて、懐かしさで胸がいっぱいになった。あの猫たちはどうしているだろう。達者でいるだろうか。

 死んだら猫たちもきっと天に帰るのだろう。ならば猫たちが住むという虹の橋があっても不思議ではない。幸いなことに男にはたっぷりと時間がある。

 (しがらみ)からも業からも解放され、天に帰ってきてからも何一つ不満もなかった。だが、猫たちの記憶が解放され、あの猫たちの身を案じる気持ちが蘇った。何故忘れていたのか、そんな自分の身を恥じた。あれ程自分を幸せにしてくれた猫たちのことを忘れていたなんて。あの猫に再び会えたなら他に何も望まない。たった一つ、贅沢な望みを持っても、神は許してくれるだろうか。そんな気持ちで虹の橋へと向かった。


 橋の袂には料金所のような建物があった。三途の川の渡賃は六文と言われているが、きっとそれは男が天に帰る時に使ったのだろう。金など持っていない。なんと言っても、天界では皆が無一文でいるのが当たり前なのだから。料金を払えなければ橋の向こうには行けないのかもしれない。そう考ええると少しがっかりした男だったが、行ってみたら案外金ではなく、何か他のことで橋を渡る方法があるのかもしれないと思い直した。男はゆっくりと建物に近づいて行った。

 「おや、ようこそお越しだね。猫に会いにきたのかい?」

 窓口のような場所に座っていた老女が、男の姿を認めると、楽しそうな口調で声をかけてきた。その声に、窓口の脇で気持ちよさそうに昼寝をしていた大きな三毛猫が反応し、少しだけ目を開けて男を見た。

 猫好きな男は、猫を撫でてみたいと思ったが、他人の猫に勝手に触れては無礼だと思い、手を出さなかった。

 「最近噂話を聞いたのです。死んだ猫に会える虹の橋というのがあると」

 男は生前に仲良くしていたあの猫たちの顔を思い浮かべて自然と笑みが溢れた。

 「アンタの猫かい?」

 「いえ、私の猫というか、この世にいた時に……、いえ、今いるのがこの世だから、生前はあの世ですかね。兎に角、お迎えが来る前、仲良くしていた猫たちがおりまして。あの猫たちが達者にしているか気に掛かったものですから」

 「なるほどね」

 老女がにっこりと笑うと、三毛猫もにっこり笑った気がした。果たして猫はこんなに人のようにはっきりと笑うものだっただろうか。

 「さて、じゃあ、あんたの名前と猫たちの名前を聞こうかね」

 老女は鼻歌でも歌いそうな楽しそうな表情で、驚いたことにタブレットのようなものを操作し始めた。天国にもこんなものがあるとは。あの世でもこの世でも、同様にIT化の波が押し寄せていることに、男は妙に感心していた。

 「ああ、これかい。凄いだろ。あたしだってこれくらいは使いこなせるんだよ。って、ほんとは紙の猫別帳(にゃんべつちょう)からこれに変わったときは苦労したんだけどねぇ。それで、名前を聞かせておくれよ」

 「ああ、そうでした。私は柿崎歳三(かきざきとしぞう)と申します。猫たちは、その、出来るのであれば皆に会えたらいいのですけど、名前の無い猫もいるので……」

 「ん? 柿崎と言ったかい? 名前の無い猫もいるのかい。そうかい、そうかい」

 老女はぴくりと片眉を上げて男を見上げてから、またタブレットの操作を始めた。

 少し不安にさせるほど、随分長い間操作を続けると、うんうんと何度か老女は頷いた。

 「柿崎歳三さん、念の為なんだけどね、試しにどの猫でもいいから名前を言ってみてくれるかい」

 「どの猫でもですか?」

 「これも橋番の務めでね。この橋にもなんだかんだと規則(きまり)ってもんがあるんだよ」

 男は猫たちの顔を思い浮かべた。

 虎之助、一郎、シマ太郎、トタン、ぶち、かごめ、ヤシロ、ミチクサ、てぬぐい、シロ、正太、ヒゲ、井戸端、ユキコ……

 「(いさみ)。一番長く一緒にいてくれた勇という猫がおりました。勇ましい猫で、時々野良犬に喧嘩をふっかけることもありました。しかし心根の優しい猫で、独り身の私の暮らしを心配して、いつも様子を見に来てくれたものです」

 老女は何故か物知り顔で深く頷いた。そっと隣に目配せすると、三毛猫が微かに頷いてにやり笑ったのを男は見逃した。


 勇の名前を口にすると、男は懐かしさで胸がいっぱいになった。一匹一匹、皆気にかけてはいたが、勇という猫は特に印象深かった。いつの間にかどこからか流れ着いた猫で、それなのに生まれた時からここにいますというような顔をして、男の家を訪ねてくるようになった。食べ物を強請(ねだ)るふうでもなく、他の猫が先にいても争うこともなかった。ひとしきり、自分の縄張りにしている男の家を眺め、男のおしゃべりに時々「なー」と応え、しばらく時を過ごすととふらっと出ていくような猫だった。

 ある日、外で男が勇を見かけた時、それは衝撃的な場面だった。空き地の一角で、勇が一匹で五羽ほどのカラスと戦っていたのだ。勇は傷だらけで血を流し、それでも怯むことなくカラスに向かっていっていた。よく見ると、地面には二匹の仔猫が倒れていた。カラスに襲われたのだろう。それを助けようと、勇が流血も厭わずカラスの集団に挑んでいたのだ。

 無我夢中で男が駆け寄り、持っていた傘を振り回してカラスを追い散らす頃には、勇は息も絶えになっていた。男が仔猫たちを掬い上げる様子を見届けると、そのままぱたりと地面に倒れた。

 男は三匹を腕に抱え、上着を血だらけにしたまま動物病院へと駆け込んだ。受付も飛ばし、そのまま診察室に通されると、どうか猫たちを助けてくださいと医者に懇願した。常に穏やかな男だったが、この時ばかりは叫ぶように何度も医者に懇願した。

 促されて診察室を出て、心配顔をした受付のもとに行くと、男の名前と猫の名前を問われた。男は自分の名前を記入して、仔猫たちの名前はないにしても、ここにきて初めて猫を名前で呼んだことがなかったことに気がついた。顔見知りの猫は、勝手につけた名前を呼んでいたが、この猫の名前はまだなかった。暫し考えて、ある文字が頭に浮かんだ。

 勇。

 身を挺して、多くの敵の前に立ちはだかり、小さな命を守ろうとした勇ましい猫。元々近所の猫と喧嘩になっても負け知らずで腕っぷしも強い、勇ましい猫。

 男自身の名前は、新撰組の土方歳三から付けられているので、敬意も込めて、あの猫の名前は近藤勇から頂戴するのがぴったりな気がした。

 男は猫の名前欄に勇と記入した。

 名前のない仔猫たちの一匹は、残念ながら助からなかった。勇と残った仔猫は暫く入院した後、生きて病院を出ることができた。男は二匹を引き取り、自宅で静養させることにした。

 名前のない仔猫は、充分に健康になってから、男の知人に引き取られていった。元気に元気に育つようにとつけられた「小虎」と言う名に相応しく、すくすくと育っているといいう連絡を知人から屡々受け取った。

 勇も、背中に大きな傷跡が残ったものの、暫くするとすっかり元気を取り戻した。静養中は、大人しく出されたご飯を食べたり、助けた仔猫を気遣うようにしていたが、そろそろもういいだろうという相互の合意の下、外から男の家に通ってくる日常へと戻っていった。

 そうして、勇は天寿を全うするまで、男の暮らしを見守るように男の傍に在った。男は、老いて勇が自身を看取ることを許したのも、自分を信頼してもらえた証だと思っていた。


 「まあね、『完全室内飼い』なんてのが流行り出してから、猫が死ぬ前に姿を消す、なんてことは確かになくなったけど。野の猫が人の傍で最期を迎えるなんて、そりゃ、あんたの言う通り、よっぽどあんたを信用してたんだろうねぇ」

 老女は嬉しげに何度も何度も頷いた。

 この橋番の老女は、本当に猫が好きなのだろう。この人に会えただけでも虹の橋まで出かけてきた甲斐があったというものだ。猫好きとの話は楽しい。世間でも、或いは猫好きの間で言われる通り、猫好きに悪人はいないと男も信じていた。

 ふと気づくと、男は誰かが自分の名前が呼んでいる声が聞こえた気がした。聞き覚えのない声だった。その声はどんどん大きく、近づいてくるようで、男は虹の橋に振り向いた。

 すると、靄の彼方から、一匹の猫が、それはもう全速力で駆けてくる姿が眼に入った。近づくにつれ、その姿が鮮明になる。あれは、あの黒白の猫は……。

 「勇っ。助手猫以外は橋を渡れない規則になってるって何度も言ってるじゃないか」

 老女が身を乗り出して、猫に向かって怒鳴りつけた。

 そうだ、あの猫は……。

 「勇? 勇なのか?」

 「トシゾウ!」

 猫は息を切らせながら橋を駆け抜け、男の元へと飛び込んできた。男は呆然としながらも、弾丸のように飛び込んできた猫をなんとか腕の中に抱き留めた。男の胸に頭をこれでもかというほどに擦り付け、勇はゴロゴロと喉を鳴らす音を辺りに響かせた。

 その後ろから、先ほど窓口にいた大きな三毛猫が、やれやれという風情でゆっくりと歩いてきた。

 「トシゾウ! もう来ないかと思ってたんだよ。おいら、ずっと待ってたんだからな。どんだけ待たせれば気が済むんだよ。とっくの昔にお迎えが来てた筈だろ? おいら、ずっと待ってたんだよ。毎日、毎日、待ってたんだよ」

 猫は勢いのまま捲し立てた。子猫(こども)のように泣きながら、男にしがみついた爪を離さなかった。

 ああ、天上の世界で猫はこんな風に言葉を喋るのだ、と男はこの世界の理をそのまま受け入れた。勇の姿も、老いて天寿を全うした時の小さなものではなく、若く、溌剌としていた時の勇ましい姿だった。

 「達者で暮らしていたかい? お前にまた会えるなんて、夢のようだよ」

 男は勇をぎゅっと抱きしめた。

 建物から出てきた老女は、しばらくその様子を苦笑しながら眺めていた。

 「お前は本当に懲りない猫だね。門からは出ちゃいけないって、あたしが何百回言ったかわかりゃしないよ」

 老女が大きくため息をつくと、男が顔を上げた。

 「これも橋の規則ってやつでね。待ち人猫は橋の向こうで自由に暮らせるけど、この橋は橋番の猫しか渡っちゃいけないことになってるんだよ。それをこいつは、ここに来ちゃあ、あんたの話をしていくんだよ。自分の待ち人がどんなにすごい人間かって。本当に困ったヤツさね」

 男が柿崎歳三と名乗った時、これが勇の待ち人だとすぐにわかった。橋番の務めとして猫の名前を聞くと、案の定、勇の名前が出てきたので、すぐに三毛猫を走らせて、勇にニュースを伝えたのだ。

 人間に橋を渡る許可が出され、橋を渡ってくるまで、猫はゲート前の広場で待っている規則になっているのだが、規則破りの常習犯•勇は知らせを聞き終わらないうちに橋に向かってまっしぐらに駆け出した。

 「だって、だって、トシゾウがきてくれたんだよ。待ってなんかいられないよ」

 鼻息も荒く勇が口答えをする。

 「だがね、あたしは言った筈だよ。今度規則破りをすれば、永遠の森に立ち入り禁止にするよって」

 老女は眇めた目で勇を睨みつけた。

 「そ、そんな……。あれは本気じゃなかっただろ? なあ? ちょっとおいらを脅かしただけだろ? 永遠の森に行けないなんてそんなことになったら、トシゾウと一緒にいられないじゃないか……」

 勇は再会の涙が枯れないうちに、こんどは絶望の涙が流れてきた。微かな震えも止まらなくなった。

 「永遠の森に行けなかったら、おいら、おいら……」

 「その、永遠の森とはどこにあるのですか?」

 男は勇を抱き抱えたまま、老女に向き直った。

 永遠の森は、虹の国にある、どの場所からも近く、どの場所からも離れている場所だった。生前、猫に尽くした人間と、その人間と絆を結ぶ猫だけが立ち入ることが出来る森。森のどこかに猫神の寝床があると言われている神聖な森で、許可なく立ち入ることは罷りならない。()()()、自由に立ち入りができるのは、橋番とその助手を務める猫だけで、それでも一度許可証の発行をすることになっている厳正な規則のある森だ。そこで待ち人と猫たちは、辛い別れを二度と経験することなく、永遠に幸福に暮らすことを許されている。

 なので、橋の向こうの待ち人猫たちは、人間と再会したらその森へ行くのを心待ちにしている。待ち人が来たのに、一緒に永遠の森へ行くことが許されないなら、それは最も重い〝罰〟に他ならない。

 「嫌だよ。お願いだよ。おさよばあちゃん、お願いだよ。おいら、ちゃんと謝るから。ちゃんと言うこと聞くから。トシゾウとまた別れなきゃならないなんて、おいら絶対に嫌だよ」

 もしも、永遠の森への立ち入りが禁止されれば、毛皮を着替えて下界に戻るか、ずっとこの虹の国に留まるかの二者択一。すぐ傍にあんなに会いたかった待ち人がいると知りながら。そんな悲劇があるだろうか。

 おさよと呼ばれた橋番の老女は、わざと怖い顔を作って、わんわん、いや、猫だからにゃあにゃあだろうか、泣き続ける勇を睨みつけた。

 「おさよさん、これはアタシの失敗だよ」

 後ろで様子を見ていた大きな三毛猫が、助け舟を出した。

 「なんでも会いたい猫が大勢いる人間が来てるから、勇に確かめに行け、なんてつい言っちゃったんだよ」

 もちろん、そんなことは嘘だ。ベテラン助手猫はそんなヘマはしない。勇は、男が橋に来ていると三毛猫が言い終わらないうちに駆け出してしまったのだから。時速にして、平均四八キロで走ると言われる猫が突然駆け出したのだから、猫だって追いつけるものではない。

 勇は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で三毛猫に振り向いた。その言葉に希望が湧き、髭が全開になってしまった。その喜びを抑えられないまま、それでも恐る恐る橋番の方に振り返った。

 老女はまだ怖い顔で勇を睨んでいた。三毛猫の言葉が嘘だと言うことはわかっている。だが、老女は鬼ではないし、規則が全てではないのが天上世界だ。この聞かん坊には少しお灸が必要。その程度の睨みが必要なのだ。

 「……わかったよ」

 また老女がわざとらしい大きな溜息をついた。

 「そう言うことなら、仕方がないね。こっちが間違ったんだから、今度ばっかりはあんたが規則を破ったことにはならないからね」

 勇が涙で濡れた黒目を更に大きくさせ、興奮で尻尾をブワッと膨らませた。男にしがみついた爪にもつい力が入り、だが、天上世界では痛みを感じないことは幸いだった。

 「トシゾウ! おいらたちと一緒に永遠の森に行くだろ? な? みんな待ってたんだよ。みんなどんなに喜ぶか」

 勇の切り替えの速さに老女が呆れた顔をしていたが、そんなことには勇はお構いなしだった。

 もう勇や他の猫たちとの悲しい別れがないという場所。猫たちが望むのなら、男はどこへでも行こうと思った。

 「そう言う訳だから、柿崎歳三さん、こいつを連れて橋を渡っておくれ。まっすぐ行けば広場に出るから、そこで猫たちに会えるようになってるからね」

 男は丁寧に老女と三毛猫に一礼し、橋へと足を踏み入れた。

 腕に抱かれたままの勇に向かって「もう規則を破るんじゃないよ、このバカ猫」と言う老女のお叱りの言葉を聞きながら、背中に傷跡が残る黒い毛皮を撫でる手から伝わる温かさに得も言われぬ幸福を感じていた。


 靄の中に入ったと思った途端、目の前は開けて、まさに天国の風景が広がっていた。老女が広場と呼んでいたその場所は、豊かな緑をたたえる樹々が並び、柔らかな陽射しの下に優しい木陰を落としていた。季節問わずの花も見事に咲き誇り、甘い香りに満ちていた。その上を蝶が舞い、小鳥の歌声も聞こえた。まるで美しい公園のようで、そこここに設置されているベンチには、猫たちが昼寝をしたり、毛繕いをしたり、思い思いに過ごしていた。

 その一角で、集団になっていた大勢の猫たちが、一斉にバッと男の方に振り向いた。腕に抱かれたままだった勇は、するりと腕をすり抜け、誇らしげに男の足元にピョンと飛び降りた。

 「本当にトシゾウだ!」

 「トシゾウがやっと来てくれた!」

 「すっかりおじいちゃんになってるけど、わかるぞ、トシゾウだ!」

 「トシゾウが来たんだ!」

 猫たちは口々に叫びながら男の周りに駆け寄った。嬉しそうに、そして涙を浮かべながら。その数、三十は下らない。

 そこには虎之助も一郎もシマ太郎もいた。名前をつけた猫だけではなく、近所で気にかけていた猫たちもみんないた。男は膝をついて、擦り寄ってくる猫たちの頭を優しく撫でた。一匹一匹覚えている。誰一匹として忘れてはいない。みんな覚えている。懐かしい猫たちが本当にそこにいた。

 「そうか、そうか。皆、達者で暮らしていたんだね。安心したよ」

 「俺、狩が下手だったからネズミがなかなか獲れなくて、だからトシゾウが分けてくれたごはんがどんなに嬉しかったかしれないよ」

 虎之助が言う。

 「人間なんてちょっと庭を横切っただけで嫌な顔をするのに、トシゾウだけは寒い冬に座布団でお昼寝させてくれて、わたし本当に嬉しかった」

 かごめが言う。

 「僕、人間に酷い目に遭って死んじゃったけど、トシゾウは僕を見つけてたくさん泣いてくれたよね。お墓作って弔ってくれて。僕はそれだけで、悲しい気持ちが消えて、生まれて良かったって思えたんだよ」

 名前のない猫が言う。

 「ああ、違うよ、みんな。私がお前たちに助けてもらっていたんだよ。お前たちがそこにいるだけで、私がどんなに慰められて、幸せをもらっていたか」

 「おいらだって!」

 勇も負けじと鼻息を荒くする。

 「おいらが大怪我して、死にそうになった時、トシゾウが助けてくれたんだからな」

 まるで自分の手柄のように勇が語った。

 「それにおいら、忘れてないよ。大怪我したおいらに、命を大事にしろ、お前がいなくなったら私が淋しいじゃないか、って言ってくれたことを」

 男は大きく頷いた。

 「ただ、ごめんよ、トシゾウ。あの時助けられなかった仔猫だけはこっちで見つけられなかったんだ。ひょっとしたら、毛皮を着替えて下界に戻ってるのかもしれないんだけど。小虎はまだ下界で元気にしてるんじゃないかな」

 虹の橋で人間を待たない猫たちは、新しい毛皮に着替えて新しい猫生を送るべく下界に戻っていくことがある。生まれてまもなかった仔猫は、今頃別の姿でどこかで生きているのかも知れない。

 「勇、それならそれでいいんだよ。あの猫が自分でそうしようと思ってやったことなら、きっとそれが正しいことなのだろうから」

 勇も大きく頷いた。

 「だけどね、他の新撰組は全員ここに集まってるよ」

 勇は生前、男の家に通っていた間に顔見知りになった猫の他にも、男に可愛がられていた猫がいる筈と考え、虹の国で男を待つ間、そんな猫を探し回って呼び集めていた。そして自分たちを〝新選組〟と称していた。

 なんとも誇らしげな勇の宣言に、男はキョトンとしてしまった。今、何と言ったのか。

 「新撰組って、お前……」

 「大丈夫だよ。猫の中だったらおいらが局長だけど、トシゾウが来てくれたかたんだからおいらは副長で、新撰組の局長はいつだってトシゾウだからな」

 勇の髭が得意げに全開になった。他の猫たちも目をキラキラさせて、しかし居住まいを正して男を見上げていた。

 勇には確かに、自分の名前の由来や、何故猫を勇と名付けたかをその昔話して聞かせたことがある。猫が言葉を解すなどとは思いもよらなかったし、少しばかりも洒落が入っていなかったとは言えなかったというのに。

 それでも、猫たちはずっと男の言葉に耳を傾けてくれていた、ということがたまらなく嬉しかった。そこは猫のこと、気紛れにふいっと立ち去ったり、お構いなしに昼寝を始めたりしたが━━もちろん、それすらも愛おしいのだが━━きっと話を聞いていてくれると思っていた自分は間違っていなかった。

 「これで我ら新撰組、みんなで永遠の森に向かえるぞー!」

 「おおーーーー!」

 猫たちが勝鬨を上げている。その光景は微笑ましく、平和だった。

 毛皮を着替えず、自分のことを待っていてくれた猫がこんなに大勢いたことに、男は少しくすぐったいような嬉しい気持ちになった。

 が、男ははたと気づいた。総勢で三十匹以上。こんな数の猫たちを、果たして自分はきちんと面倒をみられるのだろうか。永遠の森がどんなところなのかはわからないが、もしも目が行き届かず、誰かが不幸な目に遭っては何の意味もない。やっと天界で幸せな日々を手に入れたというのに。そんな猫たちの一匹でも不幸にしてはならない。

 「なんだい、全員揃ってるんだね」

 不意に先程の橋番の老女の声がした。いつの間に現れたのか。

 「ん? 不思議だろ。橋の袂とこっちの番小屋とは繋がっててね。あっちでもこっちでも、あたしは出入り自由って訳さ」

 男が驚いていると、老女は心を見透かしたように言った。

 入ってきた時には、広場の美しさに目を奪われた男は、門にある建物(老女の言うところの番小屋)には気が付かなかった。老女の後ろで、あのお大きな三毛猫がドアから出てくるところだった。

 「それで、永遠の森に行く準備はできたのかい?」

 「おさよばあちゃん、そんなのグモンだよ。トシゾウ局長と新撰組、いつでも永遠の森に出発できるよ」

 勇が、目をキラキラさせている猫たちを後ろに従え、大きな声で宣言した。

 男は少し浮かない表情をしていた。

 「勇、お前は少し黙っておいで。このバカ猫」

 老女のひと睨みに勇は慌てて口を(つぐ)んだ。

 「すまないね、柿崎さん。本当は橋の袂で色々と説明しなきゃなんないことがあったんだけどね。このバカ猫のおかげで……」

 老女はもう一度勇を睨んだ。

 「永遠の森へは、猫と人間の双方が同意すれば行けるんだよ。そこで、文字通り永遠に暮らすことができるんだ。ただし、永遠の森に行った猫は、もう毛皮を着替えて下界に戻ることはできなくなるけどね」

 ある意味、究極の選択ではないか。もしも永遠の森に行ってから、万が一にも不仲になっても、もう地上には戻れないのだ。男にとっては、一匹として、愛情が薄れる猫はいないと断言できた。しかし、猫たちの方はどうなのだろう。世話が行き届かず、男と共にいるのが嫌になった場合でも、もう毛皮を着替えることが許されない。それは不幸なのではないだろうか。これだけの数の猫たち。男の生涯で気に掛けてきた猫たちで、一堂会してとういう訳ではない。一匹でも、ほんの僅かでも心配りが疎かになってしまって、悲しい思いをさせてしまったら、どうなるというのだ。

 「なんだ、あんたそんなことを心配してるのかい」

 老女が憚ることなく大声で笑った。

 「トシゾウと一緒にいたくないと思う猫なんて、おいらたち新撰組には一匹だっていないよ」

 「勇、だからお前は黙っておいで」

 また老女が勇を鋭く睨んだ。

 「さっきもあたしが言ったけど、猫も人間もどちらも永遠の森に行きたいと思えば一緒に行ける。つまり、行きたくない猫は行かなくてもいいんだ。それにね、」

 老女は集まっている猫たちに優しい視線を投げた。

 「あんたが心配してる世話の話だけど、ここじゃあ、そんなものはいらないんだよ。ここには下界であるような不幸は一切起こらない。命が危険に晒されるなんてこともない。みんな、安心して死んでいられるんだよ」

 老女がくすくすと笑った。

 「目が行き届かないなんて心配もいらない。何をするのも自由。何をしないのも自由。いいところだろ? あたしたちみんな、食い物を食うなんて業からもとっくに解放されてるだろ。食い物の心配だってないんだ。食い物は食ったりするけど、そりゃ、ただの娯楽みたいなもんでね。ただ森で、一緒にいて幸せに暮らせるのさ」

 「しかし、これだけの猫たちです。もしも永遠の森に行った後で、やっぱり下界に戻りたいと思った時にそうできないのは不幸になるということではないでしょうか」

 虹の国の仕組みを聞いて男が一番心配になったのはそこだ。人間社会では、嫌なことでも時には我慢せねばならない。それを協調性と呼ぶのか、それは議論の余地があるかもしれないが、生を全うした後でやってきた天上の世界でまで、選択肢のない強制の状況では、やはり猫が不幸になってしまう。

 男の言うことにも一理ある。永遠の森に行くことを強制することはできない。しかし、猫たちはそう望んでいるだろう。老女は小さく唸って、晴れ渡った空をしばらく眺めた。

 「そうかい。それなら、あんたがここに残ればいいんだよ。そうだよ、簡単な話じゃないか」

 老女がパッと表情を明るくさせて、右手で軽く額を打った。

 「あんたが橋番をあたしから引き継いで、ここに残ればいい。そしたら猫たちだってあんたとここにいられて、毛皮を着替えたくなったらどうしようなんて考えずに済むじゃないかい」

 「しかし、それでは私があなたの仕事を奪ってしまうことになってしまいます」

 そんなことになっては申し訳がない。他者を押し除けてまで我を通すなどと言うことは、生前でももちろん、天に帰ってからもしたことのない慎ましい男のことだ。なんとか誰も嫌な気持ちにならずに解決できる方法はないものかと必死に考えて、眉間に少し皺がよった。

 「あんたは人が良いんだね、柿崎さん。そんなに深く考えないどくれよ。まあ、橋番にも細々と規則があったりまするけど、難しいこっちゃないよ。何よりあんたと一緒にいられるなら、あんたの言う猫たちの一番の幸せってもんだろ」

 集まっている猫たちは、老女の言葉にうんうんと頷いていた。

 「それにね、あたしはそれ、ここにいるタマとふたり、引退して永遠の森で気楽な暮らしもいいもんだと思ってるんだよ」

 老女の足元でちょこんと座っている大きな三毛猫もにっこりと笑って頷いた。

 「もう、いつから橋番をやってるか思い出せない程永くここにいたからね。おかげで、こんなに大勢の名無し猫までが待ってる伝説の男にも会えたんだし」

 信頼して引き継いでもらえる人物に会えたことを老女は心底喜んだ。

 〝伝説の男〟などと呼ばれて、男は苦笑したが、そこまで言ってもらえるのなら。猫たちが大喜びする様をみるまでもなく、男の心も決まった。

 「おいらたち新撰組の誰も、毛皮を着替えてトシゾウと別れたい猫なんていないのに……」

 勇が少し不満を漏らすと、すかさず老女のひと睨みが飛んできた。

 「いいんだよ、勇。私は誰一人として不幸になって欲しくないし、お前たちと一緒にいられるのなら、どこにいようと関係ないんだよ」

 男は勇の頭をゴシゴシと撫でた。

 「さあ、そうと決まれば、新しい橋番としての最初の仕事をしてもらおうかね。このあたしとタマに永遠の森への立ち入り許可証を出しとくれ」

 満足げに老女は頷くと、すぐに表情を変えて男に頭を撫でられている猫に睨みを効かせた。

 「それから、このバカ猫勇っ」

 撫でられて気持ち良くしていた勇は、ビクッと体を震わせて老女を見上げた。

 「お前は散々規則破りをしたんだからね。ここで無罪放免って訳にはいかないんだよ、わかってるね」

 勇は全身から血の気が引いた。やっぱり罰が与えられるのだろうか。それはどんな罰なのか。永遠の森には行かないことになったから、ここでみんな一緒に暮らせる。その筈。まさか、そのみんなの中には自分は入れないのだろうか。何処か遠い場所で一匹ぼっちで暮らさなくてはならないのだろうか。歳三と他の猫たちが幸せに暮らしている様を想像しながら。もしそうだとしたら、これ以上の罰はない。じわりと滲んてくる涙目で、勇はじっと老女の言葉をまった。

 「お前は柿崎さんを手伝う助手猫になるんだ。いいね。言っとくが、お前に嫌だなんて言う権利はないからね。お前もずっとタマの働きぶりをみてきただろ。ここにいる待ち人猫がどれだけの数いるかわかってるかい。助手猫はここにいる猫たちがいつ、何処で、どうしてるかを全部を知っていなきゃいけない。並大抵のことでは務まらないよ」

 厳しい表情で老女が続けた。

 「わかってるね。休みたいなんて少しでも思ったら、永遠の森からでもぶっ飛ばしに来るからね。のほほんと暮らせるなんて夢にも思わないこった。いつでもあたしの目が光ってるってことを忘れるんじゃないよ。身を粉にして働きな」

 老女の言葉に、勇は黒目も髭も全開にして喜びを溢れさせた。

 「そ、そんなこと、もちろんだよ。おさよばあちゃんに言われなくてもやるって言おうと思ってたもん」

 勇は心からの安堵と幸せで、精一杯の強がりを見せながらもまた涙をダバダバと流した。

 男の周りにいた猫たちも一斉に「僕も」「わたしも」と声を上げ始め、助手猫に名乗りを挙げた。猫たちが男を囲むように大はしゃぎする、その様子を見ながら老女と大きな三毛猫は互いに見つめ合い、何度も何度も頷いた。

 男は、永い時を共に過ごして築いた絆で結ばれた老女と三毛猫を、永遠の森に送り出す務めを与えられたことを光栄に思った。きっと、数えきれない程の猫たちを虹の国に迎え入れ、待ち人に引き会わせて、苦労もあったことだろう。それでもこの瞬間があればこそ、永い永い間、この老女と三毛猫は共にここに座り続けていたのだろう。その想像は男の心を温かくした。

 天上世界では、時間の概念があってないようなのかもしれない。男はこの先、どれ程長くこの橋番をすることになるのか想像もつかなかった。それこそ永遠なのか、それとも自分の場合と同じように、託すに値する人間に出会い、猫たちと共に永遠の森に行くことになるのだろうか。

 それはわからなかった。

 だが、男は幸せだった。神は男の思った以上の贅沢を許してくれた。猫たちと共に穏やかで幸せな時を過ごせるのなら、これは何物にも代え難い幸運なのだと思った。

 連れ立って永遠の森へと向かう老女と三毛猫の後ろ姿を見送りながら、男は猫たちと共に深く頭を下げた。

 「バイバーイ、おさよばあちゃん。タマとふたりで元気で暮らしておくれよー」

 勇が元気よく手を振っていた。




Copyright(C)2023-時雨

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