エビ王女と灰の騎士
よろしくお願いいたします。
――昔々、あるところに不思議な王女が居ました。緋色の髪、深海の瞳、見るものを惚れさせる整った容姿の王女です。そんな王女にはこんな通り名が付いていました。
――エビ王女。
立てば王女座れば淑女、口を開けばエビ狂い。そんな喩えを産み出してしまうほど、件の王女はエビが大好きだったのです。それさえ除けば、心優しく聡明な……それこそ王女然とした女性なのですが、その一点だけが致命的過ぎました。
どうしてか、エビ王女の家系は何かに執心する血でも流れているらしく、現国王は賭け事が大大大好きであり、先代の王は剣の収集にドハマリしていました。
そんな素晴らしい家系に生まれた彼女は、朝昼晩の食事にエビが出るのは当たり前。おやつに夜食、国の重鎮との宴会で出す食事にさえ『王女様用』と札の掛けられたエビ料理の群れが陳列されるほど、王女はエビが好きでした。
とはいえ、それを除く点において理想的という言葉を一直線に進む彼女に民衆は苦笑いで支持を注ぎ、王と女王も頭を抱えながらそれを認めていました。
人はやはり、完璧な人間よりもどこか抜けている人間のほうが口に出しやすいものですから、王女は城下町で度々噂されます。
また、まだ見ぬエビを求めて城を抜け出したらしい。
『白馬に乗ったエビの騎士』を旦那様にすると言い張って世話係を困らせたらしいぞ。
なにやら伝説の『聖なるエビ』を求めて円卓の騎士団を作ろうとして父王に怒られたようだ。
部屋にエビ養殖の研究設備を作ろうとしてお小遣いを減らされたらしい。
相変わらずだな、本当だよ。そんな苦笑いが人の間で交わされます。
王や女王の心配もどこへやら、エビ女王は民衆の心の玉座に笑顔で鎮座していました。勿論、口の端にエビの食べ残しを付けながら。
さてさて、そんな王女には一人の近衛騎士が付いていました。人は彼を『灰の騎士』と呼びます。幾度の戦を最前線で駆け抜けた彼の鎧の肩には幾つもの傷があり、そこに戦いの激しさを表すような灰が詰まっていた事からそう呼ばれています。
炎の中にさえ鎧姿で突撃し、肩に灰を背負って帰ってくる勇猛果敢な騎士……そんな彼がエビ王女の近衛騎士となった理由はたった一つ。
幼かった王女の誕生日パレードを実家の宿屋の二階から覗き見た彼は、ものの見事に一目惚れを抱え込んでしまったのです。とはいえ、自分は平民。王女の彼女とは立場が違う。
普通ならそうやって諦めてしまう所ですが、彼はどうしても諦められませんでした。
――いつか絶対、彼女の隣に騎士として立ってみせる。
そうして騎士見習いとなった彼は雑用係を経て長く戦場へ赴き……帰ってきた頃には初恋の相手が『エビ王女』になっていました。まさか騎士も王女の初恋がエビに奪われるとは思っていませんでした。
淑やかな見た目はさらに美しく昇華され、反比例してエビと結婚しかねない残念さんになってしまった王女。
それを知って落ち込む彼に、同僚の騎士は気の毒そうに声を掛けました。
あぁ、その……まあ、なんていうか……取り敢えずお疲れ様。
ここまで頑張って、まさかエビに先を越されるなんて。見た目か、味か……何が王女を惹き付けたのだろうか。彼は再三考え込み、取り敢えず市場でエビを買って観察してみようと思いましたが、残念ながら王女に買い占められていました。
再び肩を落として灰を落とす騎士でしたが、同時にゆらりとその心に炎が灯ります。不可能に近いと思えば思うほど燃え上がる……単純な反骨精神でした。
エビに負けてなるものか。ここまで来たのなら……自分が王女を惚れさせるくらいの気概でいってみせよう。
長い戦は、少年に強い心を与えたのです。
そうして王城の門扉を叩いた彼と入れ違いで、一人の騎士が亡霊のような足取りで城を出ていきました。
――前任の近衛騎士です。
王城の人材管理の担当者からそれを知った彼は、続けてエビ王女の伝説を苦い顔で語られます。
毒味をしようとエビに手を出した騎士を手刀の一つで気絶させた。
気がついたら目の前から王女が消えており、背中に『エビの時間』の張り紙がつけられていた。
なんとか後を追い掛けると、危うくエビ漁船に二人で乗り込む所だった。
そんな逸話を聞かされればなんとも尻込みしてしまいそうなものですが、騎士は諦めません。書類審査や身体能力審査、教養等を厳しく見定められ、されどそれらをなんとか押し退けました。
そして、遂に王女との面接審査の日がやってきました。
部屋の椅子に腰掛けた彼の、なんと緊張したことか。夢にまでみた初恋の人と、直接対話する。それだけで灰の騎士の屈強な心は即座に打ちのめされ、ひ弱で純真な少年の心持ちになってしまいます。勿論彼の隣には同じく近衛騎士を目指す騎士達が居ましたが、そんなもの恋する青年の眼中には入りません。
そして暫くの時間を持って、王女が室内に入ってきました。
流れるような、燃えるような髪は神々しく、その背中が生み出す完全な流線を際立たせるようにふわりと伸びており、優しく細められた双眸はまさに浅瀬の宝石。息の止まる所作で音もなく騎士たちの前に歩み寄った王女は、その内に秘める快活さを解き放つような笑顔になって、一言こう言いました。
「貴方、エビは好き?」
騎士達が硬直しました。予想だにしていない、というわけではないのです。けれども、だからといって嘘偽りを答えるわけにもいかず、エビを心底好いている王女の前で好きだと宣う事も出来ず絶句したのです。
そんな中、一人だけ声を発した男が居ました。灰の騎士です。
あまりの緊張に、質問の内容すら忘れて、思わず立ち上がってしまった彼はこう言いました。
「す、好きです……」
口に出してから、冷静になりました。自分は突然なんて事を。慌てる騎士に、王女はにこりと笑って言いました。
「合格」
次の日から、灰の騎士は近衛騎士になりました。かねてより夢見た、あの近衛騎士です。彼には何が何だかさっぱりでしたが、なってしまったからには責務を果たします。
高鳴る期待を込めて始まった近衛騎士としての生活でしたが……正直、思っていたものと違いました。
毎日毎日、王女のお姿を近くで見ることができる。それだけで彼はもう満足でしたが、それと同時に避けられない事柄が待っていました。エビとの戦いです。
日常に潜むエビという地雷。会話の一つにも気を使い、王女が飼っているお気に入りのエビの世話など緊張が止まりませんでした。
勿論彼は王女の為に泣く泣くエビの生態や種類については学びましたが、生来好きなわけではありません。いつボロが出てしまうのか……それが怖いのです。
日常で突然振られるエビクイズ。朝起きたら王女がエビ漁船に。そんなことは日常茶飯事だったので、騎士はほとほと疲れてしまいました。
けれども、今さら諦める訳にもいきません。折角ここまで登り詰めたのですから、こうなれば王女の心を射止めに行くのみです。しかし会話という一本道には戦場と見間違うほどの弾幕や地雷、谷や山がありました。
何を話しても基本的にエビの豆知識に回帰することに悶々としながら、それでも持ち前の根性で食らいついていきます。たまの休暇は城の書庫に籠もりエビへの教養を深め、身だしなみを整えるために城下町の市場で流行に目を凝らしました。
髪を整え、顔に残る古傷を傷消しの化粧で目立たなくして、うまくエビの話から普通の談笑に切り替えられないかどうか、王女との会話を思い出しつつ話題の切り出し方を考えたのです。
慌ただしい職務の最中にさえ、鍛錬と自己研鑽を欠かさない騎士はいつしか、城下にそれなりの話を持ち込むようになりました。
――なあ、聞いたかい。あのお転婆王女さまの騎士の話
――ああ。なんでも、とんでもない努力家で優男って話だろ?剣の腕もとんでもないって聞いてるぜ?
――いやあ、はは。ありゃ努力家って言葉じゃ約不足だろ。心が白銀で出来てんのかって口々に言われてら
城で開かれる戦剣大会を全戦全勝の三連覇。四連覇目はまさかの不参加で逃しましたが、その理由は当然王女のエビ騎士団設立を阻むために、団員に立候補した者を端から端まで打ち倒す為でした。
平民からも分け隔てなくエビ騎士団の団員を募ったので、王女への悪意や……それこそ下心を含んだ者が多く、そもそも彼女の騎士は自分で充分、という嫉妬心の元、無表情で当て身を繰り返す灰の騎士の話は、実に下町の酒のツマミになりました。
騎士は従軍の経験から、戦の智謀にも優れ、その上で王女への話題づくりのため、花や音楽、芸術の方面にも造詣が深くなっていました。
しかし、それだけの努力をもってしても、王女への恋慕は芳しい芽生えを出さず、全戦全敗の繰り返しです。
体を鍛え、教養を深め、工夫を凝らして、時折振られる王女の話に出来る限りの突破口を探して……それでも騎士と王女、その関係性から先へは進めません。
彼は王女とそれなりの信頼関係を築けているつもりでしたが、どうやればその先に進めるのか、その答えに至れなかったのです。
いよいよ万策尽きはじめた騎士でしたが、まだ最後の……最後の作戦が残っています。それを着々と進めている最中に、とんでもない話が飛び込んできます。
ある日、いつものように王女のエビ漁船入りを未然に防いだ騎士に、王女はあっけらかんとこう言いました。
そういえば、そろそろ私、結婚するみたい。
それを聞いた騎士の心の、荒れ狂いようは尋常ではありませんでした。とことこと海岸から城へ戻る騎士の馬。騎士の後ろに居る女王は、とても平静な顔をしています。日に照らされた髪は仄かに輝いて、遠くの城を見つめる瞳はこの世で一番美しい蒼でした。
今日の朝食はあれがいい、というような声音で告げられた言葉は、やがて広く国民の知るところになりました。
――王女、結婚! お相手は隣国のリゾット第一王子!!
そう第された新聞を見つめる騎士は、あ然として立ち止まってしまいました。国民は皆、祝福ムードです。婦人らは桃色の花弁を街中にばらまいて、子供は手作りの笛で音を奏でています。犬でさえ、はしゃいで街路を走っていました。
この国の隣国リゾットは、海に面した大国として知られていました。この国への海産物の輸出は半数がリゾット国からのものであり、穏やかな風と雄大な海で知られる国です。
おまけに王女の婚約者となるリゾット第一王子は、王族でありながら学者として……海洋学者として、非常に優れた人間でした。
海産物の面にしても、相手の人柄にしても、エビ王女を嫁がせるのであれば、これ以上にない模範解答でした。加えて、この国とリゾットは非常に仲がよく、その要因の一つが常日頃リゾットの海産物をべた褒めする、かのエビ王女なのでした。
さあ、完全に国は祝福を上げ、リゾットの国民も同じような雰囲気だと新聞は謳っています。なによりも、王女が特に拒否せず婚姻を受け入れたという点が、騎士の心を打ちのめしました。
結婚式は約二週間後。お化粧や服の採寸などで、王女は色々と忙しくなります。近衛騎士たる灰の騎士はその間、休暇を出されました。
久しぶりの纏まった休暇です。ですが騎士は、首が下を向いて動きませんでした。涙は出てきません。この結婚は、多くの人々を、そして王女を幸せにするものです。この結婚で心折られるのはこの世でただ一人、灰の騎士だけなのです。
ですから、騎士は泣きませんでした。慟哭の叫びを漏らすことも、絶望に打ちひしがれて寝込むこともありません。
ただ、彼女にもたらされる幸せが、その運び手が自分であったのならと、そう思うだけでした。
騎士はのろのろと城を出て、城下町を歩きます。燦々と散る花吹雪、人々の笑顔。その一枚一枚が視界を塞ぐたび、騎士はこれまでの王女の姿を思い出しました。
何事も一生懸命な女王の笑顔。漁船入りを防がれ、いたずらっぽく謝る王女の顔。国事に向かい、真剣な顔を見せる王女。そして極稀に見ることができる、テラスから国を見下ろす王女の、聡明さを感じる静かな横顔。
彼女が幸せならば、と騎士は俯きながら思いました。自分は彼女の近衛騎士です。王女が結婚したからという理由で任を解かれることはありません。恐らく仕事場がリゾット国に変わるだけで、自分の居場所は変わらないでしょう。
ならば。あの笑顔が近くで見られるのであれば、それで良いではないですか。
そうやって作り笑顔を浮かべた騎士に、声がかかりました。
おい、どうしたよ、と。
顔を上げれば、そこには騎士の同僚が居ました。国に戻った灰の騎士に、まあお疲れ様、と声を掛けた同僚です。あまりにも灰の騎士が浮かない顔で歩いているものだから、町中で非常に目立っていたところを、たまたま見つけたのでした。
灰の騎士は同僚に連れられた酒場で、胸の内をだくだくとこぼしました。
これまでの努力、その結果。王女の素晴らしさについてと、憎き恋敵エビについて。そして、王女の結婚とそれに対する思いをぶちまけたのです。
全てを聞いた同僚はうんうんと頷き、そうして開口一口にこう言いました。
――なるほどわかった。んで、お前はその馬鹿でかい気持ちを王女に伝えたのか?
ぽかん、と騎士は固まりました。その様子に同僚は焦ります。いや待てよ、まさか一言も口に出してないとかないよな、と。
騎士は無言でした。彼は幼少期から王女一筋に生きて、長い従軍の果てにいろいろと拗らせてしまっていたのです。
同僚は呆れながら言いました。好きなら好きって言わねえと、分かるわけ無いだろうが、と。お前がやってたのは好きになってもらうための準備でしか無い。準備がしっかり出来たら戦わなきゃ意味無いだろ、と。
鎧と盾を構えて、じっくり待って、あれなんで戦いに勝てないんだ、では話にならないのです。
あまりにも痛い所をつつかれた騎士はまた首が下を向いてしまいました。
――まあ。もう、過ぎたことは仕方ない。今は次だ
同僚はそう言って、騎士の肩に手を置きました。そして、問います。
お前、結局どうしたいんだ、と。騎士はよく分からず、首を傾げます。同僚はまたため息を吐きました。
色々と問題があるのは分かってる。お前の現状も良いとは言えない。それは一旦捨てておけ。お前は、何がしたいんだ?
そんなもの、決まっていました。そうです、決まっていたのです。ですが、それは選べません。彼は王女の騎士でした。彼女の幸せが彼の幸せで――
「うるせえ」
同僚は騎士の女々しい言葉をイライラしながら切り捨てました。
「お前、王女様の騎士になりたかったんだろ。そのために死ぬほど努力したんだろ。死んでもいいって思いながら生きてきたんだろ。何を今更逃げ出してんだ。死んでもいいなら、一回死んでみろ。俺のほうが幸せに出来るって叫んでみろ」
それを言えるようになるための甲斐性も、努力も、お前は死ぬほどたくわえてきただろうが。
灰の騎士は、頭が真っ白になりました。言われた言葉をなんとか飲み込もうとする中、真っ白だったそこに、大好きな笑顔が映り込みました。
ああ、そうか、と騎士は理解しました。騎士はずっと、逃げていたのです。前に進むフリをしながら、何度も回り道と工夫を凝らして、それで進んでいるつもりになっていたのです。
前に踏み出すことで失ってしまうものを恐れ、保身に走っていました。もし、王女に拒絶されたら? この想いが迷惑だったら? 想いを伝えることで、この関係が終わってしまったら?
結局彼は、自分が何がしたいのかから目を逸らして、彼女の幸せを言い訳にして、進むべき一歩を踏むことなく逃げていたのです。
回答は、ずっと目の前にありました。
それに気づいた瞬間、騎士の見る世界が変わりました。二週間。その途方もなく長い生き地獄が、たった二週間に変わりました。
やらなければならないことが、必要な根回しが非常に多くありました。灰の騎士の顔色に、生気が宿ります。
ありがとう、と言葉を残して騎士は同僚の元から離れました。そうして、それから二週間、あちこちを駆けずり回りました。騎士団の団長の元へ、鍛冶師の元へ、遠い故郷の親元へ、馬を預ける厩舎へ、そして偉大なる王の元へ。
頭を下げ、弁舌を垂れ、行動で示し、知恵を絞りました。自分の全てを総動員して、心の底から度胸を引っ張り出して、慣れない大見得を切りました。
――そうして、二週間後。つつがなく、何一つ変わりなく、エビ王女と第一王子の結婚式が始まりました。両国で最も大きな教会で、それぞれの国の主賓を勢揃いさせた結婚式が執り行われます。リゾット第一王子が最初に神父の前に立つと、賓客たちは色めき立ちます。
整った金髪に、王女に似た青い瞳。けれどこちらは空色に近く、少しだけ頼りないような、裏を返せば優しそうな瞳でした。
学者らしく、深い智慧を感じさせる第一王子は、若々しく跳ね回る王女の伴侶にぴったりであるように思われました。
そうして、少しの間を持って王女が現れます。その瞬間、その場の全員が言葉を飲みました。白いドレスに身を包んだ王女は、あまりにも美しく、神々しささえありました。はにかむような微笑と、海を思わせる瞳。緩やかに歩く姿には黄金比という言葉が脳裏を過ります。
とはいえ、耳に掛けた赤い横髪に、銀のエビの髪留めがあることから、生来の快活さは健在であると分かります。
神聖な静寂の中、結婚式は進んでいきます。両国の来賓から祝辞があり、他国からの祝言が読み上げられ、神父がこれから生まれるであろう二人の子供への祝福と、二人の健在を神に祈りました。
そうして、静かに二つの指輪と王冠、ティアラが神父の手に渡ります。
神父は、教会を深々と見回しながら朗々と声を上げました。
これから、誓いの言葉と結婚指輪の交換を行います。その前に――この結婚に異義のあるものは、この場で申し立てなさい。そうでなければ、永遠に閉口していなさい、と。
お決まりの台詞でした。両国の賓客たちは笑顔で、人によっては涙目で笑いながらその言葉を聞き流して……小さく、咳払いが響きました。
見れば、それはエビ女王の父親、国王の咳払いです。少しだけ、場に緊張感が張って、神父が聞きました。
「どうかいたしましたか?」
「いや、失礼。……ところで、リゾット国王、第一王子、リゾットの方々。一言だけ謝らせてくれ」
国王は困ったような顔で、リゾットの国王やその他の面々に笑いかけました。はにかむような、エビ王女によく似た笑みでした。
神父が何を、と聞きました。続けて、式場の外から慌ただしい物音がしました。
やれ止めろだの、取り押さえろだのと聞こえます。これではまるで戦場です。そんな中で、国王はお茶目な笑顔を見せながら、こう続けました。
「いやあ、若者の恋心とは侮れんな。賭けはワシの負けか」
国王は笑い出し、リゾットの面々が首を傾げる中、国王の国の来賓達は全員頭を抱え、宰相は目を回し、女王は貧血で座ったまま失神しそうになりました。
彼らは皆、国王のギャンブル癖を知っていたのです。ですからきっと、国王が何かの賭けに負けたのであれば、とんでもないことが起きると分かっていました。
式場の外の物々しい音が止みます。しん、と急に静かになりました。とことこ、と蹄が石畳を踏む音と、馬の嘶きがあって――ダン! と式場にある両開きの扉が蹴り開けられました。
「――その結婚。待った!」
はらりと散った埃の真ん中、開ききった扉から注ぐ光を一身に受けて、一人の騎士が立っていました。騎士は紅蓮の鎧に身を包み、それらには数え切れない程の傷がありました。血潮を纏ったような紅蓮の騎士は、傷だらけに凹んだ盾と、くすんだ騎士大剣を持っていました。
しかし、その雄々しい鎧とは別に、全員の目を引くものがありました。それは、騎士の兜です。傷だらけの鎧とは違って真新しく……そうしてそれは、エビの頭の形を模していました。
比喩ではなく、そのままエビの形です。さしずめ、エビの騎士といった所でしょうか。教会の外には、雪のような毛並みの白馬が騎士の後ろに控えていました。
騎士は教会の面々を見回し、そして静かに剣を掲げてこう言いました。
「我こそは、エビの騎士! ここに、眉目秀麗な『エビ王女』なる方がいらっしゃると風の噂に聞き、白馬に乗って参上仕った!」
威風堂々と、精一杯の勇気を振り絞ってエビの騎士……灰の騎士はそう吠えました。その姿にリゾットの面々はあ然として固まってしまい、国王は大爆笑し、神父はおろおろとして……エビ王女は、一瞬目を見開いた後、くすりと小さく笑って、続けてあはは、と笑ってしまいました。
騎士の二週間は、この瞬間のためにあったといっても過言ではありません。灰の騎士が王女攻略の万策を失い、最後に残したとっておきの、秘密の計画。それこそが、この『エビ騎士計画』なのですから。
王女がまだ幼かったころ、彼女はこんなことを言って、世話係を困らせていました。
――『白馬に乗ったエビの騎士』を旦那様にする、と。執念のリサーチによってその情報を掴んだ灰の騎士は、灰の騎士たる己を捨て、エビの騎士となるべく行動を始めていたのです。
彼は贔屓にしている鍛冶師に『兜をエビの形に出来ないか』と頼み込み、出来るが流石に時間がかかるぞ、と回答を貰っていました。
結婚式の二週間前、騎士は鍛冶師に走り込み、大金と共に頭を下げて、もっと早く仕上げてくれないか、と頼みました。
こうして紅蓮のエビ鎧を手に入れた騎士が次に向かったのは、自分が所属していた騎士団の団長です。騎士は彼に頭を下げ、騎士団に大きな迷惑を掛けてしまうこと、そうして出来れば、式場の警備の配置を教えてほしいと頼みました。
団長は最初こそきっぱり断ったものの、あまりのしつこさに耐えかねて、『俺に剣で勝ったら教えてやる』と口にし、そして騎士は団長を秒殺しました。恋は人を強くするのです。
そして次に、騎士は厩舎へ向かいました。白馬を手に入れるためです。白馬は非常に人気が高く、高値でしたが、騎士はしっかり貯蓄していたお金で白馬を手に入れました。
王女との将来を考えていた騎士にとって、貯金は当たり前の行為だったのです。
最後に、騎士は国王に直談判を仕掛けました。まず始めに、自分が王女を愛していること。今回の婚姻を認められないこと。そうして、自分ならば彼女を一番幸せにできると、そう大見得を切りました。
国王はその言葉にため息を吐きましたが、次の一言に目を輝かせてしまいます。輝かせてしまうのです。
偉大なる王よ――私と一つ、賭けをしませんか?
私が単身で式場に乗り込み、正面からすべての警備兵を殺さず無力化し、誓いの言葉を述べるその時までに式場に辿り着けたのであれば、その上で王女が納得し、私の手を取っていただければ、そのときは認めてくださいませんか、と。
失敗すれば、私は全てを手放しましょう。この命尽きるまで、貴方様のあらゆる命令を聞き入れ、責任を取って死ねと仰るのならば、迷いなく自刎いたします。
真っ直ぐ、国王の目を見据えながら、余裕綽々に笑いながら、騎士はそう提案しました。それはあまりにも無茶苦茶な賭けでした。いくら灰の騎士といえど、この国の騎士とリゾットの騎士団を同時に一人で殺さぬよう相手し、式の刻限に間に合わせ、なおかつ王女に手を取らせるなど不可能なのですから。
しかし、王は知りません。騎士が警備兵の配置を丸ごと知っていることも、エビ王女の特攻たりうる白馬のエビ騎士装備を手に入れていることも。
更には生粋のギャンブラーが災いして……国王は面白い、と言いました。やってみせてみろ、と続けざまに笑って――そうして、今も爆笑しています。
そんな国王を一瞥してから、騎士は荒んでいた吐息を整え、ゆっくりと一歩を踏み出しました。この一歩がとても恐ろしく、多くの回り道を重ねました。
それを歩み、奇異の目を向けられながらも揺るがず、騎士は王女の前に立ちました。一瞬、王女の隣のリゾット第一王子と騎士の目が合い、そして王子は騎士の鎧の肩に微かに残った灰の塊に、目をしばたかせました。
騎士と王女が向かい合い、騎士は高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、逃げ出したくなる弱さを噛み潰しながら、王女を見つめます。
あいも変わらず、その姿は騎士にとって眩しすぎるものでした。この世に天使が居るのならば、きっと彼女がそうなのでしょう。もしかしたら、天使どころか女神かもしれない、と罰当たりなことを思いながら、騎士は口を開きました。
「おお、なんと……美しい御人か。貴女様が、エビ王女でお間違い無いか」
王女は芝居がかったその言葉にはにかんで、首を縦に振ります。式場の面々は何をどうしたらいいのかさっぱりで、最早映画を見るような心持ちで目の前の光景を見ていました。
その静けさの中、やけに大きく唾を飲む音が聞こえて、騎士が跪いて、王女に片手を差し出します。
「お許しを。一目で私は、貴女様に惚れてしまいました。貴女を愛してしまったのです。どうか、どうか私の手を取ってはくださいませんか」
極度の緊張に揉まれた騎士が吐いたのは、飾り気のない言葉でした。何年と仕えても、どれだけ姿を磨いても、結局口からは出せぬ言葉でした。
それを受けた王女は少しの間黙って、ふふ、と笑います。続けて、ねぇ、といたずらっぽく言いました。
「熱烈なエビの騎士さん。一つだけ、質問してもいいかしら?」
「……はい」
「――貴方、エビは好き?」
一拍の沈黙がありました。そうして、騎士は顔を上げて、こう言ったのです。
「――貴女様には、負けてしまいます」
その答えには、二つの意味がありました。騎士は王女ほど、エビを好きにはなれないということ。エビが好きだという思いこそあれ、それは貴女を想うよりも強くはないということ。
その二つを受けた王女は、笑いながらいいました。
「ふふ、合格」
そうして騎士の手を取って、騎士はそれを握り返しました。そのまま王女は騎士に連れ去られ、白馬と共に式場を抜けていきます。残されたのは空っぽの結婚と、静かな式場と、棒立ちの神父だけです。
ようやく事態を飲み込んできたリゾットの面々が国王にこれは一体どういうことなのですか、と食って掛かる前に、リゾット第一王子が咳払いをしました。
続けて、なよっとした、人懐こい笑みで両手を降参の形に挙げ、こう言います。
いやぁ、参りました。エビ王女にエビの騎士。私よりもきっと、お似合いなのでしょう。何より、私じゃあエビに勝てませんとも。
こうして、波乱の結婚式は幕を下ろしました。とはいえ、エビ騎士と王女の駆け落ちは、めでたしめでたしで終われるほど軽い出来事ではありませんでした。
結婚祝の号外から、さらに号外が飛び出し、それに国民らは皆度肝を抜かれます。
――婚姻、破談! 王女、エビ騎士と駆け落ちか!?
両国の国民達は混乱の極みにいましたが、唯一リゾット国に比べれば、エビ王女を知る国民達の混乱は小さいものでした。誰も彼も、目を剥いたあとにこう言ってしまうのですから。
まあ、エビ王女なら仕方ないか、と。
両国の関係性を取り持つために、賭けに負けた国王は馬車馬の如く走り回ることになりましたが、自業自得というものでしょう。
それから、あれよあれよという内に、エビ騎士の正体が灰の騎士であることが判明し、詩人たちがロマンスの匂いに色めき立ちます。
立て続けに、灰の騎士が王家に婿入りという号外が飛び、国民は何がなんだが分からない状態でしたが、取り敢えずめでたいことだけは分かったので、花吹雪を片手に祝の祭りを始めました。
こうして、エビ王女の婚姻を巡る波乱は幕を閉じ……城の一室で、灰の騎士は色めき立つ城下町を見つめていました。正直な話、ここまでとんとん拍子で話が進むとは思っておらず、夢心地でした。
ちらりと目線を横にずらせば、磨き抜かれた紅蓮の鎧が鎧立てに立てかけられています。それを見るたびに、自分が行った無茶苦茶な『賭け』について思い出してしまい、少しだけ顔が赤くなってしまうのでした。
しかし、鎧の中でも最も特徴的な、エビの兜はそこにはありません。騎士は、さらに目線を動かします。飾り気のないベッド。その上に、一人の女性が腰掛けています。柔らかな太ももの上には、件のエビ兜があります。
王女は顔をだらしなく緩ませながら、兜を色んな方向から観察し、これを造った鍛冶師を城に迎え入れないと、とまた国王に怒られそうな事を口走っていました。
ここは一応、灰の騎士の部屋なのですが……数十分前、王女はノックと共に部屋に突撃し、そして一目散にこのエビ兜を奪い去ったのです。
あまりにも相変わらずな姿の王女に騎士は苦笑し、王女が顔を上げます。
「ふふふ……あ。そういえば、聞くのを忘れていたのだけれど」
この兜、というか鎧は、私がいただいても良いかしら? 唐突な質問に、騎士は面食らいました。折角手に入れたエビ騎士装備を手放すなんてとんでもない。ですが、他ならぬ王女の願いです。
騎士は冷や汗を背中に感じながら黙り込み――そこで王女が、ハッとしたように言いました。
「この鎧がほしいのは、もちろん素晴らしいからだけれど……それだけではないのよ?」
「失礼ですが、それは一体……?」
理解にたえかねて騎士が首を傾けると、王女はむぅ、と唇を尖らせます。それを私に言わせる気ですか、と小さく呟いた後に、良いでしょう、と彼女は背筋を伸ばしました。続いて静かに、深海の色の瞳が騎士を捉えます。
「私は、エビが好きです。その造形、色、味に至るまでを愛しています。けれど……」
「……」
「それだけが好き、という訳ではないのよ」
私はこの国が好き。お父様もお母様も好き。この国の住民が好き。ただ、エビは一番好きなのです。
王女はそう言って、少し口籠り……続けて騎士へ、艶やかに笑いました。少しだけ首を傾けて、髪を揺らして、こう囁きます。
「私はエビが好きだけれど……それに追いつくくらい、貴方が――ずっとずっと努力していた貴方が、どこまでもひたむきな貴方が、素直で、でも本当は臆病な『灰の騎士』が……好き、なのよ」
けれども、貴方からはなーんにも言ってくれないので、王女は困っていたのです、とエビ王女は下手くそな泣き真似をしてみせました。
つまるところ、『エビの騎士』は好きだけれども、エビの騎士になってくれた『灰の騎士』も大好きだ、と王女は言っているのです。だから、鎧は貰うと、貴方は貴方の姿で居てと言っていました。
鈍感ですが賢い灰の騎士はその答えに行き着いて、顔が真っ赤になってしまいます。その顔に、ちょうど茹でたエビの色のようですね、と王女は言い、騎士はからかわないでくださいと、と縮こまりました。
王女はくすくすと笑って、言います。
「好きなものが、また一つ増えました」
「……私は、失礼な話ですが……王女はエビ以外に好意は無いと……」
王女の言葉に思わず騎士は言い訳じみた声音でそうこぼすと、王女はきょとんとした顔をします。しかし、すぐにまた、小さく笑みを浮かべると、こう言います。
「好きなものが一個だけなんて、そんな人生つまらないでしょう?」
王女は昔と変わらぬ、騎士を惚れさせた満開の笑顔を浮かべます。騎士は一瞬、呼吸を止めて……ああ、これは参った。私の好きなものも、どんどん増えてしまいそうだ、と笑ってしまいました。
――昔々、あるところに不思議な王女が居ました。緋色の髪、深海の瞳、見るものを見惚れさせる整った容姿の王女です。そんな王女にはこんな通り名が付いていました。
――エビ王女。
そうして彼女は今、王女から女王になり……いつもどおり王様を困らせながら、毎日楽しく暮らしているそうです。
めでたし、めでたし。
ご一読、ありがとうございました。