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霧立ち込めの息 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 ふうう、今日のスクワット終わりっと!

 つぶつぶって、どれくらい筋トレしてる? ここんところ、あたしも筋トレ始めたんだけど、どれくらいの基準か知りたくって。

 おっと、悪あがきなんて言わないでよ? そりゃ、この体型とつきあって長いけれど、最近お母さんが体に愚痴こぼすの、よく聞くもんだからね。「若いころに、もっと身体を動かしておけばよかった」うんぬんって。

 せっかく生きるなら、健康で長く生きなきゃ楽しくないし? かといってやり過ぎて身体壊したら、それはそれで元も子もないし? 適度なあんばいとやらを、つぶつぶセンセイにご教授願おうってわけよ。


 ――まだ本格的じゃないから、週に2回程度。有酸素運動もあわせて、ムリのない範囲で休ませている?


 ははあ、想像していたよりゆるいわね。その分、活動のきつさはそれなりなのかしら?

 動かすときには、まとまった時間で適度な刺激を与えていく。この接し方。どうやら今に限らず、昔から効果的な方法らしいのよ。何かに働きかけるのに。

 私が前に聞いた話なんだけど、耳に入れてみない?



 むかしむかし。

 出稼ぎに行っていた町から、海辺の故郷への道を歩く、ひとりの男がいたわ。

 すでに何回も通った道で、整備されこそすれ、そこから見える景色は例年あまり変わらない。その気になれば、家までの十数里、目をつむってでもたどり着けると、男は自信を持っていたらしいわね。

 その年の帰りの行程も、残り一日というところまで来ていた。早朝に木賃宿を出た彼は、夕方までには村へ戻ろうと、足を早めていたらしいわ。


 その昼過ぎのこと。

 茶屋で一服していた男の周りを、不意に霧が包みだす気配がしたわ。

 故郷の村では、ときおり出くわしたことがあったものの、この道中で出会うことははじめてのことだったわ。

 茶屋の主に聞いてみると、このひと月あまり。毎日、この時間帯になると、あたりは霧にまかれるのだとか。

 一刻もすれば晴れるだろうけれど、そのころにはもう日も傾きかけて、さほど距離を歩けない。どこか近くで一泊すべきと勧められたけれど、少しでも早く親に顔を見せたい男は、その提案を退ける。

 足元より続く道。それを頼りに、濃さを増す霧の中をどんどんと進んでいったわ。


 歩を進める間、濃さを増す一方である周囲の霧。いよいよ足元以外に見えるものがなくなってしまい、耳に届くのも、砂利を蹴散らす自分の足音ばかり。茶屋の主の勧めたように、皆は内へ引きこもっているのかしら。

 歩きなれているだけあって、男は自分がいかほどの時間をかければ、どれほどの距離を進めるのか、およそ予測がついたというわ。記憶の通りであるなら、件の茶屋と村との中間に、境界を示す地蔵が道の脇に見えてくるはず。

 けれども、すでに地蔵どころか村まで着いていなければいけないほど、歩いている感覚があったわ。なお半里ほど歩いても、やはり地蔵の影がない。



 これはおかしい、と思い出した男の顔へ、強く吹き付けるものがあったわ。

 風、そしてそれに押された霧。顔へ張り付くいくつものしずくを、思わずカッパの襟でぬぐったとき、それが見えたわ。

 押された霧により、開けた空間。半径およそ五尺(約1.5メートル)のその範囲の真ん中に、「しこ」を踏むふんどし一丁の力士らしき影があったの。

 どしんと、大きく揺れる地面。

 それなりに離れているのに伝わる、飛び上がらんばかりの衝撃に、男はひと目で関わるべき手合いじゃないと悟ったわ。

 さわらぬ神になんとやら。やや身をかがめるようにして、そそくさその場を去ろうとする男だけど、目は猫のように、警戒すべき力士の姿から外さない。

 

 足をつき、腰を深く落とした力士は、手のひら同士を組み合わせ、そんきょの姿勢。男の方を一瞥もせず、そのままの不動の構えをしばし保っていたわ。

 やがて、その口がゆっくり開く。ややのけぞり気味に、大きく息を吸い込んだ力士は、音を立てるほど、すさまじい呼気を放ったわ。

 瞬く間に、空が波を打つ。あたりを覆う霧が再び押しのけられ、特に力士の前方にあるものは壁のようにそびえ立ち、勢いを得て前へ飛ぶ。かの壁は刃を取り付けられたように、周りの霧を断ち切り、晴れた地面の軌跡を存分に残していったわ。

 

 いよいよもって人とは思えないと、先を急ぐ男の身体を、次々に打つものがある。

 石つぶて。いや、それよりももっと細かい、砂たちのように男には思えたわ。

 足といわず、頭といわず。横殴りの雨と見まごう無数の乱打に、たまらず男は合羽を頭まですっぽりかぶる。

 痛みは防げたものの、代わりに絶えずカッパを叩く音。あの力士を追い越してからずっと続いている。おそらくこれも、あいつのしわざ。

 もう振り返らなかった彼は、もう半里歩いて目印の地蔵に。更にもう半里を動いて村へたどり着けたらしいのよ。

 

 その一日は彼にとっても、他の村人にとっても奇妙な時間となったわ。

 家々や周囲の景色などは、ほとんど変わりない。なのに、出稼ぎの男が帰ってきた道を逆にたどると、やはり目的の茶屋までは余計に時間がかかったみたい。ただし、男が見た力士の姿はそこにはなかったわ。

 距離にしておよそ2里。いったん往復した村人がおおよそ測った距離だけど、にわかには信じられない他の村人が、自分も歩いてみようと支度を整え出したところ。

 

 

 大きな地震があったの。

 男は最初こそ、もしやあの力士の仕業かと思ったけれど、すぐにそれを上回る揺れが村全体を襲う。

 立っていられないところじゃない。年季の入った小屋などは、軒並み倒壊。その他の家も支える柱や土台にひびが入ったりと、補修が求められるほどの痛手を受けたりするほどの、大きな地震だったとか。

 幸い、人的被害はさほどでもない。みんなが自前で修理に取り掛かる中、ふと思い立った男はあの道をもう一度、引き返して見て、息を呑む発見をしたわ。

 

 本来ならば、村があったであろう2里先の土地。

 そこは全体的に陥没しているばかりか、底も見えないほどの深い地割れがところどころに走り、もはやどこから手をつければいいか分からないほど荒れていたそうよ。

 もしも、ここに村が変わらずにあったなら、どれほどの被害が出ていたか……。想像して、男は背中を流れ落ちる汗が、止まらなかったそうね。

 

 村がおよそ復旧を果たしたころ。

 夜中に何人かがふと目を覚ましたわ。

 家々を叩く、細かい砂利の音。そしてかすかな床の揺れ。寝入ろうと思えばできるけれど、起きて外をのぞいて見た者は、かなたの海でしこを踏む、ひとりの力士の姿を見たとか。

 翌朝になってみると、茶屋までの道は元通りの長さを取り戻していた。村は男の知る地点まで戻っていたのよ。

 そこには陥没も地割れもなく、修繕された村と周囲の景色があるばかり。

 ひょっとするとあの力士は、地震による被害を予見し、村とその周りにあるものを、あのつぶてを含んだ息によって一時的に追いやった、守り神かもしれないと伝わるそうよ。


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