この夏、想い馳せる君のこと
夏休み明けの教室には、これまでと同様、一つだけ空いた机があった。
クラスの全員が登校してきても、その席には誰も座らない。授業が始まっても、昼休みになっても、その席がうまることはない。
その席は、この春に亡くなった出雲遥香の席だからだ。
彼女には生前、夏にやりたかったことがあったらしい。足立がそのために俺たちを誘って、夏休み、色んな所へ行った。
彼女が亡くなったと聞いた時、もちろん悲しかった。だけれど、壊れるくらいに泣いている足立を見てしまうと、俺の感情はその枠に入れてしまうのもおこがましいくらいだった。
そうしているうちに、自分は本当に、そこまで悲しくないのではないかと思えてきてしまった。
彼女とは特別仲が良いわけではなくて、たった二回、話した程度。最初は俺から。二回目は、彼女から。
『生きてるから、ラッキーだよ』
背筋を伸ばしてそう言う彼女に、ものすごく驚いたのを覚えている。
儚く白い肌が印象的な、細身の女の子。こんなにはっきりと話すのも、無邪気に笑うのも、その時に初めて知った。
叱られたような感覚だった。いつも病院に通っているという彼女にとっては――生と死を常に見つめている彼女にとっては、俺の悩みなんて、泣くほどのことじゃない、と。
なんて規模の大きい話をするんだろう。
その時の俺にとっては、サッカーが、レギュラー入りすることが全ての世界だった。だから、全然「そんなこと」ではなかったのだけれど、彼女に叱られて、思わず笑ってしまったのは紛れもない事実で。
でも、思い返せばここがターニングポイントだった。
自分はサッカーが好きだけれど、サッカーは自分のことを好きじゃない。俺には向いていない。このままやめてしまおうかと、一人悩んでいた。
高校になってもサッカーを続けたのは、あの時、彼女が「大丈夫」と言ってくれたからだ。
また新しく頑張ればいい。生きてればラッキー。前よりも軽い気持ちで、俺はまた、サッカーに向き合えるようになった。
ありがとう、と。ちゃんと彼女に伝えられれば良かったのに。
『大丈夫だよ』
夏休み、お墓の前で座り込んだ時、彼女の声が聞こえた気がした。風が吹いて、目の前にあの日と同じ、無邪気な笑顔が俺を見つめているような気がした。
『霧島くんに出会えたことが、私の人生で一番のラッキーです。』
俺はそんな大層なことを言ってもらえるような人間ではないけれど、いつかの俺を救ってくれたように、俺も彼女を救えていたのなら、それはとても喜ばしいことだと思った。
***
「てか雫、また髪色変えたの?」
電車から降りて改札を抜ける。
足立がそんな質問を投げかけながら、糸川の長い毛先を摘まんだ。
「そー。明日から夏休みだし」
「フライング夏休みじゃーん」
似合ってるぞ、と親指を立てた足立に、俺の前を歩いていた近江が振り返る。
「早くしろよ。暑いんだから」
「うるさいなぁ、女子と男子じゃ歩幅が違うんだって。そんなことも分かんないの、だからモテないんだよ」
「今は関係ないだろ」
思い切り顔をしかめ、近江はまた前に向き直った。それでもさっきより若干歩くペースが落ちているから、足立の攻撃が効いているらしい。
緩やかな坂道を登れば、墓地が見えてくる。早くも西日が眩しかった。
高校生になって、二回目の夏。
今日は終業式の後、去年みんなで遊びに行った海を訪れた。本来の目的は海ではなくて、これからするお墓参りだ。
「ていうか、何で今日? もっと時間あるときにゆっくり来ればよかったのに」
ねえ遥香、と同意を求めるように墓石に水をかけた足立は、随分と優しい目をしている。近江への対応とは大違いだ。
「どうしても今日じゃなきゃ駄目だったんだよ」
答えつつ、俺はろうそくに火をつけた。その火を線香に移して、上がった細い煙を見つめる。
足立が首を傾げ、「ま、いーや」と声色を明るくした。
「どうせ帰ってもアイス食べてテレビ見て寝っ転がるだけだしね~」
道中に買った花を添え、四人で手を合わせる。穏やかな沈黙が空気と共に流れた。
足立の言う通り、もっと時間のある時にここへ来るべきだったのかもしれない。でも、俺はどうしても今日、来たかった。
出雲。俺、やっとレギュラー入りできたよ。中学三年間ダメダメだったけど、今日、大会のメンバー発表で自分の名前が呼ばれた時、ようやく報われたって思った。
高校入ってからサッカーばっかりだし、朝練の影響で授業中は眠いし、勉強は散々だけどさ。でもそのおかげで、今まで話すきっかけがなかったやつに勉強教えてもらってさ。そいつも入れてみんなで昼休み、サッカーできるようになったよ。
ありがとう。出雲、ありがとうな。
一年かけて、ようやく彼女に伝えられた。それが清々しくて、やっぱり今日来て正解だった、と安堵する。
気が付けば俺以外は既に顔を上げていて、隣にいた足立が黙ったまま、俺を待っていた。
「良かったね」
主語も述語もないそれに頷く。
足立は小さく笑って、数秒慈しむようにお墓を視線でなぞった後、ゆっくりしゃがんで線香の火を消した。
「今日もあっついね、遥香」
最近どう? と、まるで久々に会った旧友のように語り掛けている。否、あながちその表現も間違っていないのかもしれない。
「私はね、球技大会でめっちゃ活躍したよ。霧島は相変わらずテストの点数ヤバいし、近江は彼女いないし、雫はネイルが派手め」
「おい」
近江が耐えかねたように口を開く。
「あは。ほらね、相変わらず短気でしょ。ねえ、遥香。みんな、全然変わってないよ」
だから、来年もまた、絶対に来るよ。
そう付け足して、足立は僅かに目を細めた。
一通りの挨拶を終え、俺たちは元来た道を戻る。
気を遣って歩幅を小さくしていた近江が、その前を歩いていた足立に揶揄われて、二人の鬼ごっこが始まった。糸川はそれを気怠そうに眺め、別段ペースを上げることもなく歩き続けている。
刹那、後ろから風に大きく背中を押されて、反射的に振り返った。そこには、自分たちが今さっき辿ってきた道があるだけだ。
あの夏、一人泣いていた。それを咎めるように俺の前髪を持ち上げた風と、同じ類いのもののように思えてしまう。
だから、なのだろう。
何の変哲もない坂道。あの日と同じように、彼女がまばゆく微笑んでいるような気がした。