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愛別、暮れる風と伝う言

 


 静かに電車に揺られていた。流れていく外の景色を眺めているのは私だけのようで、みんなはただただ俯いている。


 少しずつ空が夕焼けに侵食されていく、黄昏時。

 さっきまでいた砂浜の喧騒は、もうすっかり消え失せてしまった。海からの帰り道、その足で私たちは、また違う場所へ向かう。


 薫はもうずっと、泣き続けていた。泣いて泣いて、泣き腫らして、今は肩を震わせながら、じっと目を閉じている。



『遥香がやりたかったこと、全部、私が叶えます』



 泣かないでよ。薫は本当に、全部叶えてくれたじゃない。私一人じゃ、生きていたとしても絶対に叶えられなかったことを、全部。


 これまで明るく元気に振舞っていた彼女が急に泣きじゃくるから、他のみんなはどうしていいか分からずに戸惑っているようだった。いや、泣いている理由はもちろん分かっているのだろうけれど、なんて声を掛ければいいのか考えあぐねている、と言った方が正しいかもしれない。


 でも、本当はちょっとだけ嬉しいよ。薫はあの日から一度も泣かなかったから、私のこと忘れてしまったのかな、なんて、そんなわけはないのに、不安になる時もあったんだ。


 薫に手を伸ばす。もちろん触れられるわけもなく、私の指は宙を掴んだ。


 電車が停まる。目的の駅に着いたようだ。


 ホームに降り立ち顔を上げると、私たちを待っていたのか、そこには既にお父さんとお母さん、それからお姉ちゃんがいた。

 お洒落なサンダルが、ゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。



「……薫ちゃん、ありがとうね」



 薫の顔を覗き込むように、お姉ちゃんは弱々しく微笑んだ。ぶんぶんと勢いよく首を振った薫が、涙の粒を撒き散らす。


 それから、緩やかな坂道を歩き出した全員の背中。友達と家族が一緒にいるのを見るのは、お葬式以来だ。

 私のお墓は丘の上にある。見晴らしが良くて、私たちが先程まで遊んでいたはずの海も展望することができるのだ。


 お父さんが墓石に水をかけ、お母さんがお花を添える。お姉ちゃんは、果物とお菓子をお供えしてくれた。具合が悪い時、いつも真っ先に食べたいと言った桃。先生からあんまり食べ過ぎちゃだめだよ、と注意されたチョコレート。


 ろうそくとお線香が立って、各々の背筋が伸びたのが分かった。

 丁寧に合わせられる両手と、おりる瞼と、横顔に射す夕陽。清廉な沈黙が流れる。


 私がこの夏にやりたいことの八つ目は、「家族に感謝を伝えること」。

 目の前の三人に向けて、口を開いた。



「……お父さん、お母さん、お姉ちゃん。私、友達たくさんできたよ」



 薫が私のために、つくってくれたの。他の人からしたら全然「たくさん」じゃないかもしれないけれど、私にとっては十分すぎるくらい。


 それからね、色んな所に連れて行ってくれた。私は小さい頃から病院にいてばっかりで、みんなが当たり前にしてきたようなこともできなかったから、ラジオ体操の時は、雫に呆れられちゃったよ。

 でもみんな、何だかんだ付き合ってくれたの。優しいよね。


 全部嬉しかったけれど、そうだなあ、やっぱり私が一番嬉しかったのは。



『えーと、五個でいいのかい?』


『はい。バニラが三つと、チョコが二つで』



 店員の人に怪訝そうに見つめられても、五個買うって譲らなかった、薫の気持ちが一番、私は嬉しかったよ。



「お母さん。いつも、ずっと、一緒にいてくれてありがとう」



 綺麗な細い指を両手で包み込んで、私は真っ直ぐに伝える。あがらない瞼。

 お母さん、いま何を祈ってるの。私はいま、ここにいるよ。目の前にいるのに。



「お父さん。いつも私のわがまま聞いてくれて、ありがとう」



 優しいお母さんの代わりに、叱るのはお父さんの役目だったね。薬やリハビリでいらいらして無理を言った私に、お父さんは私よりも苦しそうな顔をして、そんなことを言うんじゃないって、怒ったよね。

 いじけて私が寝たふりをした後、ごめんって泣きながら謝ってくれていたの、本当は知ってたよ。



「お姉ちゃん、」



 前に一度、大喧嘩をした時があったよね。

 お父さんもお母さんも私につきっきりだから、お姉ちゃんはその分、一人で我慢しなきゃいけないことがいっぱいあった。


 私はお姉ちゃんみたいな人に、なりたかったよ。

 そう言ったらお姉ちゃんはますます泣いて機嫌が悪くなっちゃったけれど、でも私は昔も今も、ずっとそう思っている。



「お姉ちゃん、ごめんね。ありがとう」



 誰からも返事はない。当たり前だ。それでいい。

 私の体を送り出す時、みんながたくさん話しかけてくれたこと、知ってるから。


 家族三人の後ろで、手を合わせる四人に、視線を移す。

 私がこの夏にやりたいことの九つ目は、「友達に感謝を伝えること」。



「みんな、私と友達になってくれて、一緒に遊んでくれて、ありがとう」



 一人が好きなのかと思っていた、本当は友達が欲しいと言った、雫。

 面倒くさそうにしていたけれど、絶対に断らない、優しい近江くん。


 二人とは、もっと早く話していれば良かったなあって、私も思うよ。でもね、まるで私が一緒にいるのが当たり前みたいに振る舞ってくれるから、全然寂しくなかった。



「薫」



 彼女の頬を、手の平で撫でる。


 そんなに泣かないで。薫は笑顔が一番だよ。薫が笑っていると、私も嬉しいの。



「ありがとうね」



 他の人と比べたら短い人生。

 でも、その中で薫と出会えたことが、どんなに幸せだったか。鮮やかできらめいた記憶を、どれだけ彼女からもらったことか。



「ありがとう、薫……」



 遥香、って。薫がそう呼んでくれる度に、私はここにいる、生きてるって、思えたの。

 体が消えてしまっても、変わらず「遥香」って呼ぶから。薫には私がみえているのかなって思っちゃった。そんなわけないのに、おかしいよね。でも、ほんとだよ。


 嬉しい、悲しい、寂しい。まだ感情があって良かった。心を込めてくれた人たちに、私も精一杯、気持ちを返すことができる。


 長い長い沈黙だった。お母さんが顔を上げて、後ろを振り返る。



「……みんな、本当に、遥香のためにありがとう。喜んでると思うわ、きっと」



 ね、遥香。

 以前みたいに、お母さんが投げかけてくる。その時、ようやく目が合った。お母さんの瞳はゆらゆら潤んでいて、それを見て、どうしようもなく愛しくて、涙が出た。


 片付けを終え、ぴかぴかの墓石に西日が反射する。



「霧島」



 ふと、薫がその名前を呼んだ。粗雑に自身の頬を拭った彼女は、霧島くんに向き直る。



「これ、遥香のなんだけど……霧島にも読んで欲しい」



 薫が差し出したのは、あのメモ帳だった。

 おずおずとそれを受け取った霧島くんが、逡巡するように私のお父さんとお母さんの方を見る。



「『霧島くん』って、あなただったの……」



 途端、お母さんが顔をしかめて涙を流した。

 え、と喉から声を漏らした霧島くんに、お母さんは嗚咽を噛み殺しながら言う。



「ありがとう……本当に、ありがとう……」


「あの、」


「それは、あなたに持っていて欲しいの。ごめんね、私が最初に読んでしまったんだけど……」



 メモ帳を掴む彼の手に、お母さんの手が上から重なった。



「遥香と話してくれて、ありがとうね」



 そして、お父さんとお母さん、お姉ちゃんは、「また来るよ」と私に告げて、丘を下っていった。

 近江くんも雫も薫も、遅れるようにして、歩き始めた。


 霧島くんは一人、メモ帳を開いたまま、「私」の前で立ち尽くしていた。







 ――中学三年生の春。それが霧島くんと、最初に話した時の記憶。

 二度目は、同じ年。夏休みに入る前の、最後の日だった。


 終業式は保健室で過ごして、そのあと職員室で先生からプリントを受け取る。

 体調はどうか、高校はどうするのか。軽くそんな話をして、私は教室へ向かった。机の中に、ペンケースを入れたままにしてきてしまったから。


 早速遊びに行く人や、部活に精を出す人。様々だけれど、既に廊下は閑散としていた。教室にもきっと、誰もいない。


 だから、教室へ足を踏み入れた時、人影を見つけて驚いた。



「……くっ、」



 窓際で苦しそうな呻き声を漏らし、背中を震わせている。それが、霧島くんだった。



「だ、――大丈夫!?」



 咄嗟に声を掛けた私に、彼の肩が跳ねる。振り向いた頬は、涙で濡れていた。



「……あ、え、っと」



 目を見開いて、彼が呆然と唇を動かす。慌てたように目を擦り、霧島くんは「ごめん」と零した。

 どうして彼が謝ったのか、私にはさっぱり分からなかった。



「出雲、か……はは。ごめん、びっくりしたよな」



 乾いた笑い方。取り繕ったそれに、返す言葉がない。

 具合が悪いのかと思って声を掛けたけれど、そういうわけではなさそうだ。ひとまず、胸を撫で下ろす。



「どうか、したの?」



 安っぽい質問しかできなくて、そんな自分に憤る。

 詮索せずにいるのが正しいのかもしれない。でも、口から出てしまった言葉は取り消すことができないし、他にどうすればいいのかも見当がつかなくて、困ってしまった。


 霧島くんはそんな私に嫌な顔一つせず、話してくれた。

 サッカー部で、レギュラーになれなかったこと。他の同級生はみんなレギュラー入りしたのに、自分だけあぶれてしまったこと。


 彼はいつも笑っていたから、泣くことがあるんだ、と馬鹿みたいなことを思った。しかも、そんな小さい子みたいに力一杯。

 霧島くんの泣き顔が、強烈に印象に残った。



「まじで悔しくてさ……自分の実力不足なんだけど、何でだよ、クソって……」



 私は部活に入ったことがないし、そんなに夢中になるものを見つけたことがない。いつも、生きるのでいっぱいいっぱいで。

 手術が怖い。リハビリは辛い。薬も副作用でしんどい。呼吸さえ、ままならない時があった。何度も死ぬかもしれないと思った。


 だから、彼の泣いている理由が、贅沢だなあと思ってしまったのだ。



「大丈夫だよ」



 サッカーが上手くないくらい、レギュラーになれなかったくらい、どうってことない。霧島くんは健康で元気なんだから、またチャンスはある。それが違う形だったとしても、きっと。



「生きてれば、大丈夫。何とかなるよ」



 だから、そんなことで泣かないでよ。って、さすがにそれは言わなかったけれど。



「生きてるから、ラッキーだよ」



 本当に、そうなの。

 病院にいると、私より死に近い人もたくさんいる。昨日まで元気だったのに、次の日突然手術になって、そのまま帰ってこなかった人もいる。


 私たちは、こうやって普通に呼吸をしているだけで、奇跡みたいにすごいんだよ。


 霧島くんはしばらくこちらを凝視して、それから、気の抜けたように笑った。



「ははっ」



 八重歯が覗く。青空を背に、眩しく笑っている。笑っているのに、泣いている。



「本当だ。俺、めっちゃラッキーだった」



 出雲が言うなら間違いない、と彼はほんの少し眉尻を下げた。それから、霧島くんは「ありがとう」と息を吐く。



「うん、なんか……ちょっと気が楽になった」



 本当かな。私に気を遣ってそう言ってくれているんじゃないだろうか、と思ったけれど、彼の表情はどこかすっきりとしていて、霧島くんが嘘をつくわけがない、誠実な人なんだった、と腑に落ちる。


 彼の泣き顔を見たのは、後にも先にも、この時だけだった。

 他のみんなが知らないところを、私だけが知っている。憧れだったはずの温度がほんの少し上昇して、愛しさに近付いていくのを、心の奥に感じた。







 ――霧島くんが、泣いている。彼の両目から透明の粒が零れてきて、メモ帳に落ちて、染みができた。



『霧島くんへ


 初めて話した時のことを、覚えていますか。

 霧島くんにとっては、どうってことないのかもしれないけれど、私はよく覚えています。


 本当は学校に行きたくないなと、その日の朝、思っていました。緊張して、早く帰りたいなと思っていました。

 でも、霧島くんが話しかけてくれて、すごく嬉しかったです。私が病気だと知っても普通に接してくれて、嬉しかったです。


 霧島くんのおかげで、もっと学校に行きたいと思えるようになりました。本当に、ありがとう。


 霧島くんに出会えたことが、私の人生で一番のラッキーです。』



 五ページくらいの空白を挟んでこっそり書いていたものだったけれど、お母さんにも薫にも、見つかってしまったみたい。まさか本人の目に触れると思っていなかったから、結構大胆な言葉を連ねてしまっている。


 本当は、直接伝えるつもりだった。最後に一回、学校へ行ける日があったら。霧島くんに会える日があったら。その時のために言いたいことを書き留めておいたのだ。



「……い、づも、出雲、ごめんっ……」



 一年前の夏の日と同じように、霧島くんは、また泣きながら「ごめん」と零す。

 私はやっぱり、彼がどうして謝っているのか、さっぱり分からないのだ。



「俺が……俺のせいで、あんなに学校、」



 断片的に、しゃくりあげながら、霧島くんが呟いている。



「霧島くん、違うよ」



 何となく、彼の言いたいことが分かった。


 私は高校に入ってから、しばらく無理をして学校に毎日行っていた。しばらく、といっても、二週間も続かなかったけれど。

 だって、楽しかったの。霧島くんに会いたかったの。私が勝手にしたことだから、霧島くんが責任を感じる必要なんて、何一つないよ。


 彼は私に、「特別」をくれたわけでは、決してない。むしろ、「普通」を与えてくれた。

 誰にでも分け隔てなく。それがたとえ問題児なクラスメートでも、私みたいな扱いづらい病弱なクラスメートでも。霧島くんは絶対に、特別扱いをしなかった。



「俺があんなこと、言わなきゃ……」



 出雲は今も、生きてたのに。

 喉の奥から絞り出すようにそう言って、彼がその場にしゃがみ込む。


 うん、そっか。そうかもしれないね。確かに、今まで通り病室で大人しく横たわっていれば、私は今も、みんなと同じ世界線にいたのかもしれない。

 でもね。死んでしまった今年の夏の方が、楽しかったよ。って、そんなことを言ったら色んな人に怒られてしまうかな。



「霧島くん」



 ねえ、霧島くん。霧島斗和くん。

 とわって素敵な名前だ。永遠って書いて、とわって読むんだよ。知ってる? 君はサッカーに夢中で授業中寝てばっかりだから、心配だよ。


 でも、諦めないでいてくれて良かった。高校に入っても、また、霧島くんがサッカーボールを追いかけていてくれて、良かった。



「霧島くん、ありがとう」



 私がこの夏にやりたいこと。最後の一つは、「霧島くんに感謝を伝えること」。だけれど、本当は、ずっと――



「私、霧島くんのことが、好きだよ」



 自分の声が聞こえればいいのにって、触れられればいいのにって、みんなといて思った。

 でも今だけは、聞こえなくて助かった。こんなこと、面と向かって言うには恥ずかしすぎるね。


 しゃがみ込んだまま、ぼろぼろと涙を流す彼に、彼の手に、触れる。触れられないのに、触れる。もどかしくて、ぎゅっと、両手でしっかり掴んだ。



「霧島くんが泣いてるとこなんて、レアだよ。見れた私、やっぱりラッキーだ」



 その瞬間、風がやって来て、彼の前髪を優しく持ち上げる。

 霧島くんは弾かれたように顔を上げ、私の顔を真っ直ぐに見据えて、澄んだ瞳を見開いた。


 もう泣かないでね。辛い時と苦しい時は泣いていいけれど、私のためにはもう、泣かなくていいんだよ。



「……はは、」



 彼の頬が緩む。くしゃりとその顔が歪んで、綺麗な涙が一筋、伝っていった。



「うん。ありがとう、出雲」



 日焼けした腕が、目元を擦る。三回、四回、五回。そんなに擦ったら痛いよ、と途中で声を掛けたけれど、当たり前に、私の注意は彼に届かない。


 腕を退けたら、そこにはもう、いつもみたいに爽やかな笑顔の霧島くんがいるだけだった。でも、目はしっかり赤くて、それに少しだけ嬉しくなった。



「また、来るよ。来年も、足立と近江と糸川と……」



 その後も霧島くんは何か言ってくれていたみたいだけれど、残念なことに、聞き取れなかった。聴覚だけではなくて、視覚もぼんやりと靄がかかっていく。


 最後に彼が優しく手を振ったのを見て、私は夕焼けの中、自分の意思で目を閉じた。



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