着筆、掻い繰る追懐の糸
病室のベッドの中。上半身を起こして、一冊の少し大きめなメモ帳にペンを走らせる。
ふと窓の外を見れば、柔らかな日差しと共に桜の花びらが舞っていた。
私は人より、心臓が弱いらしい。「弁」が十分に動いてくれなくて、正しい方向に血液が流れていかないのだという。
息切れや動悸、呼吸のしづらさ。私の体は、着実に限界が近付いていっていた。
まだ物心もついていない頃、手術をした。そこで死んでしまう確率の方が高かったのだというのは、あとから聞いた話だ。
手術は成功したけれど、合併症に悩まされた。
お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、すごく悲しそうな顔をしていて。でも、正直に言ってしまうと、私はずっと、余生を楽しんでいるような感覚だった。だってもともとは、とっくに死んでしまっているはずだったんだから。
『出雲が学校に来るの、レアってことだろ。だから、今日会えた俺も、みんなも、超ラッキー』
私の世界は病院の中だけだったのに、霧島くんと出会ってから、学校という世界にもっと足を踏み入れたくなった。
彼のおかげで、サッカー部のマネージャーをしていた薫と友達になることができたのだ。
「遥香~! 起きてる?」
ぼんやりと桜の木を見つめていたところで、陽気な声が飛んでくる。
私は慌てて手元のメモ帳を隠し、顔を上げた。
「お、今日はちょっと元気そうじゃん」
薫はいつものように手を挙げて病室に入ってくると、私のベッド横に置いてある椅子に腰を下ろす。
中学三年生、初めて話した日から、高校生になった今日まで。彼女は唯一、マメに私のお見舞いに来てくれる友達だった。
「うん。最近結構調子がいいみたい」
「へえ、それは良かった。確かに、去年より全然学校来る日多くなったもんね、遥香」
そう相槌を打った彼女が、今日はこんなことがあったよ、と話し出す。
薫の話を聞くのが好きだ。今度は私が相槌を打って、静かに談笑する。
結構調子がいいみたい――それは、かなり調子が悪いみたい、の間違いだ。
高校生になって、薫とも霧島くんとも同じクラスになって、私は浮かれていた。なるべく行けそうな日は登校して、授業も人並みに受けてみたりして。
突然活動的になった私を拒絶したのは、私自身の体だった。どっと疲れることが多くなり、休んだ日はほぼ一日中ベッドの上で寝ていることも増えた。
寿命を削っている音がする。それも、ハイペースで。
「そんでさぁ、森先生の説教がマージで長いの。どれくらい長いかっていうと……」
うんざり、といった顔で担任の先生の文句を並べる彼女の声を聞きながら、段々と眠くなってきてしまった。我慢しつつも、少しずつ瞼が下がってくる。
たとえ寿命を削っても何でも、私は学校に行きたい。以前の自分なら、絶対に思わなかったことだ。
もう失くすはずだった命を、神様が引き延ばしてくれた寿命を、どう使うか。
これからも元気で健康で、長生きする。家族はみんな望んでくれているけれど、それが無理なことであるというのは、何より、自分がよく分かっていた。
きっと私の人生は長くない。残り僅かな時間を、どうせなら有意義に過ごしたいと思うのだ。
「遥香、聞いてる?」
ああでも、ちょっと無理しすぎたのかな。何だかすごく、眠たいや――。
「遥香? 遥香!」
薫が呼んでる。返事をしなきゃ。
頭の中で必死に、聞いてるよ、と繰り返す。
薫が何度も何度も、私の名前を呼んでいた。水の中にゆっくりと沈んでいくような感覚。
やがて誰の声も、何の音も聞こえなくなって、随分と穏やかに、私は神様から死を与えられたようだった。
死んだら天国へ行く。漠然とそう思っていた。人一倍、生死について考える時間が多かったから、私は死んだ後どうなるのだろうと、いつもそれだけが不安だった。
だけれど、ふと気が付いた時に目に入ってきたのは、天国の雲でも、地獄のマグマでもない。
いつもの病室のベッド。そこに横たわる「私」を囲む、親しい人たちの姿だった。
「遥香……」
お姉ちゃんが掠れた声で、しゃくりあげながら私の名前を呟く。その肩を抱くようにして、お母さんの腕が震えていた。お父さんの背中は、丸まっている。
普段からよく看てくれていた病院の先生と看護師さんの横顔が、痛々しげに歪んでいた。
その少し後ろで、たった一人、すっかり俯いてしまっている女の子。両手で顔を覆って、肩を震わせて、耳を真っ赤にして嗚咽を堪えている、私の大切な友達。
一体自分は、何を見ているのだろう。どうなってしまったのだろう。
私はここにいるのに、そこにも「私」がいる。みんな「私」を見て、はらはらと涙を流している。
よく分からないけれど、私はどうやら、魂だけうろついているみたいだった。
それを本当の意味で理解したのは、お葬式や火葬が行われ、私のお墓の前で、みんなが手を合わせている時。
ああ、私、ちゃんと死んだんだなって。そう思った。
***
「……これ、」
お母さんが病室の片付けをしている時だった。いつも通り、私のお見舞いにやって来る時のように現れた薫が、一冊のメモ帳を差し出して、眉根を寄せる。
「遥香が亡くなる直前まで、書いていたものだと思います。脇に落ちてて……咄嗟に拾ったんですけど、今まで持ってました。すみません」
お返しします、と頭を下げた彼女に、お母さんは一瞬黙り込んだ。それからゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取ると、ページをめくりだす。
恥ずかしいからあんまりまじまじと見られたくないのだけれど、そういうわけにもいかなさそうだ。
「薫ちゃんは、これ、見た?」
「……はい。ごめんなさい」
いいのよ、とお母さんが緩く首を振って微笑む。その指先が表紙をなぞった。
「遥香も、分かってたのかしらね。自分が生きられるのは、どれくらいかって」
もちろん正確に予測できていたわけじゃないけれど、何となく、来年の桜は見られない気がしていた。窓の外の桜を見た時、そう思った。
だから私は、残りの時間、やりたいことをきちんと遂げようと決めたのだ。
『この夏、やりたいこと』
メモ帳の表紙には、そう書いた。
夏は、私の体にとって一番苦手な季節。運動もままならないのに、暑い中、遊びに行くなんてできっこない。他の人たちがテレビの中で楽しそうに夏休みの予定を語るのを、ただ羨ましがることしかできなかった。
でも、これが最後の夏だ。やりたいことをする。本気で楽しむ、最初で最後の、夏。
たくさん友達をつくりたい。
その友達と、帰り道にアイスを食べに行きたい。
ラジオ体操に行きたい。
星を見に行きたい。
お祭りに行きたい。
花火をしたい。
海に行きたい。
思いつく限り書き出して、満足する。しばらくその文字列を眺めて、またペンを握った。
お父さんとお母さんとお姉ちゃんに、ありがとうって言いたい。
友達に、ありがとうって言いたい。
どうせなら、と思って付け加えたけれど、これじゃあ本当に、近々死んでしまう人みたいだな、と苦笑する。
ううん。いつ死んでもいいように、後悔はないように。そうする必要が、私にはあった。――だから、最後にもう一つだけ。
霧島くんに、ありがとうって言いたい。
眩しくて朗らかで、爽やかな人。たった一言で、私の世界を変えてしまった人。
彼にだけは、どうしても、伝えたかった。
そこまで書いたところで薫がやって来たから、咄嗟に隠してしまったけれど。彼女が大切に持っていてくれたと知って、安心した。
「……あの。そのメモ帳、やっぱり、少しだけお借りできませんか」
制服のスカートを力一杯握って、薫が口を開く。
「夏の間だけ……終わったら、すぐにお返しします。なので、遥香がやりたかったこと、全部、私が叶えます」
その瞳は、泣いていなかった。真っ直ぐ顔を上げた彼女はいっそ凛々しくて、頼もしい。
「こんなの、私の自己満足かもしれないですけど……でも私も、遥香ともっとこういうこと、したかっ――」
水滴が、病室の床に落ちる。お母さんの、涙だった。
「うん。……うん、ありがとう。ありがとうね……」
お母さんは、悲しかったんじゃない。私のことをこんなに大切にしてくれる人がいることに、嬉しくて泣いたのだと思う。
だって、私もそうだよ。死んでしまったら感情も失ってしまうのかなって思っていた。でも、いま、嬉しくて涙が止まらないの。
丁寧に、薫がメモ帳を両手で受け取って、ぎゅっと唇を噛む。次の瞬間には、いつもみたいに親し気な笑顔を浮かべて。
「一緒に楽しもうね、遥香」
メモ帳を愛おしそうに指でなぞりながら、そう言った。